主題;「中江兆民」について
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2007/5/9 |
本誌の第107号「摺付木(すりつけぎ)」で、国産燐寸(マッチ)の創始者・清水誠の顕彰碑が亀戸天神社境内にあることをお話しましたが、その顕彰碑の直ぐ側に「中江兆民翁之碑」と記された高さ2.5mの自然石の碑があります。 この碑を見たとき、「中江兆民」と読めても何処かで聞いたことがある名前だと思った程度で、これが日本の自由民権思想に大きな影響を与え、「東洋のルソー」と呼ばれた人物のものであるとは、思いもよらないことでした。社務所に尋ねてみると、それは正しく「中江兆民」の碑だったのです。 そこで、今回はその「中江兆民翁之碑」に誘発されて、その伝記や思想の若干を調べてみました。 |
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1.伝記 |
中江兆民 ナカエチョウミン 本名篤介(とくすけ)(1847~1901) 明治時代の思想家、評論家。弘化四(1847)年、中江卓介の長子として高知城下新町に生る。幼名竹馬、號は初め青陵、秋水、南海仙漁、木強生、火の番翁などを用ひたが、のちには専ら兆民を用ふ。 安政六(1859)年、歳十三にして父を喪ひ、爾後貧窮のうちに母の薫陶によって成人した。文久、元治の交、十七八歳にして萩原三圭、細川潤次郎に就いて蘭書を學び始めたが、慶應元(1865)年、十九歳の時、高知藩留學生として長崎に遊學し同藩岩崎彌太郎の監督の下に、佛蘭西學を平井義十郎に學んだ。居ること二年、同三(1867)年郷黨の先輩後藤象二郎に旅費を給せられ外國船に投じて江戸に出で、村上英俊の塾に入って佛蘭西學を學び、抜群の成績を示したが、幾許もなく遊蕩癖が禍して破門され、去って横浜に移り、天主堂の僧に就いて研究を續けた。同年十二月、兵庫及び大阪開港の際、佛蘭西公使レオン・ロッシュ及び領事レックの通辯官として西下したことは、僅か二十一歳の青年としては異常の學力を認められたものと思はれる。 明治維新の後、箕作麟祥の門に入って佛學を修め、また一時は大學南校の助教授を勤めた。明治二(1869)年福地源一郎の私塾日新社に入門し、その塾頭となる。四(1871)年二十五歳の時、苦心して大久保利通に接近し、これに後藤象二郎、板垣退助らの保証を合せ得、三巨頭の推挽によって司法省出仕に任じ、佛蘭西留學を命ぜられ、岩倉大使に随行して渡歐した。滞佛三年、時恰かもナポレオン三世の帝政瓦解の後で、民主主義的自由主義思想の深い感化を受け、主として研究したのは法律にあらずして、哲學、史學、文學であり、また『孟子』『文章軌範』『日本外史』等の佛譯を出した。巴里、リオン等に滞在中に交遊した同胞は、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、飯塚納ら何れも當時の佛蘭西の政情を研究し、自由民権思想の長を採って故國に移植せんとした進歩主義の青年達であった。 七(1874)年帰朝、元老院書記官に任じ、大井憲太郎、島田三郎、司馬盈之らと官を同じくしたが、同院幹事陸奥宗光と相容れずして罷め、ついで外國語學校長に任ぜられたが幾許もなく辞し、麹町番町に佛學塾を興して専ら塾生の教育に従ひ、政治、法律、歴史、哲學を講じたが、出入する門生前後二千余人、鬱然(うつぜん)*1 として進歩的好學者の一城府をなした。 爾来専ら佛學塾の経営に力を注いだが、時恰かも自由民権思想の勃興期に當り、明治社會の躍進は遂に彼をして單なる學究たるに止らましむること能はず、十四(1881)年三月より四月にかけて『東洋自由新聞』が発刊せられ、佛蘭西帰りの西園寺公望が社長に挙げられるや、篤介また迎へられてその主筆となり松澤求策、松田正久らと共に自由民権の気運を促進し、同年板垣退助の自由黨組織に際してはその創立に参画し、十五年二月佛學塾より雑誌『政理叢談』(のち『歐米政理叢談』と改題)を発行、ルーソーの民約論*2 を『民約譯解』として譯載し、また同年六月自由黨の機関紙『自由新聞』の発行されるや、推されてその社説班に加はり、盛んに自由平等の政治論を主張して薩長藩閥の政府を攻撃した。然るに同年十一月板垣の外遊を機として自由黨に内紛起り、十六(1883)年初めには自由黨及び自由新聞と絶縁するに至り、専ら著譯述に従事し、同年後半には『非開化論』(ルーソー原著)を公刊し、また文部省の依嘱に応じて『維氏美學』(ウエロン原著)を完成し、十八年再び文部省の依嘱により『理學沿革史』(フイエー原著)を譯出し、『理學鉤玄(こうげん)』を公刊し、二十年四月には『國民之友』第三號に『酔人之奇論』(『三酔人経綸問答』の冒頭に當る部分)を発表し、ついで夏には『平民の目ざまし』を公刊し、珍しく英國流の政治論を試みた。 篤介が著述に専心してゐる間に、社會では十五(1882)年の福島事件(河野廣中)以後、十八年の大阪事件(大井憲太郎)まで、自由民権を標榜する暴動擾乱相次いで起り、二十(1887)年井上外相の條約改正失敗するや、また物情騒然たるものあり。かくして同年十二月保安條例は発布され、篤介また東京を放逐され、大阪に移った。二十一年の大阪は正に日本における民権運動の中心地たる観があり、言論出版集會何れも此處に本拠を移し、この間にあって同志と『東雲新聞』を創刊し、自らその主筆となった。此頃有名な『三酔人経綸問答』が公刊され、これと前後して『革命前法朗西二世紀事』が公にされた。 二十二(1889)年憲法発布と共に保案條例が解かれるに及び、再び東京に移り、後藤象二郎の大同固結運動の機関紙「政論」の主筆となったが、後藤の入閣により解体し、二十三年同志と共に自由黨の再興を計り、第二次『自由新聞』を起してその主筆となり、また『あづま新聞』の発行せらるるやその客員ともなり、二十四年別に「立憲自由新聞」を発行してその主筆となり、橡大(てんだい)の筆*3 を揮って民黨の糾合に努めた。先に二十三年第一次總選學に際し、大阪第四區より擁せられて代議士に選ばれたが、二十四年豫算削減問題につき、自由黨中の土佐派が政府に款を通ずるや、憤懣やる方なく遂に辞職した。ついで立憲自由黨が分裂するに及び、新井章吾らと半月刊雑誌『自由平等経綸』を発行、また『立憲自由新聞』を改題して『民権新聞』となし、政府及び吏黨の攻撃、民黨たる自由、改進両黨の提携を説き、大隈、板垣両黨首を會見せしめるに至ったことは、その功績である。 同年北海道小樽の『北門新報』の主筆として聘せられ、在ること一年、二十五(1892)年八月退社し、居を札幌に移し、大いに貨殖の道を計って他日雄飛の資を積まんと実業界に身を投じ、先づ紙店を開き、ついで北海道山林業を起したが何れも失敗した。同年末北海道より帰京、爾来東京、大阪の間を東奔西走、以て貨殖の途に腐心したが、その商人たるべく余り理想家であり、學者であったため、得たものは失敗と損害の連續であった。ここにおいて再び政界廓清(かくせい)*4 の大旆(だいはい)*5 を掲げ、民黨聯合の急を説くと共に、藩閥と堕落野黨との打倒を目的として立つこととなり、三十一(1898)年國民黨を組織してその盟主となり、機関紙『百零一』を発行したが、幾許もなく資金欠乏のため中絶した。三十三年十月以後『毎夕新聞』の主筆となり、また北清事變後には露國討伐を標榜して立った國民同盟會に参加して大いに奔走した。 同年十一月以後咽喉病を発したが、翌三十四(1901)年三月営利事業に誘はれて大阪に赴き、四月以後病臥するの止むなきに至り、ついで泉州堺に寓居して静養に努むるも、しかも医師より余命一年半と宣告され、ここにおいて名著『一年有半』(別名「生前の遺稿』)を執筆、八月三日脱稿した。九月十日病を推して帰京、十三日より『續一年有半』(一名「無神無霊魂』)を執筆、二十三日これを脱稿した。越えて十二月十三日、喉頭癌の為め小石川武島町の自宅に歿す。年五十五。 この伝記は、平凡社刊『日本人名事典4』から取ったものです。この事典は1937(昭和12)年の初版で1979(昭和54)年に覆刻版第一刷が発行されたものです。ですから、現在では使われていまい字体や言い回しがありますが、そのままに採用してみました。 注; *1 鬱然=勢いの盛んなさま。 *2 民約論とあるが、『社会契約論』のこと。 *3 橡大の筆=たるきのような大きな筆。転じて、立派な文章。 *4 廓清=悪いものを取り払って清めること。 *5 大旆=天子、将軍が用いた旗。堂々たる旗印。 |
2.思想 |
中江兆民の思想が顕著に表れているのは、最晩年の著述である『一年有半』正・続である。この両書は共に、門弟幸徳秋水に託されたもので、著者に代って秋水がこの書が成立した事情を序文の中で明らかにしている。それによれば、兆民は自分の哲学を「ナカエニスム」とも名づけられるほどの哲学体系として形成したいと考えていたが、突然我が身が不治の病に冒されていることを宣告されてから、万巻の書を備えて組織な哲学体系を形成するという多年の夢を放棄して、構想を練り推敲を重ねる暇もないほどの短期日のうちに、自らの哲学の大要だけでも後世に書き残しておこうとした。 「一年半、諸君は短促(たんそく)なりと曰(い)わん、余は極めて悠久なりと曰う、若し短(みじかし)と曰わんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時(せいじ)限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す短には非ざる也、始より無き也、若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや、嗚呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕(がさい)は是れ、虚無海上一虚舟」(『一年有半』第1) と兆民は記している。ここには死を前にして、しかも死から目をそらすことなく、余命一年半を淡々と語らんとする1人の哲学者の人生観が、描かれている。 また、兆民の哲学的著述には、若き日の労作として『理学鉤玄』がある。この著書は後世名著として定評あるもので、特に幸徳秋水は「古来の哲学諸派の学説を網羅して、能く其鋼を提げ要を撮り、一読容易に泰西哲学の何物たるを解するを得て、大に本書を看る人の参考と為るのみならず、其文章も亦蒼勁(そうけい)精練、優に後進の模範となる」(『続一年有半』への序文)と高く評価している。しかし、「東洋のルソー」と呼ばれるこの哲学者の唯物論の立場が要約されているのは、小冊子『一年有半』であり、わけても「一名無神無霊魂」と題されたその続編である。 兆民は、「我日本古より今に至る迄哲学無し」(『一年有半』)と言う。彼によると、本居宣長や平田篤胤などは、古い言葉を研究した一種の考古学者にすぎず、伊藤仁斎や荻生狙徠なども、もっぱら中国古典を研究した古典学者にすぎないと言う。兆民は「哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」(同)と言うのである。さらに、国に哲学がないというのは、家の床の間に掛け物がないのと同じであり、やがては国の品格を落とすことにもなりかねないのであり、ドイツやフランスが世界に誇りうるのは、実にカントやデカルトを生み出したからなのであると述べ、哲学の礼賛の言葉は書中いたるところにみられる。「諸君の志を伸べんと要せば、政治を措て之を哲学に求めよ、蓋し哲学を以て、政治を打破する是なり」(同)と兆民はいう。 兆民の意味する哲学とは、民主主義運動を反映した無神論的唯物論の哲学であると考えられる。兆民の念頭には、18世紀フランス唯物論を模範とする想念がつねに働いていた。それ故、プラトンやデカルト、ライプニッツなどの系列につらなる観念論哲学をことごとく否定する。即ち、このような観念論の哲学者たちは、人間が知らず知らずのうちに生み出した宗数的偏見に拘束され、そのうえ形而上学的虚構を形成している、それなのにかれらは、この点を何ら反省することなく臆面もなく著述しているのは笑止千万だ、と非難する。そして、兆民は自分の哲学する立場を次のように語っている。「余は理学[哲学]に於て、極めて冷々然として、極めて剥出しで、極めて殺風景にあるのが、理学者の義務否な根本的資格であると思うのである。故に余は断じて、無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説〔唯物論〕を主張するのである」(『続一年有半』第1章)。「精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである、本体は五尺躯である、此五尺躯の働きが、即ち精神てう霊妙なる作用である」(同)とも書いている。 さらに、「躯殻〔身体〕は本体である、精神は之れが働らき即ち作用である、躯殻が死すれば精魂は即時に滅ぶるのである、夫れは人類の為めに如何にも情け無き説ではないか、情けなくても真理ならば仕方がないではないか」(同)-ここには唯物論の根本命題が語られている。物質が本源であるということ、したがって霊魂に対しても物質が優位をしめるものであり、また霊魂が有限であるのに対して、物質は無限であり、不朽不滅であるということ、これらの点は認めざるをえない。霊魂は肉体とともに生長し、肉体が消滅すると同時になくなるものだ。これは人間にとっては無情なことかもしれないが、真実なればどうにもならないことである。哲学は気休めでもなければ方便でもない。哲学は真理を語るのでなければならぬ。それにもかかわらず、あえて霊魂の不滅なることを口にするのは、兆民によれば、唯心論の哲学者の言語的泡沫にすぎないと言う。 最初に与えられたものとしての物質がどのように成立しているのか。兆民によれば、「若干元素の抱合より成れるもの」という。即ち、物質およびその現象を元素(原子)の結合分離によって説明しようとする。従って、「死とはこの元素の解離(分離)の第一歩である」と考える。抱合していた元素が解離することはあっても、この元素そのものは消滅するものではない、つまり「各元素相離れても、各々此世の孰れの処にか存在して、或は空気と共に吸嘘せられ、或は草木の葉根に摂取せられ、啻(ただ)に不朽不滅なる而已ならず、必ず何かの用を為して、輾転窮已無し」という。こうした兆民の物質観は、18世紀の唯物論に依拠したものというより、むしろデモクリトスからエピクロスに至る古代ギリシアの原子論的唯物論にもとづいているといってよい。 従って兆民は、宗教に対しても当然無神論の立場をとる。「宗教及び宗教に魅せられたる哲学の囈語(うわごと)を打破しなければ、真の人道は進められぬ」と主張することによって、18世紀のフランス唯物論者たちが当時の民衆を啓蒙したのと同様の方向をめざそうとしている。「夫れ世界万有は、無始無終であって、創造するの必要はないから、神を影撰するの必要もない、即ち神は絶対に無いのである」-このような兆民の無神論的思想が、明治の知識人に深い影響を与えた。特に、門弟学徳秋水の『基督抹殺論』の思想的背景になっているとみられる。 キリスト教的思想家が、神を最高の存在者、世界の根源として規定するのに対して、唯物論者は神のごとき超自然的威力が存在することを否定するのである。そこでかれは、物質とその運動によって、あらゆる実在とか世界の存在を説明しようとする。それ故、兆民によれば、一切の宗教は実に人間が勝手につくり出した迷妄であり、囈語にほかならぬ。人間はいたずらに死を恐れ、生に執着せんとする想念から絶対者としての神を創造したのである。フォイエルバッハ流にいうなら、神が自分に似せて人間をつくったのではなくて、むしろ逆に人間が自分に似せて神をつくったといってよい。このような考え方が同じく兆民の唯物論の背後に一貫して流れている。「此世界で善を勧め悪を懲らす為めに、未来の裁判を想像し、神を想像し、霊魂を想像するのは是れ方便的である、決して哲学的ではない、哲学的は縦令い一世に不利であっても、苟(いやしく)も真理ならば之を発揮するこそ本旨と言う可きである」(同)とも兆民は述べている。かれは、フランス唯物論者と同じように、民衆がいたずらに封建的宗教の鎖に束縛されることのないようにと、民衆の教化、啓蒙につとめる。兆民は、宗教が道徳の基礎を構成しているとする従来の通説を否定するとともに、むしろ宗教こそ人間の迷妄の生じる源泉であるとみた。それゆえ、こうした宗教を廃棄して初めて、人間は真に自由と平等を勝ちとることがでぎると兆民は考えていたのである。 以上は、東京書籍刊『近代日本 哲学 思想家辞典』(昭和57年9月30日 第1刷発行)からその採ったものです(部分的に変えているところもあります)。 中江兆民の思想の変遷を要約すれば、フランスに学んだ頃は、ルソーの民主主義的自由主義の政治思想、ならびにオーギュスト・コント派の実証論哲学に感化影響を受けていましたが、晩年はショーペンハウエルやフランス唯物論の影響を受けて科学的唯物論をたて、無神論、宗教否定を唱えるようになったことになります。 そして、自由民権思想家中江兆民を世に知らしめているのは、ルソーの『社会契約論』の翻訳(漢文表記の抄訳に兆民の解説を諸所に記し、『民約訳解』としています)によります。兆民と言えば「東洋のルソー」と言われますが、兆民の思想は時とともに変化しています。何故、その様に呼ばれることが定着したのかを解明しようとする研究者もあるようですが、未だ不明の点もあるようです。 |
3.碑のこと |
碑はご覧いただいたように、碑石保護のため鉄枠が組まれています。正面には「中江兆民翁之碑 永坂周書丹」とあります。背面には、「維時明治四十年十二月建之」と共に多くの「賛同者」「篤志斡旋者」の名前が刻まれていて、「発起人総代」には、板垣退助、大隈重信などの名前もあります。 何故、この碑がこの亀戸天神社に建てられているかを、社務所に尋ねたところ、「良く分らない」、「多分、碑の建立に際し学問の神様が祀られている天神様が良いとのことで、ここに建てられているのではないか。」とのこと。学問の神様であれば、「湯島天神」でも良いのではないかと、突っ込みたくなります。ですがそこは我慢。 明治は本当に遠くなりました。 碑が建てられたのは明治40(1907)年ですから、今年で百周年となります。その間、この地域一面が焼け野原になった東京空襲(1945/03/20)の戦火があり、戦後の混乱があったとしても、近代日本に大きな影響を与えた思想家の碑の経緯を失ってしまったのですから、感慨深いものがあります。 |
4.あとがき |
中江兆民が書いた著書の内『三酔人経綸問答』と『一年有半・続一年有半』が岩波文庫にあります。いずれも難解な漢字が多く、その真意を捉えることが難しいものです。 しかし、『三酔人経綸問答』は桑原武夫、島田虔次訳・校注で読みやすくなっています。ここには、現在の日本の平和、自由、防衛、進歩、民権、国権などの重要な問題が提示されているように感じます。「是れ一時遊戯の作、未だ甚だ稚気を脱せず、看るに足らず」と兆民は評していますが、明治を代表する作品との評があります。 また、これらの文章には明治初期の漢字の読み方の多さがあります。その読み方が大正、昭和と時を経るに従って枝葉を刈り込まれ、学校で教えられる“正しい読み”に限られ痩せてしまった現代の日本語が失った豊かさ、奥行きの深さを持っています。 機会があれば、是非ご一読を。 |
現在の憲法が施行されてから60年が経ち、その改正を検討しようとする人、平和憲法だから改正には絶対反対と力む人、様々です。日本にまだ憲法がなかった明治の始め、中江兆民がどの様に考えていたかを顧みる余裕も持つ必要があると思います。 |
今回は、この辺りで失礼を!! |
参考図書
日本人名事典 4 | 平凡社 | 1937年12月20日 初版 1979年 7月10日 覆刻版第一刷発行 |
近代日本 哲学 思想家辞典 |
東京書籍 | 昭和57年9月30日 第1刷発行 |