主題;「道」について

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2007/5/22 
 この文字を訓読みすると「みち」、音読みすると「どう(呉音)、とう(漢音)」となります。そして東海道、山陽道、中山道などのときの「道」は、「みち、通行するところ」を意味しいますが、北海道の「道」は、「行政上の区画」を表しているとのことです。
 そこで今回は、同じ「道」が、何故、使い分けられているかの、お話です。

1.五畿七道(ごきしちどう)

 五畿七道とは、律令体制下における地方行政区分の総称です。五畿は畿内を構成 する五国、七道は畿外諸国を構成する東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道のことを言います。そして、五畿七道は、左右京以外の全領土を表し、京を含む全国を示す場合には、「左右京五畿内七道諸国」と表記しました。
 畿内は、国家の中枢地域に設けられた特別行政区域で、大化の改新の際に制度化されました。この地域は、大化前には「ウチツクニ」と呼ばれた地域と考えられ、当初は大和(大倭・大養徳)・河内・摂津・山城(山背)の四国から構成されていました。その後、大和・河内の両国に若干の変遷がありましたが、天平宝字(757) 年に和泉国が河内国から分立して、畿内は五国から構成され、五幾、五畿内と呼ばれるようになります。
 畿内は王幾、都幾、邦幾などとも呼ばれ、本来は都の周囲の一定範囲を天子の直轄領域として区別する中国の伝統的な制度です。我が国の畿内制もその影響を受けていますが、都を大津宮に遷(うつ)しても境域が変らなかったように、範囲が固定していてることが、中国の制度と異なる点と言われます。
 一方、七道は本来都城を中心とし、そこから放射状に伸びる官道を意味していました。即ち、東日本の太平洋岸を通る東海道、列島中央部を貫く東山道、日本海岸沿いの北陸道、西日本の日本海岸を走る山陰道、瀬戸内海沿岸を大宰府まで伸びる山陽道、淡路島から四国へ通じる南海道、そして大宰府を起点に九州を走る西海道です。これらの官道は諸国の国府を結ぶものであり、三十里(約16km)ごとに駅家が設けられた駅路(えきろ)でもありました。駅路はその規模により大路(たいろ)・中路(ちゅうろ)・小路(しょうろ)に区分され、大路は山陽道、中路は東海・東山道、小路はそれ以外の四道となっていました。大路の駅家には駅馬二十匹、中路には十匹、小路には五匹置かれることになっていました(『令集解』厩牧令(くもくりょう)置駅馬条)。その後の変遷により、令条が守られていない駅家も多くありました。
 『延喜式』による駅路は、時にそれから支路が分岐していますが、基本的に一本の経路で諸国を結んでいました。しかし、西海道は大宰府を起点に六方に分かれていました。これは大宰府が「遠(とお)の朝廷(みかど)」として、いわば九州における都城としての位置づけを与えられていたことによります。駅路は遷都をはじめとする政治的理由や自然条件などを理由に、一部変更されることも多々ありました。これらの官道の遺構は、発掘調査によって各地で確認されています。駅路はできるだけ直線になるように設定され、両側に側溝を持ち、その幅は12~6mもある大規模なものでした。
 そして、七道は官道が貫く諸国のうち、畿内部分を除く諸国を包括する地域名としても用いられています。これら諸国の分立には改変がありましたが、弘仁十四(823) 年の加賀国設置を最後に五畿内を含め六十六国二島に確定しました。このうち武蔵国は、当初東山道に所属していましたが、宝亀二(771) 年東海道に所属換えとなり、それに伴い両方の駅路の経路は変更されています。
七道には、道ごとに節度使(せつどし)や巡察使などが派遣されることがありましたが、道は独自の行政機関としての位置づけを与えられていません。なお天武天皇十二(683) 年から十四年にかけて諸国の境界を画定し、同年には諸国の国司、郡司(正しくは評司)、百姓の消息を巡察する東海・東山・山陽・山陰・南海・築紫使者が派遣されていますので(北陸使は記録にありません)、この頃には七道が成立していたと考えられています。
 下表は、五畿七道を一覧にしたものです。
道名
・国数
国 名 大小 管郡数 遠近 道名
・国数
国 名 大小 管郡数 遠近
畿 内

 五ヶ国
山城国 北陸道

七ヶ国
(小路)
若狭国
大和国 15 越前国
河内国 14 加賀国
和泉国 能登国
摂津国 13 越中国
越後国
山陽道

八ヶ国
(大路)
播磨国 12 佐渡国
美作国
備前国 山陰道

八ヶ国
(小路)
丹波国
備中国 丹後国
備後国 14 但馬国
安芸国 因幡国
周防国 伯耆国
長門国   出雲国 10
石見国
東海道

十五ヶ国
(中路)
伊賀国 隠岐国  
伊勢国 13
志摩国 南海道

六ヶ国
(小路)
紀伊国
尾張国 淡路国
三河国 阿波国
遠江国 13 讃岐国 11
駿河国 伊予国 14
伊豆国 土佐国
甲斐国
相模国 西海道

九ヶ国
二島
(小路)
大宰府
武蔵国 21 筑前国 15
安房国 筑後国 10
上総国 11 豊前国
下総国 11 豊後国
常陸国 11 肥前国 11
肥後国 14
東山道

八ヶ国
(中路)
近江国 12 日向国
美濃国 18 大隅国
飛譚国 薩摩国 13
信濃国 10 壱岐島
上野国 14 対馬島
下野国
陸奥国 35
出羽国 11
(『令義解』厩牧令、『延喜式』民部・主計による)

2.北海道(ほっかいどう)

 北海道の「北海」は、幕末の蝦夷地探検家松浦武四郎が明治政府に提案した6つの候補名の一つ「北加伊」と、五畿七道の「道」によります。
 明治2(1869)年8月15日の太政官布告により、明治政府は開拓使を設けた際、それまで「蝦夷地」と呼ばれていたものを、「北海道」と改称しました。北海道は、47都道府県の中で唯一の「道」という行政区画名を用い、その範囲は北海道本島、およびその属島に北方領土を加えたものです。
 また、北海道は地名でもあります。ですから、沖縄(地名)と沖縄県(行政区画名)のように、「北海」と「北海道」という使い分けができません。「北海道」は地方公共団体としての都道府県の意味もありますので、この場合の略称として「道」と表現することがあります。
 ちなみに、松浦武四郎が提案した6つの候補名は、次のようでした。
「日高見」「北加伊」「海北」「海島」「東北」「千島」。

3.街道(かいどう )

 町の広い道のことで、転じて都市と都市・地方を結ぶ主要道路を指すことが一般的になっています。地元民はそれを往還ともいうこともあります。古代律令制では京師から全国へ通じる七道が定められていたことは上記の通りです。律令制崩壊後は、国司や荘園領主がこれらの街道を管理しました。鎌倉時代には、京都と鎌倉を結ぶ東海道が最重要の街道となり、そのほかの各地と鎌倉を結ぶ街道は鎌倉道、鎌倉街道と呼ばれました。
 戦国大名のなかには領内の重要な街道に宿を設置して伝馬を配備した例もあり、それを徳川政権が拡大的に継承しました。幕府は江戸を中心に東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中のいわゆる五街道を設定して道中奉行の管轄とし、各宿に一定の伝馬を常備させました。人々は中山道を中仙道・木曾路、甲州・日光道中を甲州海道・日光街道などとも称しましたが、享保元(1716)年に幕府は前記のような名称に正式決定しています。
 東海道には美濃路・佐屋路・本坂(ほんさか)通、日光道中には壬生(みぶ)通・水戸佐野道・例幣使(れいへいし)街道・御成道の付属街道があり、これらも道中奉行の管轄でした。五街道とその付属街道以外のものを一般に脇街道・脇往還と言いましたが、それにも重要度の高低があり、幕府からみて特に重要度の高い脇街道は、東海道四日市と伊勢山田を結ぶ伊勢路、大坂から小倉を経て長崎を結ぶ中国路・長崎路、江戸から中山道高崎や追分(おいわけ)を経て佐渡と結ぶ佐渡路(それぞれ三国通・北国街道ともいう)です。これらは五街道とその付属街道に匹敵し、幕府勘定奉行の差配の下に代官などが管掌しました。
 これ以外の一般道の重軽度は、それぞれの当該領主役所やその住民の判断によるもので、村人からみれば近隣の都市と通ずる往還が最重要の街道だったことは当然でした。そして、それらの街道名称は、たとえば千葉街道、柴又街道というようにその到達地で呼ぶことが多くありました。これらの街道名称は、現在では国道何号線というようになっていますが、地元では根強く残っています。

4.東海道(とうかいどう)

 大宰府が「遠の朝廷」として機能していた時代には、山陽道が我が国の最重要の駅路でした。しかし、律令制が崩れ、鎌倉幕府が成立してからは、東海道がその地位を占めるようになります。そして現代でもその位置づけを引継いでいます。
 そこで、この道の律令期(古代)と江戸期の経路について概観してみます。

 1)律令期

 『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条による東海道の経路は、まず近江国内で北陸道・東山道と別れ、伊勢国鈴鹿駅で志摩国への支路を分岐します。次に駿河国横走(よこはしり)駅で甲斐国への支路を分岐し、下総国井上(いかみ)駅で上総・安房国への支路を分岐します。そして、常陸国府を本道の終点としますが、そこから陸奥国松田駅へ向う東山道との連絡路が存在しました。
 初、尾張国が東山道に所属していたとすれば(この可能性が高い)、当時の駅路は、伊勢もしくは志摩国から伊勢湾を渡って渥美半島の伊良湖岬に達していたことになります。同様に、武蔵国が東山道に所属していた当時は、走水(はしりみず)から、東京湾を渡って上総国へ達するのが正式のルートで、このことは上総・下総の国名の順序にも反映されています。東海道の名称もこのように本来海を渡っていたことに由来すると考えられています。

2)江戸期

 徳川家康がそれまでの東海道とその宿を基盤にして、慶長六(1601)年に改めて宿を設置しました。一般には江戸日本橋を基点に、品川から大津宿を経て京都に至る126里余(約495km)の五十三次を言いますが、大津よりさらに西へ伏見・淀・枚方・守口宿を経て大坂に至る五十七宿の137里余(538km)を指すこともあり、道中奉行は後者の道筋を管轄しました。宿場は、当初から揃っていたわけではなく、追加的に慶長七(1602)年に岡部、同九(1604)年に戸塚、元和二(1616)年に袋井・石薬師、同四(1618)年に箱根、同九(1623)年に川崎、寛永元(1624)年に庄野が宿に取り立てられて五十三宿が成立しました。
 東海道は参勤交代で利用する大名が多く、江戸時代後期には百四十四家に及んでいます。当初は軍事・政治的意味合いの濃い街道で、箱根と新居(あらい)に関所を配備しています。また、新居・舞坂間の今切(いまぎれ)渡し以東の大河川には橋が架けられていませんでした。それでも恒常的な参勤交代などの大通行によって宿場の諸施設が整うことにより、それを利用する庶民の旅人も増加してきます。後期の平均的な宿場施設は、一宿に本陣二、脇本陣一・旅籠(はたご)屋五十五軒、宿場の町並みは十八町、隣宿への距離は二里十三町でしたが、宿場によって様々でした。
 庶民の旅先の多くは伊勢神宮でした。東方からの旅人は東海道四日市宿を過ぎて伊勢路に入り、西方からの旅人は関宿から伊勢別街道の経路を通っていました。旅人が増加すると地図・道中記などの旅行案内書が出版され、十辺舎一九『東海道中膝栗毛』などの東海道関係の各種の出版物も著されると、それがまた旅人の増加に作用しました。宮・桑名宿間の七里の渡しを迂回する佐屋路や、宮宿から名古屋を経て中山道大垣宿に至る美濃路も東海道の付属街道で、浜名湖北岸の本坂(ほんさか)通も明和元(1764)年より付属街道として道中奉行の管轄となっていました。

5.あとがき

 幕末のスローガン「尊皇攘夷」「王政復古」の反映が「北海道」でした。「道」が、律令時代の行政区画名だとは知りませんでした。だとすれば、現在「管内」と呼ばれる区域を「国」するのが、もっと正確な反映だと思うのですが、何故か採用されませんでした。例えば、渡島国、宗谷国、根室国などと称したとすれば、北海道の歴史は変っていたに違いありません。
 そして今、現行の府県制を改め、数府県を包括する道、または州を置く道州制が議論されています。これは、社会的諸条件の変化に伴う現行制度の行き詰まりを広域行政によって打開しようとするものです。確かに明治以来の中央集権的な行政は、多くの弊害を生みつつあります。大いに議論・検討すべきです。

 行政区画の「道」が道の「道」と混戦して何時のことながら、まとまりのない話になってしまいました。そこで、その蛇足を少々。
 律令期の国名の中には、「前、中、後」「前、後」「上、下」「近、遠」という字が付いている国があります。しかし、「後」は付いても、「前」の付く国名はありません。何処でしょうか。
今回は、この辺りで失礼を!!
  

参考図書

歴史 考古学大辞典 吉川弘文館
朝日百科 日本の歴史2 古代 朝日新聞社
北海道まるごと早わかり      北海道新聞情報研究所編 北海道新聞社