主題;「石器、それとも石のかけら」

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2008/3/7 
 鹿嶋の家の庭で、写真のような石のかけらを見つけました。庭の土は粘土が混じった砂地で、その色は薄茶色です。ですから、この石の黒色はその土の中で目立っていました。拾い上げて付着している土を取除いてみると、どうやら人の手による加工物のように見えます。これを眺めれば眺めるほど、人工の「石器」に違いないと思うようになってきました。
 そこで、今回はこの石を独断と偏見で「石器」と決めつけ、石器の周辺を調べてみました。小生の勝手な思いこみにお付き合い下さい。

1.石器(?)の詳細 (上図参照)

 材質は「黒色頁岩」と言うのだろうと思います。それ以上のことは判りません。いえ、知らないのです。その重さは70grです。そして、参考図書による形状の区分から、掻器(そうき=スクレーパ)に分類されると思います。
 頁岩の一層はかなり薄く、細かい石粉が堆積してできています。正面と裏面の所々には、その層が剥がれて光っているところがあります。
 石器の全周は、砕き落とされて整形されていて、堆積層の“縞(しま)”が見えます。正面上部のほぼ真っ直ぐな稜線、そこから下に向っての曲線、そして下部にかけて丸み具合の感じは、自然に形成されたものではないようです。下部は刃こぼれ(石こぼれ)していて、刃物を思わす鋭利な直線部はありません。裏面の右下部には、窪んでいる部分があり、ヒョッとしたら先ずここから刃先の部分が欠落し、その後、残った部分でも鋭利だったの、しばらくは使い続けていましたが、使い続けているうちにその部分も刃こぼれして、現在の形になったようにも思えます。と言うのは、全体のエッジが摩耗していて、この形になってから、かなり使い込まれたような感じがするからです。
 正面図の左端に人差し指をかけ、正面部に親指、裏面に折り曲げた中指、薬指で保持するとしっかりと手の中に収まります(右利きとして)。石器時代の日本人の平均身長は、男性158cm、女性149cmとのことです。現代人よりやや小柄ですが、その握力ははるかに強かったでしょうから、その生活の中で、これは十分な働きをしたように思います。

2.石器時代

 地球上に石の道具を作る人類が出現したのは、250万年以前といわれます。以来、人類は石の道具を使い続けます。最も早く金属器を手に入れた地域でも数千年前までは石の時代でした。人類史の大部分(99.8%)は、文字通りの石器時代です。
 そんな石の道具の歴史が、科学的な方法によって研究の第一歩が踏み出されたのは、今から150年以上も前のヨーロッパでした。(表1)。
現在では化石という姿でしか目にすることができない動物類の骨(化石動物)と、打ち欠いただけで仕上げられた簡単な作りの石の道具(石器)とが一緒となって地中に埋もれている事実が知られ始めます。最初は、偶然の発見と興味本位の収集が続くのですが、やがて積極的に地中から掘り出そうと試みる人たちがでてきます。ペルトが代表的な人物です。
 と同時に、化石動物の種類と石器の形との間に、一定の組合わせがあることも判り始めます。そのいく通りかに分かれる化石動物と石器の組合わせに注目し、それぞれの組合わせが出土する地層の深さや上下の違いにもとづいて、より深い下の地層からより浅い上の地層へと、いいかえると古い順に整理し、順番を示す世界最初の石器時代の年表(編年表)が示されます。この石器時代の編年(=考古学の年代的な序列)は、昔アナグマの時代-昔ゾウ・昔サイの時代-昔トナカイの時代-昔ウシの時代というように化石動物の違いで示されていて、ラルテ編年とも呼ばれています。しかし、まだこの時期、石器時代という名前はありません。石器時代という名称が使われだすのは、1836年以後のことです。この年、トムセンによって、人類史が石器時代、青銅器時代、鉄器時代の三時代に区分されます。そして、その約30年後に用語「旧石器時代=パレオリシック=PALAEOLITHIC」が登場します。
 1865年、トムセンによって区分された石器時代を、更に細かく二時期に分けたラボックが、新しい石器時代を新石器時代と呼び、古い石器時代に旧石器時代という名称を与えます。それ以来、用語「旧石器時代」は、人類最古の石器時代を指す名称として、今日まで使い続けられています。漢字使用圈では共通して、パレオリシックを旧石器時代と訳しています。
  その後、石器についての分類学が進み、地層学も進展し、編年の表示法も改められていきます。そして1872年には、モルチエによってヨーロッパ旧石器時代編年の基礎が築かれました。モルチエ編年は、旧石器時代の変化と時期区分を、ラルテのように化石化した動物の名前で示すのではなく、各時期の代表的な遺跡名を付した発展段階としています。
 旧石器時代は現在、広く世界的に前期(10数万年前以前、ヨーロッパではアシュール文化)・中期(約3万5千年前以前、ヨーロッパではムスチエ文化)・後期(約1万2千年前以前、ヨーロッパではオーリニヤック文化・ソリュートレ文化・マドレーヌ文化)の三つに分けられています。 この旧石器時代の区分を人類進化の段階に照らし合わせると、後期旧石器時代は新人(現代型新人)の時代、中期旧石器時代は旧人(古代型の新人)、前期旧石器時代は原人と猿人の段階にあたります。
1836年: 石器時代・青銅器時代・鉄器時代の区分 C.J.Thomsen(1788~1865)
1837年: 旧石器時代遺物の意識的収集開始 B.de Perthes(1788~1868)
  参考:1859年『種の起源
(Origin of Species)』
C.R.Darwin(1809~1882)
1861年: 最初の旧石器時代編年 E.Lartet(1801~1871)
1865年: 旧石器時代(PALAEOLITHIC)と新石器時代の区分  (用語「旧石器時代」の登場) J.Lubbock(1834~1913)
1872年: 旧石器時代編年の確立 G.deMortillet(1821~1898)
1909年: 中石器時代の設定 J.deMorgan(1857~1924)
表1  石器時代の区分と用語「旧石器時代」の登場

3.日本の石器時代

 ラボックが用語「旧石器時代」を提唱した1865年は慶応元年にあたり、徳川将軍は十四代家茂、幕府がパリの万国博覧会に参加を決定した年でした。ヨーロッパで始まった旧石器時代の研究とその後の動向が日本へ伝えられたのは、年号が明治となって11年目の1878(明治11)年、大森貝塚の発掘で著名なモースが、東京の講演会でラボックの研究内容を紹介したことによります。ですから、ラボックが提唱した13年後に、用語「旧石器時代」の存在が日本でも知られていたことになります。今から130年以上も前のことです。
 その後のヨーロッパで進展した旧石器時代研究の動向は、積極的に紹介されていました。また、日本列島にも旧石器時代が存在する可能性を説いたり、さらに一歩進めて実証しようと試みる研究者たちも現れます。しかし、日本列島に旧石器時代があった事実を裏付ける確実な証拠は得られませんでした。
 そして、1946(昭和214)年、相沢忠洋氏によって群馬県岩宿遺跡が発見されます。モースによる用語「旧石器時代」が紹介されてから68年後に、日本旧石器時代の存在が確認されたのです。今から62年前のできごとでした。
 以来、現在までに日本列島各地で発掘された旧石器時代の遺跡の数は5千個所以上にのぼっています。そして、岩宿遺跡の発掘から10年もたたないうちに編年が完成し、日本列島の旧石器時代がヨーロッパの後期旧石器時代に相当するという結論が得られています。(表2)
1878年: J.Lubbockの用語「旧石器時代」を紹介 E.S.Morse(1838~1925)
1911年: 日本旧石器時代の存在を示唆 N.G.Munro(1863~1942)
1919年: 大阪府国府遺跡の発掘 浜田耕作(1881~1938)
1931年: 日本旧石器時代の存在を主張 直良信夫(1902~1985)
日本旧石器時代存在説を批判 鳥居龍蔵(1870~1953)
1933年: 「日本旧石文化存否研究」 大山柏(1889~1969)
1936年: 「日本に於ける中石器文化的様相」 八幡一郎(1902~1987)
1946年: 群馬県岩宿遺跡の発見 相沢忠洋(1926~1989)
1949年: 岩宿遺跡の発掘 杉原荘介(1913~1983)
表2 用語「旧石器時代」の伝来と岩宿遺跡発掘以前の研究史
 ところで、日本歴史の時代区分では「旧石器時代」は使いますが、「中・新石器時代」は余り使われません。と言うのは、石器時代の旧・中・新という経済段階から見た区分は、ヨーロッパや中近東ではあてはまるのですが、北アジアや日本、アメリカなどでは、十分な区分とは云えない様なのです。つまり、これらの地域において新石器時代といわれる時代は、まだ農耕・牧畜を営む生産経済の段階ではないものを含んでいます。ただ、土器を有しているということで、前時代から区分されるのが通例です。日本においては、縄文時代が新石器時代として対応されることがあるのは、土器を有している点からなのです。

4.鹿嶋の遺跡

 この石器があった所が、茨城県鹿嶋市の郊外ですから、この付近の遺跡の状況はどんなものだろうと調べてみました。
 鹿嶋市の市内には、旧石器時代の遺跡として常陸伏見(ひたちふしみ)遺跡があります。ここは現在、清真学園の敷地内で、我が家から北西に約10km(直線距離で)の位置です。
 ここの石器集積地点からナイフ形石器、尖頭器(せんとうき)、掻器(そうき)、石核(せっかく)剥片(はくへん)石器などが検出されているとのことです。編年から見ると、この遺跡の石器は最も古い時期で二万四千年前から二万年前、新しい時期から一万五千年前とする考古学者もいるようですが、確定するには、出土層位の裏付けのある資料と石器の技術的形態的な特徴、及び使われている石材から推定できる資料(覆土中などから検出される石器)を用いて編年的な研究が今後の課題とのことです。
《要するに、この付近の石器はいつ頃のものかは、明確に決められない、ということ。》
 また、鹿嶋には石器の原材料となる原石が露呈している場所はなく、銚子半島・利根川流域・那珂川・久慈川流域から手に入れていると考えられていますので、これらの地方と既に交易があったことのなります。
 いずれにせよ、この石器はこの近隣に住居した古代人が使っていたものと云えるようです。

5.あとがき

 我が家は傾斜地に土盛りした土地に建っています。ですから土盛りのために使われた土は、この近所から運び込まれたものと思われますが、この土が何処から運ばれたのか、今となっては調べようもありません。そんな土の中から見つかった石片(たとえ学術的に石器としても)ですから、歴史的埋蔵品としての価値はないように思います。
 ですが、この石器を見ていると、どんな人がこれを使っていたのだろうと思います。掻器として使われていたのでしょうが、どんなものを剥がしていたのでしょうか。猪、鹿、兎、鳥、魚などの肉でしょうか。
 ただ、上述したように刃先と考える部分は欠け落ちていて、鋭利さがなくなっています。ですから、「こんものは使えない」と投捨てたものかも知れません。それがいわゆる遺跡として残っている場所でなく、獲物を追っての野営地であり、その土が庭の土として運び込まれた。そして、数千年の後、地表に現れ人目に触れたと言うことになります。
 ところで思いを飛躍させると、「こんものは使えない」と思った時、どんな言葉を使っていたのでしょうか。原日本語でしょうか。それとも今となっては追跡しようもない言葉だったのでしょうか。

 そんなことを思いながらボンヤリしていると、正しく「酔夢」です。今回は小生の独断にお付き合いいただき、ありがとう御座いました。

蛇足;石器捏造事件

 ところで「石器」の話になると、「旧石器発掘捏造事件」について素通りするわけには生きません。以下はその顛末です。

 2000年(平成12)11月5日、毎日新聞の朝刊一面で旧石器遺跡の捏造事件が大きく報じられ、考古学および文化財関係者のみならず、日本中に衝撃が走ります。前期旧石器時代の遺跡とされている宮城県築館町上高森遺跡で、調査者がこっそりと自分の手で石器を埋め、後からそれを掘り出しては、あたかも実際に掘り当てたかのように演出していたことが暴露されたからです。調査を行なっていたのは、東北旧石器文化研究所と東北福祉大学で編成された調査団でした。東北旧石器文化研究所とは民間の研究団体で、宮城県から非営利組織NPO法人の認証を受けていました。発掘の提造を演出した人物は調査団の団長でもある、研究所の藤村新一副理事長です。5日の昼に藤村氏は宮城県庁で記者会見をし、上高森遺跡と北海道新十津川町総進不道坂遺跡で石器を埋めて、発掘を捏造していたことを公式に認めて、謝罪をしました。
 旧石器の第一人者と言われていた人物が世界的発見を自ら捏造していたという、日本の考古学史上前代未聞の出来事が起きました。
 発掘の捏造は、2000年10月に上高森遺跡で出土した石器65点のうち61点、9月に総進不道坂遺跡で出土した29点の石器だけにすぎず、その他の調査で工作は絶対にしていないと藤村副理事長本人が強く否定しましたが、この二回以外にも捏造を行なったのではないかと、当然のように疑惑の目が向けられました。
 彼が遺跡の調査に関係し始めたのは、約25年前にさかのぼります。76年に行なわれた宮城県岩出山町座散木(ざざらぎ)遺跡の第一次調査から、遺跡の発掘に参加していました。座散木遺跡から出土した石器は4万6千年前とされ、当時最古の石器と見なされます。その後、彼の参加した旧石器遺跡の調査によると、83年に宮城県大和町中峰C遺跡から14万~38万年前の石器、84年に宮城県古川市馬場壇A遺跡からは20万年前の石器、88年に高森遺跡から50万年前の石器が出土します。そして、92年に高森遺跡のそばで上高森遺跡が発見され、93年から調査が開始されました。93年の第一次調査で、すぐさま40万年前の握斧(ハンドアックス)が見つかり、翌年の第二次調査で50数万年前の石器埋納遺構が検出されます。そして95年、98年、99年、2000年と毎年のように調査が実施され、見つかる石器もさらに10万年以上古くさかのぼっていきました。
 99年の調査では60万年以上前の石器が出土したと報じられます。出土する前期旧石器の年代が古くなる一方で、拡大する研究所の活動範囲に呼応して、見つかる旧石器遺跡の分布範囲が宮城県から福島、群馬、埼玉、北海道へと広がっていきます。2000年3月には、福島県安達町の一斗内松葉山遺跡から70万年以上前の石器が出土したと伝えられ、99年6月には埼玉県秩父市長尾根遺跡から35万年前の石器が見つかり、関東地方でも原人の痕跡が発見されたとして、大騒ぎとなっていきます。翌年同じ遺跡から、今度は35万年前の原人の墓とおぼしき土墳が検出されます。また、近くの小鹿坂遺跡から50万年前の世界最古の建物跡らしき柱穴も見つかります。これら世紀の重大発見が、ほぼ藤村氏一人の手によって達成され、彼は「神の手(ゴッドハンド)」と呼ばれていたのです。
 日本の旧石器時代は、主に3万5千年~4万年前から始まったと考えられていました。数10万年前から堆積した関東ローム層の最上部、立川ローム層から石器が出土しているためです。全国的に同じ年代に相当する地層から石器が出土するために、この時期から日本の旧石器時代の幕が上がったと判断されていました。当然、日本の旧石器時代は世界的にみると後期旧石器時代に属し、それ以上古くさかのぼる遺跡は存在しないとされていました。ところが、80年代初頭に座散木遺跡で4万6千年前の石器が出土して以来、宮城県を中心にして、後期旧石器時代よりも古い前期旧石器時代の遺跡が次々に発見され、最古の記録が塗り替えられていきます。
 遺跡の年代が古くなっていくにしたがって、その遺跡によって代表される日本列島にいた最古の人間像も、新人から3万5千年~10万年前の旧人、そして50万年前に生息していた北京原人よりも古い原人へと、わずか15年ほどで大きく変転していこことになります。ついには、年代が古くなるだけでなく、精神活動を示すとされる石器埋納遺構、墓、建物跡、祭祀遺構までもが続々と発見されます。このような遺構から高度な原人の知能がうかがえるとして、従来の定説を覆す新しい原人像を、世界に向けて発信する勢いにまでなっていたのでした。
 しかし、ごく一部の研究者の間には、藤村氏の発見に疑問を投げかけていました。その理由は、出土した前期旧石器の形態に原始的な要素が少なく、押圧剥離という高度な技法が施されて、新しい時代の石器の形態を見せていたからです。また、出土層位の年代測定のあいまいな点や、石器があまりにも水平に出土し、あるいは直線的に並んだりして、通常の旧石器遺跡で見受けられる出土状態とかなり違う様子が指摘されていたのです。宮城県の前期旧石器に異議を唱えた数編の論文は、学界で相手にされることもなく、藤村氏の偉業は続きます。
 それどころか、彼の発見した遺跡は考古学の専門書をはじめ、各種の大衆向け出版物でも取り上げられます。さらに、全国で発掘された逸品を紹介する文化庁企画の展覧会でも展示されます。捏造が発覚した時、現行の高校日本史の教科書26冊のうち14冊に、上高森遺跡のことが記載されていて、50万年前もしくは60万年前と記すものが多かったのです。つまり、彼の発見した前期旧石器遺跡が全く疑われることなく世に伝えられ、わずか10年ほどで前期旧石器時代の学術的評価が社会的に定着するとともに、日本歴史の黎明が一挙に60万年以上もさかのぼったのです。
 ですが一方で、彼の偉業に対する疑惑の念はなかなか消えませんでした。2000年2月に秩父市小鹿坂遺跡での柱穴遺構発見を報じる読売新聞の記事では、わざわざ文末に「前期旧石器時代の遺跡の発見に、必ずと言っていいほど東北旧石器文化研究所の藤村新一副所長がかかわっていることを根拠に、その信頼性を疑う向きが少なくないことだ……学問の発展のためにも、批判をする場合は、現場を見た上で建設的に行なうべきだろう」と記していて、いみじくも不信が依然として根強いことを物語っていました。そして皮肉なことに、この記事の主張とは裏腹に、建設的な学問的批判どころか、新聞報道のスクープによって、あっけなく捏造疑惑に決着がついたのでした。

 捏造事件が報道されてから、考古学の分野で最も権威ある学会とされている日本考古学協会が、11月12日に緊急委員会を開き、藤村氏の退会処分を全会一致で決めます。また、協会の委員を務めていた東北旧石器文化研究所の鎌田俊昭理事長が、委員辞任願いを提出して、受理されます。 そして、「新発見こそが重要であるかのような誤解や誤った風潮」を社会的に生み出していたこと、「資料の公開と多様な意見の研究者による相互批判」が十分でなかったことを反省するという、委員会の見解を発表します。さらに12月16日に、前期旧石器問題について取り組む特別委員会を設置することに決めます。この特別委員会の目的は、疑惑のもたれている遺跡の検証を行ない、前・中期旧石器時代研究の現状を整理、総括して、論点を明らかにすることでした。
 今日、日本考古学協会による検証のための発掘調査により藤村氏が関与した39遺跡・地点は全て捏造であったことが証明されました。日本の旧石器時代の前・中期旧石器時代を示す遺跡・遺構・遺物は、一部の痕跡的な資料は除き、ほとんど存在しない、との結論になっています。

 藤村氏は、何故この様なことを企み、実行したのでしょう。その心の内を聞いてみたいものです。

参考図書

図説 石器入門事典 先土器  加藤 晋平・鶴丸 俊明 著 柏書房
考古学の最前線 -ここまでわかった日本列島- 
安蒜 政雄・石川日出志・岩崎 卓也・大塚 初重・鈴木 公雄著
学生社
遺跡の発掘の社会史
 発掘捏造はなぜ起きたか 森本 和男
彩流社
図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編  鹿嶋市文化スポーツ振興事業団 鹿嶋市