主題;Savoyについて

 

1.まえがき:

 イタリア西北部ピエモンテ(Piemonte)州の州都 Torino(トリノ、英・独 Turin)にて冬季オリンピック(06)が開催されたのは2月であった。日本はメダル5個の予想に反し、荒川選手の金メダル1個の獲得に終わった。
 明治維新の7年前、1861年イタリアがサヴォイア・サルジニア王家主導によて統一され、イタリア王国になった時の首都が <Torino>なのである。 オリンピックに先立ちTVに映し出されたTrinoの街並みや聖堂は美しいく一度は訪れて見たい都市である。

2.イタリア概略史:

 イタリア人は自国の歴史をローマ建国の時点から習うのであろうか。1992年塩野七生の「ローマ人の物語Ⅰ」が発行されてから年1巻のペースでⅩⅤ巻目(最終巻)が出るのは今年の12月の予定である。ローマ帝国の滅亡で物語は終了すると思われる。
紀元前のことであるが、カルタゴの武将ハンニバルのアルプス越え;ザマの戦;ペルシャ戦役;シーザーとアントニウス・クレオパトラの死、そしてユダヤ戦役など物語として充分楽しめるものである。
紀元395年ローマ帝国は東西に分裂した。イタリア本土を主体とする西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドワケルによって皇帝が廃位させられ476年に滅亡する。
東ゲルマン系の東ゴート族に続きランゴバルド族がイタリアに王国を築いたが西ゲルマン系フランク族のカール大帝に滅ぼされ、カール大帝は800年にローマにて皇帝となる。フランク王国分裂の後東フランク王国(ドイツ)のオットー一世が951年ローマ皇帝となって以来これを神聖ローマ帝国と称しドイツはイタリアに深く関与することとなった。
神聖ローマ帝国がイタリア全土を支配したわけではなく、皇帝は皇帝権を維持するため何度もイタリアに侵攻している。ローマ教会領・ヴェネチア・ミラノ・フィレンツエ・ジェノヴァなどの都市国家や地方政権がそれぞれ独自にあるいは相互に関係を持って発展して来た。イタリア中・北部は神聖ローマ帝国(ドイツ皇帝権)に、南部は回教徒、ノルマン、スペイン、フランスなどの介入を受けたが、その経緯を詳らかにすることは容易ではない。

3.Savoia
(サヴォイア, 仏:Savoie, 英:Savoy,独:Savoyen):

 サヴォイア家は12世紀後半神聖ローマ帝国内にて北はレマン湖の南岸から、西はローヌ川の中流域、東はポー川の上流までを支配する伯爵として登場する。
13~14世紀にはソーヌ川東岸及びレマン湖の北へ勢力を拡大し15世紀初頭には公爵となってピエモンテ、ニースまでも手に入れその領地を拡大していったが、16世紀半ばにはレマン湖の南北周辺はスイスに組み込まれてその領土を失う。
1618年から1648年まで続いた30年戦争はプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)との宗派による戦であったが、皇帝(ハプスブルグ家)・スペイン・ローマ教皇に対抗するためカトリックであったフランスが新教側につき、講和の結果フランスはスペインに代わってヨーロッパの覇権をにぎるようになった。
1700年スペイン・ハプスブルグ家のカルロス2世が死去した時跡継ぎがなく、フランスはルイ十四世の孫をフェリーペ五世としてスペイン国王に据えたため「スペイン継承戦争」が起こった。
このどさくさにまぎれ1703年にイギリスは地中海の入り口であるジブラルタルを手に入れ、現在もスペインの返還要求を拒み続けている。

4.サボイアが王国に:

 スペイン継承戦争ではサヴォイア家がオーストリア(ハプスブルグ)側に就いたために、フランスの侵攻を受け首都トリノはフランス軍に包囲された。サヴォイアはこれによく耐えフランス軍を撃退した。スペイン継承戦争の講和会議にて1713年スペインが所有していたシチリア王国はサヴォイア家のものとなりサヴォイア公ヴィツトリオ・アメデーオ2世が国王となったのである。
 スペインは持っていたナポリ・シチリア・サルデーニア・ミラノ・ブルゴーニュ・ニーダーランド(ベルギー&オランダ)など全て失いあまりにも酷いと反撃に出た。これを抑えるためハプスブルグ・フランス・イギリスがサヴォイアからシチリアを取り上げ代わりにサルデーニアを与えた。サルデーニアも王国なので小国サヴォイアは文句が言えないところであった。
 トリノがフランス軍に包囲された時、ヴィツトリオ・アメデーオ2世はこの戦に勝ったなら見事な聖堂を建て神に捧げると誓い、建てたのが聖スペルガ聖堂とのこと。サヴォイア王家の廟になっている。TVで見たのはこの建物と思われる。

5.統一イタリア王国:

 1789年フランス革命勃発後、ナポレオンによってイタリアはフランス領となったが、トリノのサヴォイア王家はサルデーニア島に、ナポリ王家はシチリア島に逃げその支配に屈しなかった。
 ナポレオンの没落後、サヴォイア王家は本土領を復活したが、ミラノ・ヴェネチアはオーストリアのものになった。
 1848年に起きたフランス2月革命の影響を受けオーストリアのウイーンにて暴動が発生。これに触発されオーストリアの支配下にあったミラノやヴェネッチアでは独立運動が起きた。1859年ヴィットリオ・エマニュエル2世はフランスの後押しを受けミラノを解放、イタリア各地を順次サルデーニア王国下に組み入れ1861年3月イタリア王国となる。首都はトリノからフィレンツエ、ローマへと移る。
 この時サヴォイア家の元となったサヴォイ領とニースはフランスに割譲され現在に至っている。

6.イタリア共和国:

 第二次大戦後の1946年国民投票によって王制が廃止され共和国となった。最後の国王はウンベルト2世で即位してから一月も経たずに国王から引きずりおろされてしまった。国王一家は国外追放されイタリアへの入国を禁止された。

7.あとがき

 6月末TVのニュースでVittorio Emanuel di Savoia なる人物がイタリアにて売春斡旋の疑いで逮捕され話題になった。この人物は国外追放された国王の息子で当時3歳であった。2002年にイタリア入国が認められ国へ帰っていたのである。
 ダ・ヴィンチ・コードなる本や映画が話題になっている。トリノの「聖ヨハネ大聖堂」に「聖骸布」がある。常時公開されているのかはわからないが、見物に訪れる人が多い。これは磔になったキリストを包んだ布で、はっきりと映像が映っているとのことである。
 布は炭素同位元素による年代測定では95%の確立で1260年から1390年に織られたものと鑑定されたが、レオナルド・ダ・ヴィンチが乳剤物質と暗箱の原理を用いて写真による焼付けた可能性が高いと。
本項とは関係がないのだがキリスト教関係の遺物では1981年ローマにあるサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に行った時のことである。
 その教会には大理石で出来たミケランジェロ作モーゼ像があるのだが、入り口から石の螺旋階段を下る途中石の壁をくりぬいた小さな空間に鉄格子がはめられその中に錆びた鎖が展示してあった。その鎖は「ローマ教会を作ったペテロ」をローマに連れてくる時に縛った鎖だと言うのだ。
 現在は教会内部に展示されている。
◇言語の違いによる地名標記:
Italiano English Deutch
Firenze Florence Florenz
Genova Genoa Genua
Milano Milan Mailand
Napoli Naples Naepel
Roma Rome Rom
Torino Turin Turin
Venezia Venice Venedig
Ex. Monaco di Bavaria Munich Munchen
  

参考資料:

 物語イタリアの歴史 藤沢 道郎 中公新書
 世界の歴史(中世ヨーロッパ) 堀米 庸三 中公文庫
 Grosser Atlas Zur Weltgeschichte    (歴史地図) Westermann
 ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド マーテイン・ラン
秋宗れい訳
集英社