東京の7月は、お盆の月でもあります。
菩提寺から施餓鬼会(せがきえ)を行なうとの連絡をいただき、先日(7/3)参列しました。この日は、午後1時から45分間の法話、そして2時から1時間の法要でした。
昨年も出席したのですが、母の新盆でもあったので緊張していましたし、初めてのことでしたので、「施餓鬼会はこんなものか」と思いながら過ごしました。しかし、今年は二度目ですのでやや余裕があり「法話・法要」を拝聴している最中、不遜ながら「これが何んだ」と思ってしまいました。以下は、その「何んだ」についてです。
法話は、講師(杉並にある寺の副住職とのこと)のお話が上手でしたので、聴いていてその内容・趣旨(異論はありますが)を捉えることは出来ました。何故なら、現代日本語を使ってのお喋り(失礼)でしたからです。
ところが法要です。こちらには現代日本語が全くありません。唱えられる法華経は(宗旨は日蓮宗ですので)、中国語(?)ですから私にとって全く意味不明です。そして、お経の途中に挟まる文言は中世語、この場合は、意味の判る単語が所々にありますので、何となく先祖、その他諸々を供養しているのだと言うことが分かる、といった程度です。
鉦を鳴らし、木魚を叩き、銅鑼を響かせ大声を張り上げて、これが施餓鬼会の供養だということですから、「そうか、これが供養なんだ」と思って時の経過を待つだけでした。これで良いのかと思います。
「お経の解説書やら、施餓鬼会の説明書でも読んで勉強すれば、その言っていることや、やっていることは理解できるようになる」と言われれば、その通りで一言もありません。しかし、無精で怠け者の小生には、それらを勉強しようとするその勇気は中々涌いてこないのです。ですから、こんな機会に現代日本語での説明・講釈でもしていただければ、と考えたのです。
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しかし、どうも小生が持ったこの考えは、間違いのようです。
現代の日本の宗教(仏教)は、生きている人間を相手にするのではなく、「死後の世界」を対象にし、扱うもののようです。
門徒と呼ばれる武装集団に酷い目にあった、家康はその後継政権に託し、仏教を骨抜きにして、「葬式仏教」と呼ばれるものに改変します。宗教を現に生きている現実社会の人々との関わり合いを断ち切ってしまったのです。
宗教と現実世界が切り離された結果、現実社会の人々は宗教を軽く見るといういうことになってしまいました。そして、この現実に僧侶の側も乗り、「葬式仏教」からの脱却を図ることなど、全く思いもつかないことのようになってしまいます。これが中国語と中世日本語の世界に、1時間も縛り付けて平気でいられる世界を構築しているのです。
世の中は、変化したと言いますが、我が菩提寺は、徳川幕府の残滓をいまだに引きずっているのです。それに日蓮は「『南無妙法蓮華経』が全てで、庶民はその他を考えることが要らない」とも言っています。「知らしむべからず、拠らしむべし」が生きているのです。ですから、法要の主催者は、有象無象に解説するなど「とんでもないこと」だと考えているに違いない、との思いに行き着きました。
とすれば、来年の施餓鬼会で奇妙な考えを起さないために、怠け心を改めて少し勉強するかです。しかし、どうなることやら。自信はありません。
施餓鬼会
餓鬼の世界におちて飢饉に苦しむ亡者に食物を供えて弔う法会。もともと時節を選ばずに行なわれたが、盂蘭盆会と共に行なわれることが多く、両者が混同されるようになった。真宗以外の各宗派で行なわれる。 『三省堂;大辞林』 |