主題;「漢字」を考える
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2006/9/11 |
中国で発達した「漢字」が我が国に伝わってきました。そして、その後の長い歴史の中で漢字は、我々の日常の生活に入り込み、日本文化の“読み・書き・話す”という部分では、これを抜きにして考えることは出来ません。 今回は、そんな「漢字」の若干についてです。 |
1.漢字の伝来 |
我々の祖先が日本語を話し、聞く生活を始めたのは、この日本列島に定住するようになったときからのはずですが、日本語を書き、読む生活は、文字を持っていなかったため、漢字が大陸から移入されるまでありませんでした。 先ずは、漢字がいつ頃、伝わってきたかです。中国の河南省安陽市小屯付近の殷墟から、亀甲・獣骨に刻まれた、漢字の最古の形である甲骨文字が出土していますが、その遺跡は、紀元前千五百年頃のものとされています。この時期は、日本では縄文時代に当たりますが、大陸との交渉があったのではないかと、残された遺跡から推測されている時代でもあります。しかし、この時代に文字(漢字)が大陸から移入されたかどうかは、今のところ明らかになっていません。 わが国で漢字の存在が明確になるのは、縄文時代が終わり、弥生時代(B.C300年~A.D300年)を迎えてからです。前漢(BC202~AD7)を倒し、新(しん:A.D8~23)を建国した王莽が、天鳳元年(AD14)に「貨泉」という貨幣を鋳造したとされています。この貨幣が日本に移入され、福岡県糸島郡志摩町御床の松原遺跡をはじめとした、大阪・京都・対馬・壱岐など、西日本の各地の弥生時代中期の土層から出土していて、漢字との接触がすでに西暦紀元前後にあったことをうかがわせます。 またさらに、福岡市東区志賀島から、江戸時代の天明四(1784)年に発見された「漢委奴国王」の五文字を刻んだ金印は、南朝の宋の茫眸(はんよう)撰『後漢書』に、 |
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀、使人自称二大夫一。倭国之極南界也。光武賜以二印綬一。 (東夷列伝第七十五) |
と記述されている「印綬」に一致するものとされています。これによって、後漢の光武帝の建武中元二(57)年に、わが国の「倭奴国」が中国と朝貢関係にあり、印綬を下賜されるほど親密であったことが推測されると共に、わが国で発見された金印は、漢帝国に帰属し、その認知を得た国王という保証書の役割をも担っていたと考えられます。そして、この関係は、公式の関係であるため、倭奴国の国王をはじめ、支配者層は、少なくとも漢字・漢語を交渉の道具として用いることができるようになっていたか、または、すでにそれにある程度通じていたかの、いずれかの可能性が強く、単なる形式的な贈り物では決してなかったものと思われます。 また、奈良県天理市檪本(いちいのもと)町の東大寺山古墳から出土した太刀銘に「中平□□(年)、五月丙午、造 作支刀 ……」とあり、この「中平」は、後漢の霊帝の年号(184~189)で、中平年間に製作され、その後わが国にもたらされた、後漢皇帝の下賜刀と考えられます。 この様に、二世紀ごろまでは、わが国の支配層など、限られた人達は、漢字・漢語に対し、かなりの知識を有していたと考えることができるようです。 これ以降、大陸の情報や漢字の情報が多く遺されています。中国の年号を記した神獣鏡、そして、これを模したと思われる彷製鏡(ぼうせいきょう)が各地で見つかっています。 更に、『三国志』魏志東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』)に、漢字表記による、わが国の国名・官名・人名などの固有名詞(国名-伊那国・那馬国・斯馬国、官名-伊支馬・狗古智卑狗、人名-牛利・卑弥呼など)が五十余語ほど記されていて、どのように読むか定かでない場合が多いのですが、中国資料という制限がありながら、和語の表記に漢字音を利用して記した最古の資料となっています。 そして、1968年に発見され、その10年後にX線処理されて金文字が浮かび上がった、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘があります。百十五字の漢文からなり、文中の「獲加多支困」はワカタケル(雄略天皇)のことで、文頭の「辛亥年」は471年とする説が有力となっています。この鉄剣銘の解説によって、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳出土の大刀銘の通説「慯□□□歯」は「獲□□□(加多支)困」と読むべきとされ、雄略天皇を示すものと考えられるようになりました。また、この大刀銘の末尾に「作刀者名伊太加、書者張安也」と記され、作刀者は、日本人と認められますが、銘文の書き手は、大陸人に依存していたのではないかと推測され、日本人が書き手として登場するに至っていなかったようなのです。 六世紀の大陸との関係を、『日本書紀』によって見てみると、継体天皇七 (513)年に、百済がわが朝廷に五経博士段楊爾(だんように)を貢上し、儒教の経典である五経をわが国に学ばせ、普及に努めようとし、欽明天皇十三 (552)年には、百済の賢明王(「聖王」とも)が仏像と経論を献上したと記されています。このような記述から、この世紀では、かなり本格的に大陸の学問を学ぼうとする姿勢が窺うことができます。当然、大陸の学問を学ぶためには、高度な段階まで漢字・漢文に通じていなければならないはずです。しかし、『日本書紀』には、大陸・半島とのさかんな交流の記述がみられますが、日本人による書記の記述は皆無です。 漢字が大陸からわが国に入っている西暦紀元前後から数えて、600年間ほどの間は、日本人が公式の場で漢字・漢文を用いなかったか、または用いることができなかったかようで、知的な方面は、渡来人に依存していたというのが、実情のようです。 しかし、大陸から渡来した人々や帰化人を通して、漢字に接するようになった日本人は、徐々に漢字を日本語の書記文字として利用されることを考えるようになってきます。この日本語を書き表すのに、漢字音を利用する着想は、大陸人によって示されたものと思われます。大陸人は、仏典を漢訳するにあたって、梵語の一部のある語を音訳した経験にもとづいて、日本語を書き表すために、漢字音を利用したのです。すなわち、六世紀までに現れた金石文の固有名詞の漢字音表記がその例です。大陸人の手になるものでしたが、日本人の手による漢字利用を、文献として明確に示すことのできる時期は、七世紀に入ってからであり、日本人が大陸人の手を煩わさずに自立の道に赴く第一歩の世紀となりました。 そのような漢字を用いた一例をあげれば、『万葉集』に所収されている歌にあります。『万葉集』は、仁徳天皇の時代(四世紀)から作られていることになっていますが、 |
きみがゆき けながくなりぬ やまたづね 君之行 気長成奴 山多都祢 むかへかゆかむ まちにかまたむ 迎加将レ 行 待尓可将レ 待 (二・八五) |
かくばかり こひつつあらずは たかやまの 如此許 恋乍不レ 有者 高山之 いはねしまきて しなましものを 磐根四巻手 死奈麻死物呼 (二・八六) |
ありつつも きみをばまたむ うちなびく 在管裳 君乎者将レ 待 打靡 わがくろかみに しものおくまでに 吾黒髪尓 霜乃置万代日 (二・八七) |
などが、その時期の作と考えられています。これらが確実に四世紀の歌とすれば、現存の四世紀の文字資料と対比すると、当時の最も整った日本語資料となるはずです。しかし、漢字使用の熟達度から推測すると、後世の用字法が現れたものと考えるのが妥当のようです。 このように、七世紀に入ると、日本語を漢字音で表記した語例が多数遣されている点で、前世紀までとは異なって来ます。しかも、政治的には推古天皇十五(607)年に小野妹子らを隋に派遣した遣隋使や舒明天皇二(630)年からはじまった遣唐使など、大陸との積極的な交流による大陸文化の移入は、すでに大陸文化を十分に咀嚼できるほど、日本文化自体が成長していたことを意味し、日本人による漢文作成や日本語の漢字表記の拡大も当然の状況になってきました。 |
2.漢字の造語力 |
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こうした漢文作成や日本語の漢字表記の能力を会得した我々の先祖は、新たな発展を見せます。それは片仮名、平仮名の発明による日本語表記の自在性です。 そして、もう一つの発展は我々の日本語にはなかった新しい概念を表記することが出来るようになったことです。漢字は表意文字ですから、これを巧みに利用して語彙の範疇を拡げました。このことによって現在の我々が受けている恩恵は、改めて記すことはありません。 そこで、西洋文明が怒濤の如く押し寄せた明治期の造語(特に専門用語)について考えてみます。 日本にそれまで存在しなかった事物や概念に対応させて、全く新しい日本語を造る方法は、明治期以前に確立していました。それは江戸期に入ってきたの蘭学にあります。蘭学では、医学・天文・物理・数学・化学・兵学など、主に自然科学の分野で、オランダ語を翻訳することによって、すでに多くの専門用語が生まれていました。 その方法の中心は、原語(オランダ語)をまず構成要素に分解し、それぞれの構成要素の原語の意味を考え、次に、その意味に相当する漢字をあて、最後に、それら漢字を総合して訳語を造りあげていく方法でした。 この方法による造語は、原語全体が指し示す内容を、それまでの日本語では表せない事物や概念であっても、構成要素の原語の概念が、日本語に置き換え可能な場合に、最も有効な方法でした。その際、置き換えられる日本語の中心は和語でした。そして、和語は多く訓として漢字に固く結びついていることから、構成要素の原語の概念から直ちに漢字表記を求めることができます。その点で、この方法による造語は、漢字が訓を表す機能が有効に作用します。逆にいえば、この方法では、訓を持つ漢字が最大限に利用されることになります。また、訓を持たない漢字についても、一般に漢字は、和語では表せない抽象度の高い意味や、逆に抽象度の低い意味を持つものが多く、また、和語では区分していない細分化された意味を持つものも多いのです。この性質によって、漢字に使えば和語では対応できない原語の意味を表示することもできる様になります。 漢字は表意文字とも表語文字とも言われますが、この造語法は、文字通り、漢字の表意文字としての機能が利用しているといえます。 ここで一つの例を示せば、≪Kool(炭)+stof(素)≫という段階は、漢字の表意性を利用して、原語の意味に相当する漢字をあてただけであり、まだ、日本語にはなっていないと考えられます。つぎの段階で、<炭素>という漢字表記を日本語として単語の形に整えて、はじめて訳語ができあがります。具体的には、これらの漢字表記をどのように読むかということになります。実際には、ほとんどの場合、漢字表記をその字音で読み、漢語仕立てにして訳語が作られたのです。和語では、単語形を作る際の複合に制約が多いのに対し、漢字の字音によれば、比較的自由に結合させて、安定した語形を作ることができるためです。すなわち、日本語として単語の形に整える段階では、漢字が音を表す機能が有効に働いていることになります。 (後に英語の“Carbon”から「炭素」を造語することは、困難だと思いますが、上記の方法であれば、納得します。) 以上の様に、蘭学時代に確立されたこの造語法では、 ① 漢字の表意性 ② 漢字の意味の多様性 ③ 漢字が訓を表す機能 ④ 漢字が音を表す機能 の日本における漢字の基本的な性質が最大限に利用されているといえます。 この様な方法によるものとして、蘭学時代の例は、
この様な方法以外としては、 1)語基分解方式とあて字式の漢字表記 2)古典漢語の借用による造語 などによって、作れれたものもあります。 この様な造語の方法を考案した理由としては、「語彙の正式な表記」といったものが求められていたためであると考えられます。この正式の表記とは、学問の世界の用語として、先ず漢字で書かれていることが要求された、ということです。従って、原語は、できる限り漢字語に翻訳されるのが基本であり、音訳はなるべく避けられることになります。例えば、工学関係の語彙辞典『工学字彙』では、2936語(句形の訳語を含む)の訳語のうち、音訳されているものは、72語(2.5%)にすぎません。しかもそれらのほとんどは、度量に関する単位や、人名、地名など、字音語や和語の形で概念化を図ることが不可能なものばかりです。しかも、これらは明治初期ごろまでは、音訳語についても、近世中国語の漢字音を借りて表記されたことが多かったことも、学問の世界の用語として、漢字で書かれていることが要求されたためと考えられます。 また次に、その際の漢字表記も単に漢字で書かれていればよいというのではなく、なるべく権威ある先例によって表記するという原理が働いていたようです。それら権威ある先例が、中国の古典漢語や英華字典類の近世中国語の用語用字でした。たとえば、「Falling in price」、「Ballat」で、その意味は〈ネサゲ〉〈ソコヅミイシ〉であることはわかっていても、そのままでは不完全であり、「跌価(ネサゲ)」「圧艙石(ソコヅミイシ)」の漢字表記を得て、はじめて学問で用いる正式な用語となるといった意識があったと考えられます。これらは「値下」「底積石」のように和語に対応する用字も可能であったはずですが、単に意味に応じた漢字表記では不充分で、『英華字典』にあるこれらの表記をもって正式な表記となるといった具合です。ここに、明治期までの専門用語とその表記に、漢字(漢語)が用いられたと考えられます。 |
3.造語の伝播 |
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漢字の伝来は、中国語の伝来でもありました。しかし、伝来した中国語は日本に定着することはありませんでしたが、その語彙は日本語の中に入っています。現在の日本の辞書による中国語由来の漢字語彙は40~50%を占めているとのことです。「馬耳東風、四面楚歌、傍若無人、温故知新、呉越同舟、大器晩成、臥薪嘗胆、単刀直入、蛇足、漁夫の利、捲土重来、画竜点晴」などは、お馴染みの言葉ですし、現代中国語にも生きています。 ところが、日本でできた新しい漢語が中国語に雪崩れ込んでいる現象もあります。それは中国語に定着したものだけで千語ぐらいに達しています。その大部分は常用語で、いまでは中国語の中の欠くことのできない語彙となっています。例えば「共産党、社会、主義、幹部、経済、共和、手続、場合、解放、階級、哲学、物理、出口、入口、癌」などです。 中国語の中に入った日本語を分析してみると、 |
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日本語が中国語に入った言葉は、主として自然科学と社会科学の新語です。当然のことですが、生活用語は、中国固有のものが多く、日本からはあまり来ていないとのことです。 以下の文章は、故毛沢東主席の有名な論文『実践論』の一説ですが、中国語に入った日本語の語彙がどのように使われているかを見てみます。 |
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マルクス以前の唯物論は、人の社会性を無視し、人の歴史的発展を無視したもので、認識問題を観察した。それがために、認識と社会実践との依存関係、すなわち、生産と階級闘争にたいする認識の依存関係を了解することができなかった。 まず第一に、マルクス主義者は、こう思う……人類の生産活動は、最も基本的な実践活動であり、その他のすべての活動を決定するものである。人の認識は主として、物質の生産活動に依存し、しだいに、自然の現象・自然の性質・自然の法則性・人と自然との関係を了解する、その上、生産活動をとおして、各種の、ことなる程度で、しだいに、人と人の、一定の相互関係を認識する。これらの一切の知識は、生産活動をはなれては、得ることが、できない。階級のない社会では、どの人も、社会の一員という資格で、その他の社会のメンバーと協力し、一定の生産関係を結び、生産活動に従事して、人類の物質生活の問題を解決する。いろいろな階級社会では、各階級社会のメンバーは、やはりいろいろ、違った方式で、一定の生産関係をむすび、生産活動に従事して、人類の物質生活の問題を解決する。これが、人の認識発展の基本的な源である。 |
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赤字で示した語は、日本来源のもので、四分の1くらいの言葉が日本からのものです。中国憲法にも日本来源の語が沢山あるとのことですし、その他の社会科学、自然科学関係の論文にも大体同じ傾向が見られるとのことです。 日本人が西洋の言葉・概念を訳すときに漢字を使ったことは、歴史の必然でしたが、造られた言葉が中国語の中に入っていったことは、考えてみれば面白い現象です(何せ「中華思想」の本家ですから)。当時(十九世紀初頭)の中国は、日本製造語を移入してでも、文明開化の恩恵に浴したいとの願望があったことも事実でしょうが、戦後の我々のように外来語は全部片仮名の音訳で片づけていたならば、この様なことはあり得なかったことと思われます。 |
「漢字」を考える、と言いながら、「語彙」の話になってしまいました。 今、手元に中国・営口(インコウ)に出張していた際、現地で購入した「新編 日語外来語辞典」(1984年3月 第一版)があります。外来語は片仮名で表示され、それに相当する語のローマ字表示、そしてその訳は中国語と言った構成で、「アーカイブ」から始まり「ワン・レングス・カット」で終わっています。これは、戦後の何でもかんでも「片仮名音訳」に対抗する方策の一つでしょうが、別の意味で、我々日本人の定見の無さに対する皮肉、ともとれます。 そう言えば、日本語の「カタカナ辞典」というのもあります。何が何でも漢字に翻訳せよ、とは言いませんが、漢字の良さも再認識することが必要ではないでしょうか。 |
参考図書
漢字講座 (5)古代の漢字とことば | 佐藤喜代治 編 | 明治書院 |
漢字講座 (8)近代日本語と漢字 | ||
中国と日本 言葉・文学・文化 | 陳 生保 | 麗澤大学出版会 |