主題;「北陸・能登紀行」 09.08.13~15
1.東名高速道: |
8月13日朝4時45分秦野・中井ICを出発。地震で通行止となっていた東名高速道下り線は、当日0時に開通したばかりである。 6時過ぎ大井川を渡って暫らくすると渋滞となった。通行止めの上り線に土砂を満載したダンプ車が30台ほど繋がっている。渋滞は崩落した現場を見るため速度を落とした自然渋滞であった。テレビで見た通り上り線道路半分が削られ崖になっていた。帰りの15日までには直っていて欲しいと願って通過する。 7時15分浜名湖SAに到着、浜名湖の景色を見ながら休憩を取る。40年前ここ奥浜名湖の館山寺温泉に泊まったことがある。 勤めていた会社は当時孔版印刷用のスキャナー(製版機)では市場を独占していた。 スキャナーで原稿を読み取る際レンズで絞った光信号の受光に使用していた光電管や光電子増倍管を製作していたメーカーが浜松にあり工場見学をした時の説明では「今に光子1個づつ数えられるようになる」と話していたが半信半疑で聞いていた。この時既に小柴教授の依頼を受け、ニュートリノが水の分子と衝突する際発光する光を受光する高感度の光電子増倍管を作っていたのだ。 小柴教授は1987年に超新星爆発によって飛来し、地球を通過中のニュートリノを捕らえた。ニュースになったのであろうが記憶にない。世に知れたのがその15年後2002年のノーベル賞受賞によってであった。 浜名湖から豊田までは順調に来た。小牧・一宮までは東海環状・名古屋環状他各高速道路の分岐があり時速30~40Kmとのろのろ進むも小1時間で名神高速に乗り継ぐ。 |
2.名神高速道: |
尾張一宮を通過後、木曽川・長良川・揖斐川と大きな川を次々と渡る。しばらくして古代東国との境不破関近くの関ヶ原を過ぎ、伊吹PAに至る。「壬申の乱・大海人皇子」や「日本武尊」に思いを馳せる間も無く北陸道への分岐点となる米原から北陸道に乗り継ぐ。 |
3.北陸道: |
北陸自動車道は米原から新潟まで全長476Kmと東北自動車道に次ぐ長さだ。芭蕉が出羽・越中・加賀・越前・近江へと歩いて来た道を車に乗って北上する。 琵琶湖の東岸に沿って長浜や賤ケ岳など秀吉の名が浮かぶインターを通過し敦賀に至る。 敦賀には日本武尊の子である仲哀天皇を祀っている気比神宮がある。明治になって神宮号を取得した。古代には角鹿(ツヌガ)と謂った。 日本書紀「垂任天皇」によれば任那・大加羅国の王子「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」が越の国笥飯(ケヒ)の浦に辿り着いたとある。 芭蕉は陰暦八月十四日の夕方敦賀に到着した。その日は綺麗な月夜であった。明十五夜の天気を尋ねたが、土地の人から「越路の習い明夜の陰晴はかりがたし」と聞きその日の夜に気比明神に参拝した。 「月清し遊行の持てる砂の上」 の句を残す。 敦賀から60Km北上し福井ICで北陸道を降り、お昼であったがそのまま永平寺へ向かう。 |
4.永平寺: |
20年前に永平寺を訪れている。信越化学武生工場で磁性材料の製造工程を見学した後、参詣した。当時はネクタイが緩んでいるときちんとするよう注意されたが、今回は修行中の僧侶にカメラを向けないようにとのことのみであった。 眞応2(1223)年、宋に渡った道元は寧波(ニンポー)景徳寺にて修行し曹洞宗如浄の印可を受け帰国。京師にて布教するも既存宗派の攻撃を受け、越前国山奥の地に寛元2(1244)年 永平寺(当初は大佛寺2年後に改め)を創建した。曹洞宗は時の権力の庇護を受けなかった。その点臨済宗は鎌倉五山や京都五山のように権力と結びつく。 境内の伽藍は回廊で結ばれ大勢の参詣者が右応・左応と行き交っていた。天井絵を写す。 永平寺の門前参道は市をなすほど賑やかではない。現在でも街中から人家もない山道を登って寺へ向かうのだ。芭蕉は永平寺へ行き寺を拝したと書いているが、嵐山光三郎は入ってないと推察してる。 途中の山道には大きな蕎麦屋が点々と10軒近くある。帰りに永平寺蕎麦を食べるが蕎麦は可もなく不可もなし。蕎麦屋に帽子を忘れたことに気がついたが、車はすでに福井を過ぎて東尋坊へ向かうところであった。 |
5.東尋坊: |
福井から九頭竜川流域の穀倉地帯を北上し4時過ぎ東尋坊に着く。遊歩道が整備されTVドラマで幾度となく見た断崖から海を覗く。 海が西に面しているので陽が傾くと海面に茜色の川が見えるはずだが、その時を待つことが出来ない。今夜の宿泊地金沢へ向かう。国道305号線で大聖寺川を渡り加賀ICから再び北陸道に乗る。大聖寺川は福井・石川の県境で浄土真宗中興の祖蓮如が建てた吉崎御坊跡に東西本願寺別院がある。 尼御前SAで休憩した。SAは公園になっていて松林の奥へ進むと菅笠を持った女人像が立っていた。義経一行に同行した尼さんがこの先安宅関での詮議を案じ海岸から身を投げたとのこと。 安宅PA、小松ICを通過する。小松には多田神社がある。芭蕉はこの神社 で齋藤実盛が着けていた兜を見て、 「むざんやな甲の下のきりぎりす」 の句を詠む。 金沢東ICで北陸道を下り金沢市内へ向かう。 |
6.金沢: |
夕方6時金沢駅近くのホテルに到着。かって前田藩百万石の城下町だけあって大きな町だ。 ホテルに面した表通りの食事処は予約客以外全てお断りで仕方なく裏道へ入ったところ、町の文房具屋亭主紹介の居酒屋が大正解であった。甘えびや貝・鰤の刺身と茶まめが美味であった。 茶まめは大粒の枝豆であるが薄皮が茶色で香りが良い。まめは新潟から来るとのこと。山形ではダダチャまめと言っていた。 芭蕉は風流人であるからか「おくのほそ道」には食べ物が出て来ない。しかしながら金沢では次の一句を詠んでいる。 「秋涼し手ごとにむけや瓜茄子」 翌8月14日朝9時兼六園に着く。受付に張り紙がありお盆の3日間は入場料が無料とのこと。手入れされた庭の芝と池を見て散策するが暑い。10年前に来た時も暑かった。珍しき木の実の写真を撮りながら芭蕉の句碑をさがす。 金沢人がよほど好きだったのか「あかあかと日は難面なくもあきの風」の句碑が市内犀川沿いや成学寺にもある。 |
7.能登: |
金沢から国道159号で七尾へ、249号にて珠洲を目指す。どちらも片側一車線で狭いが交通量は少ない。能登の民家の屋根はどこの家も全て黒光りで、珠洲焼きで知られる瓦吹きだ。 途中山の上に巨大なプロペラが何機も現れた。ゆっくりと回っているが発電出来ているのか? 珠洲の手前で九十九湾に寄り、水底が見える遊覧船に乗って魚を見る。入り江が深く岸まで立つ木の葉の影で海は湖のように青い。 恋路海岸・見附島(軍艦島)を見ながら能登半島北の海岸に出た。垂水の滝を過ぎ、窓岩のそばに予約した民宿曽々木荘に到着。 夕食後7時過ぎ海岸に出た。日は既に沈んでいたが、未だ少しだけ赤みが射す暮れ行く空と暗くなった海を見て暫し時を過ごす。はるか沖合いには前後に灯がついた船と思しきものが、しばらくしても位置は変わらず大きな島かと納得する。 8月15日輪島朝市を見る。100軒はある出店でアワビや蟹の高級品から河豚・鰈の一夜干し、鰯の糠漬けなどの海産物等、野菜・漬物、漆器他あらゆる物何故かマタタビの実が数件の店で売られていた。 10時半、輪島を出てしばし山道を走り穴水から県公社能登有料道路に入る。かほく市白尾ICから国道を経由金沢東ICにて北陸道へそそまま乗入れ富山方面へ向かう。8月15日の時点で東名上り線崩落現場は復旧せず、帰路は富山の砺波から尾張一宮を結ぶ東海北陸自動車道から中央道経由となった。 |
8.東海北陸道・中央道: |
東海・北陸自動車道は砺波から郡上八幡まで山また山、長いトンネルの連続である。トンネルを抜け谷底を覗けば五箇山や白川郷の合掌つくり集落を遥か下に見るほどの高い所を走る。 美濃関JCTで東海環状自動車道へ土岐JCTにて中央道に入る。 飯田からは木曽の山々を見ながら岡谷まで北上し諏訪湖から南下、大月から中央道分岐線河口湖IC(で一旦料金千円を精算)通過しそのまま山中湖ICに続き須走にて高速を降る。 御殿場から東名に入り足柄SAで(8:00PM)休憩後中井秦野ICに到着した。 |
付.走破図: |
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9.参考資料: |
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1 | 新版 おくのほそ道 | 角川ソフィア文庫 | 頴原 退蔵・尾形 仂 |
2 | 芭蕉 奥の細道事典 | 講談社+α文庫 | 山本さとし |
3 | 芭蕉紀行 | 新潮文庫 | 嵐山 光三郎 |
4 | 日本書紀 | 講談社学術文庫 | 宇治谷 孟 |