主題;「摺付木(すりつけぎ)」ついて

 「摺付木」と言われても、何のことなのか判りませんでした。
 調べてみると江戸期、オランダ人により長崎にもたらされた発火具の「マッチ」のことでした。文明開化の音がした明治初期には、「マッチ」 もしくはこれが訛った「メッチ」とも言っていましたが、「付木」(=AからBに火を移すのに用いる ものの意で、軸先に硫黄を付けた木片)から、連想されたこの言葉が用いられていたのです。

 今回は、現在の日常生活の中では、殆ど使われなくなった「マッチ」についての若干です。

1.マッチ[match]

 燐寸と書く。発火具の一種。軸木の先端に発火しやすい薬品をつけ、摩擦面または赤リン塗布面を擦 ることにより発火する用具。ヨーロッパにおいて17世紀以後、化学薬品が次々発見されてその性質が明らかにされるにつれ、火を容易に作れるマッチが発明された。
 種類は、軸木の材質・容器の形状から通常マッチ箱に入った木軸マッチ(家庭用並型、徳用型(家庭 小型)マッチ、タバコ用マッチ、広告用マッチ)、紙軸のブックマッチ(主に広告用マッチ)。パラフ ィンを浸透させた紙を巻き固めた蝋軸マッチ、長軸マッチ、耐水耐風マッチ等がある。これらが現在海外、および日本で製造されているマッチのほとんどであり、頭薬を側薬の赤リン面に摩擦させて発火するマッチを総称して安全マッチという。このほかに頭薬を靴底や板壁などにこするだけで発火するマッチがある。このマッチは頭薬中の薬剤の種類により、黄リンマッチ、赤リンマッチ、無リンマッチ、硫化リンマッチがある。黄リンマッチは、その毒性と自然発火の危険性から1912年(明治45)世界的に製造禁止になっている。赤リンマッチ。無リンマッチも現在では製造されず、無害の三硫化リンを使用する硫化リンマッチだけがわずかに製造されている。

と事典にあります。

2.マッチの歴史

 黄燐(オウリン、以下黄リン)が発見されたのは、1660年(万治3 )、ドイツ・ハンブルクのブラントという錬金術師によってでした。黄リンは44℃で融け、空気中では自然発火します。これに酸化剤を混ぜると45℃付近で発火します。この性質を利用して、発火具としたのが初期のマッチです。この発火具は、当時黄リンの製造が難しく、非常に高価でしたので、一般に広まることはありませんでした。
 そして、18世紀末になるとヨーロッパでは化学薬品が多く発見され、その使用方法・技術が発展します。1786年、フランスの化学者ベルトレは、水酸化カリウムの水溶液に、食塩・二酸化マンガンおよび硫酸の混合液を、加熱して得られる硫黄緑色の気体(今日の塩素)を通し、飽和させる実験を行い、得られた新しい物質を酸化塩酸カリと名づけました。これが今日の塩素酸カリウムの発見で、日本ではこれを塩剥(えんぼつ)と呼んでいました。塩素酸カリウムは、今日では強い酸化作用をもつ酸化剤として知られていますが、発見された当時は、この薬品ほど激しい反応を現わすものが他にありませんでした。硫酸にこの結晶を落とすと激しく炎をあげ爆音を発すること、この粉末と半量の硫黄の混合物を紙に包んで、金床の上に置き金槌で打つと爆発すること、この粉末を倍量の砂糖とすり混ぜたものに、硫酸を滴下すると激しく炎を上げて燃えるなど、それまでの薬品では経験しなかったことでした。これらの性質が解ると、この利用法が工夫され、発火具や花火作りの発明へと発展していきました。1786年は日本では天明6年で、徳川十代将軍家治から十一代将軍家斉になった年にあたります。

 この塩素酸カリウムが発見されたことによって、次のマッチが現れます。
1) 1805年(文化2 )フランスのシャンセルが、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が濃い硫酸により発火することを見出し、これをマッチ(浸酸マッチ)としました。塩素酸カリウムと砂糖をアラビアゴムで練って軸木の先端に付けたものと、濃硫酸を石綿に染み込ませた容器とを、セットにしてもので、軸木を取り、薬のついた先端を石綿につけると発火するのです。便利なため、濃硫酸という危険物を使うにもかかわらず、ヨーロッパの各国およびアメリカで使われました。これを即席発火箱と言いました。
2) イギリスのジョーンズは、プロメテウスマッチ、またはプロメチアンの名称で呼ばれる改造品を考案し、特許を取ります。藍で着色した濃硫酸を入れたビーズ玉と、紙こよりの一端に硫黄をつけた上に塩素酸カリウムと砂糖をアラビアゴムで練ってつけたものを、紙で一緒に巻いて1829年(文政12)に売り出します。このマッチには小さなペンチがついていて、ペンチでビーズ玉を割ると発火するようになっていました。ダーウィンの『ビーグル号航海記』の中にプロメテウスマッチのことが記されてます。
3) イギリスの薬剤師、ウォーカーが1827年(文政10)に発明したマッチは、三硫化アンチモン、塩素酸カリウム、デンプンにアラビアゴムを加えて練り、軸木や厚紙片の先につけて乾燥したものと、砂やガラスの粉を厚紙につけた紙やすりとをセットにして売り出します。紙やすりを折って薬の付いた軸木の先を挟み、軸木を引き出すと発火することになります。これをウォーカーマッチと言いました。
 ウオーカーは特許を取らなかったので、プロメテウスマッチをつくったジョーンズは1829年(文政12)に企業化を図り、“ルシファー”(明けの明星の意)と命名して売り出します。ルシファーマッチは、紙やすりとセットの箱入りで売られ、携帯に便利であったため数年のうちにヨーロッパの各国に広まりました。しかし、このマッチの欠点は、品質にばらつきがあり、爆発的に激しく燃えて軸本に燃え移らないものがあったり、燃えるとき悪臭が出たことなどでした。
 そして、黄リンマッチの登場です。
 黄リンマッチは、フランスのソーリアがルシフアーマッチの改良をしている間に見出します(1831年(天保2 ))。黄リン・二酸化鉛・ガラス粉を膠(にわか)で練ってパラフィンをつけた軸本の一端につけたもので、紙やすりがいらず、どこで擦っても発火するという火つきの良さで好評でした。ソーリアが特許を取らなかったため、数年のうちにヨーロッパの各国で製造され使われるようになります。
 アメリカのフィリップスは摩擦マッチ(軸木の頭を摩擦により発火させるマッチ)の特許をとり、1836年(天保7 )に黄リンマッチの製造を始め、全米で使われるようになります。しかし、マッチを製造する人が毒性の強い黄リンの蒸気を吸い、骨が侵される骨疸中毒になることが明らかになり、社会問題となります。1904(明治37)年、スイスのベルンで、黄リンマッチの製造を禁止するベルン条約が批准され、1912年以後ヨーロッパでは、このマッチは生産販売されなくなります。
 1852年(嘉永5 )、スウェーデンのルンドストレームは、赤リン(オーストリアのシユレッターが1845年に発見)を使ったマッチの発明に成功し、特許をとり、安全マッチと命名します。塩素酸カリウムなどの酸化剤・硫黄・硫化アンチモン・ガラス粉・膠などを混合し、発火部を頭薬として軸木の一端につけ、一方、赤リン・硫化アンチモン・膠の混合物を紙に塗ったもの(側薬に分離)に擦り付けて発火させるものです。現在、安全マッチは、もっぱら箱マッチとして使われ、引出しの中に軸木を入れ、箱の側面に赤リンが塗ってあるものです。その他には、広告用としてブックマッチがあります。これは木製または紙製の軸木の下端が楯状で、使用時に1本ずつ取り、頭薬を赤リンのついた擦り板と 紙の間に挟み、軸木を引き出すと発火するというものです。

3.日本のマッチ

 ヨーロッパで発明されたマッチは、江戸期末、オランダ人により長崎に輸入されます。このマッチは、黄リンマッチであったと推測されます。
ヨーロッパでは、1860年代には黄リンマッチや安全マッチが一般家庭に入っていましたが、日本でも1870年頃には、輸入品が使われるようになります。輸入品は、黄リンマッチ(ろうマッチ、またはポスと呼ばれました)と安全マッチ(略して安全)でした。
 国産マッチの製造は、旧金沢藩士の清水誠(4項参照)により、明治8(1875)年に始められます。国産とはいえ、主要な原料である黄リン、塩素酸カリウム、パラフィンなどは輸入品でした。翌明治9年、東京の本所に工場をつくり、「新総社」の名称でマッチの製造販売を開始します。
 その後、明治15(1882)年頃には国内にマッチが普及し、立地条件のよい阪神地区を中心に、低賃金婦女子労働に依存した一大輸出産業となり国内の需要を満たし、さらに中国、インドの市場を制覇します。当時、わが国で作られたマッチは、安全マッチ、黄リンマッチ、軸木の一端に硫黄をつけ、黄リンをつける硫黄マッチで、略して硫黄と呼ばれました。また、連軸マッチもあり、ブックマッチのように一本ずつかきとり底の摩擦砂で擦って発火させました。明治45=大正初(1912)年には生産量の80%(日本の総輸出額の2.5%)を輸出し、スウェーデン・アメリカとともにわが国はマッチの3大王国といわれました。しかし第1次大戦ころから、それぞれの輸出地でマッチエ業が興り輸出は激減します。国内向け生産量も広告マッチの需要により、1965年以降、一時的に増大しましたが、安価な使い捨てライターの出現により75年以降激減し、事業所数も1965年当時に比べ半分以下の40%弱と鳴ってしまい、液化石油ガスが家庭に普及し、ガスレンジなどには圧電点火素子などの点火装置が付属していることや、タバコ用としてガスライターが普及したことから、マッチの需要は著しく減少しまいました。

4.清水 誠

 清水 誠(しみず まこと) 弘化2(1845)年~明治32(1899)年

 日本のマッチ産業の創始者。金沢藩士で明治3(1870)年、藩のフランス留学生(廃藩後は文部省留学生)として渡仏。工業に志し、工芸学校に在学中、宮内次官・吉井友美と会ったことが契機でマッチ製造を志し、明治8(1875)年に帰国、三田の吉井別邸を仮工場とし、黄リンマッチを試作・販売する。好評であったので政府の保護を受け、翌年、東京・本所柳原町(現在、都立両国高校所在地で、“国産マッチ発祥の地”の記念碑がある)に工場を建て、新燧社(しんすいしゃ)と称してマッチ製造を始めた。さらに安全な赤リンマッチの製造技術を取得するため、明治11(1878)年再度渡欧し、フランス・ドイツ・スウェーデンの工場などを視察、安全マッチの製法を学んだ。また各種製造機械を発明し、日本のマッチ製造業に貢献した。没後大正4(1915)年 贈従四位。

 と、百科事典にあります。
 清水がマッチ製造の切っ掛けとなった宮内次官・吉井友美との会話は、次のようであったと伝えられています。

 官費留学生であった清水は、吉井次官と一夜歓談する機会を得ました。話がたまたまわが国の貿易におよんだとき、吉井次官はテーブルにあったマッチを指さして「こんな些細なものまでわが国では製造できず、すべて輸入に頼っている。輸入超過で大層苦労しているわが国の現状からみて、真に遺憾である。この輸入を防止するため、わが国の学士に製造を誘ってみたが、それは危険な仕事でとてもできないと断られた。どうだ、君はこれをやりとげてみる気はないか」と話しかけたとのことです。彼は吉井次官の言葉に感激して、「わが国は山林が多いので、マッチの輸入を防止するのは、そんなに難しいことではないと思う。製法については、専門ではないが、大学で知ることができるから、日本へ帰ったら必ず、マッチ製造の事業を興しましょう」と約束し、帰国後マッチ製造に取組んだのです。

 この時代を象徴するエピソードの一つです。

5.火種の保存

 わが国ではマッチが明治時代になって使われるまで、火打式発火が行われていました。この点は外国でも同じでした。火打式発火が普及すると、摩擦式発火は次第に廃れていきました。労力も少なく、短時間に発火し、携帯に便利ですから、当然のなり行きです。平安時代には両方(摩擦式発火と火打発火)の方法が行われていたものと考えられますが、鎌倉時代になると、もっぱら火打式発火法になったと言われています。
 摩擦式発火の火きり臼・火きり杵を使って火を作っていた頃は、囲炉裏で火を燃やすまでが大変な仕事でした。火が起きるとその火を「ほくち」に移し、「ほくち」の火を吹いて大きくし、それを枯れ草や落松葉につけて、囲炉裏の中で吹いて火をつけます。火がつくまでには煙が立ちこめ目を刺激し、髪の毛には灰が付くと言った状況になります。これは主婦の仕事でしたから、ほおかぶりは主婦の証でもありました。特に朝の仕度を急ぐときの火起こしは相当な負担でした。それに比べれば火種を保存し、これを元に藁や落松葉など燃えやすいものをつけて吹いていると、煙が立ち昇りやがて大きな火が得られます。この方法がが楽でしたから、火種を保存が主婦の大切な仕事になりました。
 主婦は夜寝る前に、炉の灰の中の火に新しい炭をくっつけて並べ、これにまわりの温かい灰をかけ、その上を軽く灰かきで押えます。こうしておくと、朝になって、炊事の仕度に必要な火は、灰をかくと中から出てくるので、火を起こす苦労をしなくてすみます。火に接した炭は、まわりを灰で囲んであるため、ほどよく保温されて燃焼します。このとき、灰は炭の燃焼を助ける触媒の働きもするといわれます。灰をかけられた炭は限られた少量の空気(酸素)により燃焼を続けますが、どんどん燃焼するほどの空気は供給されないので、朝までの長時間燃え続けることができるのです。
 朝になって、火種が消えていたり、燃えつきてしまったとなると、大変です。自分で火を起こすか、隣の家へ火種をもらいに行かねばならず、これは主婦にとって、恥ずかしいこと、不名誉なこととされていました。
 炉の火種を翌朝まで残すため灰をかけておく習慣は、わが国だけのことでなく、世界各地で行われていました。例えばヨーロッパの西北地方では、昔から埋み火の火の用心のため炉に蓋をする鉄製の防火具が考案され、今日まで使われています。
 もう一つの火種の保存に使われたものは火縄です。原始人は火種を容器に入れて持ち歩いたとの説もありますが、火種の入った大きな器を持ち歩くのは大変ですから、のちには火縄が使われました。もっとも火縄は特別の場合に限られ、普通は火打袋の発火具一式が使われました。京都の八坂神社には「おけら祭」という行事があります。これは古い大社で行われている火替えの神事の一つで、大晦日に今までの古い火を消して新しく火を作り出し、その火で灯龍をともし、神へのお供のお料理を調理するのです。大晦日の夜、参詣人は境内の灯龍から火縄に火種をいただいて、火縄をくるくる回しながら家路に急ぎ、その火で灯明をともし、また新年のお雑煮を炊いて祝うしきたりで、京都の風物詩の一つになっています。

 何れにしても、人類にとって火のない生活は考えられません。ですが我々現代人が、例えば、江戸期のタイムスリップした時、最も困ることは火の熾し方を知らないことでしょう。ましてや火種を保存することなど、想定外のことです。
 科学技術の発展は、人類に大きな利点をもたらしています。そして、その成果を享受している現代ですが、それは人類としての基本的なある部分を失わせることもあるように思います。 

 近所の亀戸天神(と言っても、直線距離で3kmは離れていますが)の境内に清水誠の顕彰碑があります。これは昭和50(1985)年に国産マッチ創始100年を記念して、業界有志により建立されたものです。それ以前、ここに清水誠の没後間もなく紀功碑を建立され、偉大な産業功労者を記念していましたが、昭和20(1945)年の東京大空襲で倒壊してしまったので、再建立されたことによります。また、新燧社の跡地の現都立両国高校校内(ここも直線距離で4km程です)には、“国産マッチ発祥の地”の記念碑があるとのことです。
 そこで明治期の碑と発祥の地の記念碑の写真を、参考図書からの転記で、そして現在のものをご覧下さい。
明治時代に建てられた碑
国産マッチ発祥の地」の碑
現在の碑 (昭和50年に再建立)
現在の碑の全景
 蛇足;亀戸天神 太鼓橋
 我々に大きな利便性を与えてくれた「マッチ」に纏わる歴史(化学史・工業史など)を調べてみましたが、最後はご当地自慢(?)になってしまいました。
今回は、この辺りで失礼を!!
  

参考図書

江戸・東京語118話 杉本つとむ著 早稲田大学出版
火の百科事典      丸善(株)
世界大百科事典   平凡社
日本大百科全書   小学館
日本歴史大辞典   河出書房新社
火をつくる 発火具の変遷 小口 正七 裳華房