主題;ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

1.まえがき:

 大学ではあまり熱心ではなかったが合唱サークルに入っていた。自分にはリズム感や音感が無いことが直ぐ分かった。それでも歌詞は同じながらメロデイーが異なる「野ばら」という合唱曲を歌ったことがある。

 ドイツ語「ザー・アイン・クナープ・アイン・レースライン・シュテーン、レースライン・アウフ・デル(ア)・ハイデン(Sah ein Knab' ein Roeslein stehn, Roeslein auf der Heiden,・・・)」と歌っていたのだが、この詩「Das Heidenroeslein 野ばら」を作ったのが「ゲーテ」で、曲をつけたのが「シューベルトとウエルナー」であった。


2.野ばら:

 「Knabe」は童だが、現在日本語と同様にドイツでも日常語としては使われていない。
 「Heide(Eng. Heath)」は荒野を意味し、ハンブルグを流れるエルベ川の南に広大なリューネブルガー・ハイデ(Lueneburger Heide)がある。ゲーテはここで詩を作ったと思っていた。しかしながら今もフランス領となっているアルザス(エルザス)のストラスブール郊外にて作ったと知った。


3.旅人の夜の詩:

 旧東ドイツ・チューリンゲン州の首都エアーフルト(Erfurt)から南35Kmにイルメナウ(Ilmenau)という町がある。この町の近くのキッケルハーンという山へゲーテは何度も登っている。ゲーテは31歳の時この山小屋の壁に詩を書き付けた。 この詩は日本語を含めて10数カ国語に訳され壁に書き記されている。

「旅人の夜の詩」 Wanderers Nachtlied  J. W. Goethe
6. September 1780
山々のいただきは、しずまりぬ Ueber allen Gipfeln ist Ruh,
もろもろの梢には In allen Wipfeln spurest du
そよ風の動きも見えず kaum einen Hauch;
森かげに鳥は黙(もだ)せり die Vogelein schweigen im Walde.
待てしばし やがて また なれも 憩わん Warte nur, balde ruhest du auch.

 昭和25年の学制改革で大学となった旧制の高等学校ではドイツ語の習い始めに原語で詩を暗唱させられたとのこと。
 この詩は、味わい深いながらも簡素な言葉で率直に自然や人生を表現している。

 人にはそれぞれ千差万別個性があるのにもかかわらず、共同体としての日本的あるいはドイツ的なイメージが作られている。ドイツ的なこととは規則的であり・妥協を許さず・非寛容など固いイメージである。プロテスタントの創始者ルターやプロイセンを指導してドイツの統一を果たしたビスマルクと重なる。ゲーテは対照的にあらゆる宗教・宗派に寛容であり時代や国境を越えた偉大なものに共感を示したとのことである。


4.生い立ち:

  ゲーテは1749年8月フランクフルトにて生まれ、1832年5月ワイマールで死んでいる(82歳)。当時としては長生きであった。ちなみにシラーは10歳・ベートーベンやナポレオンは20歳年下であった。

 父親は職人の家系ながら大学を出て名誉職ではあったが「帝国枢密顧問官」であり、母はフランクフルト市長の娘で、家は裕福だった。小さいころから家庭教師についてラテン語・ギリシャ語・イタリア語・英語・フランス語・ヘブライ語を習った。家には沢山の本があり、寓話・神話・奇譚などかたっぱしから読んだ。
 1775年11月リスボンで大地震が起こり、一瞬にして6万人の命が奪われた。ゲーテは教会が教える慈悲深い万能の神がなぜ正しい人々の破滅を防ぐことができなかったのかに疑問を抱き、「自然」と向き合うことになる。
 ゲーテは1765年16歳にしてライプツィヒ大学(1409年開学)に入学した。ライプツィヒはフランクフルトの東北300Kmにあり、商業・書籍出版の中心地であった。ゲーテは馬車に乗り4日かけてたどり着く。父親は息子にここで法律を学ばせ弁護士の資格を取り、フランクフルト市の役人にさせようと思っていたが、ライプツイヒでは法律の勉学に勤しむことが出来ず病気になって故郷へ帰った。
 1770年ストラスブール大学へ入り、法律と医学を学ぶ。ここでフリーデリーケに逢い「野ばら」を作ったのか。
http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/Rose/010304.html 

 1771年に故郷に帰り弁護士となる。1774年25歳の時「若きウエルテルの悩み」を刊行。


5.ワイマール公国:

 ワイマール市はドイツと言うよりヨーロッパを代表する文化都市である。
 ゲーテ/シラー/ヘルダーなどの文学者・哲学者がワイマールで活躍した町である。当時ワイマール公国は小さな国であった。
 1775年当主になったばかりの若い公爵は、古い伝統や儀式で身動き出来ない宮廷に新風を吹き込む為26歳であったゲーテをワイマールに招請したのである。公爵は若いながらも人を見る目があったのだ。
 ゲーテは財政・軍事・農業・道路・鉱山・消防などありとあらゆる仕事を手がけた。1782年ワイマール公爵の推挙によって帝国皇帝から貴族に列せられた。平民は貴族と一緒のテーブルで食事が取れなかったのである。ワイマール公はゲーテと一緒の食卓で食事を取りたかったのだ。シラーやヘルダーなどもワイマール公の推挙で貴族になっている。
ゲーテは宮廷での仕事とは別に作家としての作業をワイマールから20Km東のイエーナにて行っていた。イエーナ大学にはヘーゲルやシラーがいた。ドイツでは現在個人名をつけている大学が多い。ちなみにイエーナはフリードリッヒ・シラー大学、フランクフルトはヴォルフガング・ゲーテ大学、デユッセルドルフはハインリッヒ・ハイネ大学、ベルリンにはフンボルト大学があり大学で成果を挙げたり出生地などからその名がつけられている。


6.フランス革命:

 1789年7月にフランス革命勃発.。1792年フランス革命政府はフランス国内の危機的状況を国外に目をそらすため、オーストリア/プロイセンに宣戦布告した。直ちにオーストリア/プロイセンはフランスへ侵入したのである。この時ワイマール公爵はプロイセン軍騎兵連隊長として出征し、ゲーテも同道している。
 ゲーテがフランス領ヴェルダン(Verdun)に宿営中、プロイセン軍はヴァルミー(Valmy)にて大敗。ゲーテは「諸君、今日この場所から世界史の新時代が始まる」と言ったとのこと。
ナポレオンの登場によってイタリア・ベルギー・オランダ・スペイン・ドイツのライン左岸はフランスに占領され、プロイセンを除くドイツはライン同盟を結成しフランスの影響下に入った。ナポレオンは教会領を接収して世俗の領国に配分し、教会の政治的影響力を排除した。現在フランスでは回教徒が公立学校内でスカーフを被ることを禁じているのはキリスト教、イスラム教を問わず公共施設での宗教活動や影響力行使と見なしているからに他ならない。
 1808年10月ナポレオンの命によりドイツ諸侯がエアーフルトに集められた。ワイマール公爵の依頼でエアーフルトに来ていたゲーテの名前を見たナポレオンはゲーテに会っている。
 ナポレオンは「若きウエルテルの悩み」を7回も読んでいた。ゲーテはナポレオンから「レジオン・ド・ヌール勲章」を受けている。ナポレオンはドイツ人の敵であったが、ゲーテはナポレオンを憎んではいなかった。ナポレオンが進めるさまざまな改革とりわけ民法・教育・文化制度の改革に共感したのであった。


7.Goethe Institut:

 外国人にドイツ語を教える寄宿舎付の学校がドイツ国内に数十ヶ所ありその学校がGoethe Institutと呼ばれている。商社や大会社のドイツ駐在員はドイツ赴任直後ドイツ国内のどこかのGoethe Institutに入学させられることが多い。
 27年も前の事であるが、デユセルドルフ駐在中ある商社で新駐在員が赴任して来た。上司はこの駐在員の留学先に選んだ所がトンでもない田舎であった。
 ミュンヘンの南東60Kmにローゼンハイムという町がある。その留学先とはローゼンハイム近くの「キムゼー(Chemesee)」という湖のほとりにあるシュタイン・アン・デア・トラウンという小さな村にあるGoethe Institutであった。駐在員は訳も分からず列車に乗ったのだがローゼンハイムの先で乗換えもせず列車に乗り続けた。車掌にどこまで行くのかと尋ねられた時は、既に国境を越えてオーストリア国内深く入っていたとのこと。


5.あとがき:

  北海道で過ごしたこどもの頃、悪さをすると決まって隣の婆さんに「このわらはんど!」と叱られた。こどもながらも「このがきども」と理解していた。隣の婆さんは津軽出身であった。いまでも津軽では「童んど」が使われているのではないかと思っている。


参考資料:

ゲーテ 星野 慎一 清水書院
ゲーテとの対話 エッカーマン (山下 肇   訳) 岩波文庫
天才たちの私生活 ゲルハルト・プラウゼ
(畔上 司/赤根 洋子 訳)
文春文庫
エロイカの世紀 樺山 紘一 講談社現代新書