主題;「外国語事始」について
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ドイツの文豪ゲーテは、「外国語を知らぬものは自国語も分からない」と云ったそうです。 とすれば、小生など“不学文盲の輩”の典型に入ります。若年の頃から外国語に接していたにもかかわらず、生来の無精、あるいは怠けものの故、これを習得することができず今日に至っています。今となればどうにもなりません。しかし、小生の周りには外国語を習得され、これを実業の世界で活用することの出来る方々が多く居られました。これらの方々に助けられ、在職中に何事かを達成できたましたこと今日でも感謝しています。 ところで、外国語--ここでは西洋語とします--は、我々の日本語とその体系も使う文字も全く異なります。その外国語に我々の先人が初めて接した頃について調べてみました。 今回は、大袈裟ですが題して、「外国語(西洋語)事始」です。 なお、本稿に関連した本誌『第91号「江戸参府」について』、及び『第57号「ナポレオン戦争の余波」について』をご参照下さい。 |
1.葡萄牙語:ポルトガル |
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我々の先人が、外国語を初めて知ったのは、天文十(1541)年、ポルトガル船が豊後に来航したときでした。即ち、ポルトガル語です。当時は、いわゆる大航海時代で、ポルトガル語が世界の共通語としての位置を占めていました。ポルトガル語を話す人々の好奇心と冒険心は、探検と宗教と貿易の分野で世界をリードし、偶然にも、あるいは必然であったかも知れませんが、先人が最初に知った外国語--ポルトガル語--となりました。 これ以降、イエズス会の宣教師たちが続々と極東の日本にやって来て、キリスト教(切支丹)の布教を展開します。宣教師たちの活動とそれに接した日本人の多くがこれを受け入れます。しかし、その勢い驚いた豊臣秀吉は、その布教の停止と、宣教師たちの日本退去を命じます。そして、この政策は江戸幕府に引継がれ、その最終的な結果の一つが「鎖国」でした。 宣教師たちの活動は、今の日本語に残るポルトガル語で示されますが、その一例を挙げてみますと、キリシタンは、クリスタン(Christao)、甲必丹(カピタン)はキャピタン(Capitao)が転訛したものです。英国をイギリスと呼ぶのもイギリス人の形容詞形(ingles)からきています。パン、カステラ、カルタ、ピンからキリまで、京都の地名、先斗町(ぽんとちょう)のポントもポルトガル語(英語のポイント)です。ポルトガルの文化や言葉が我々の生活や文化に食い込んでいることが分かります。 この様な言葉や文化の流入に関わったポルトガル語の上手な日本人がいました。南蛮通詞と呼ばれた人達でした。南蛮通詞は、通商貿易やキリシタンの布教には力になりましたが、その語学力は日常会話の段階で留まっていました。ポルトガル語の基礎から学び、その文構造や作文法を学んで、ポルトガル語で書かれた書物を翻訳するといったことは、ありませんでした。これには接してからの時間が少なく、そこまでの配慮・準備が出来なかったのかも知れません。しかし、ポルトガル人からの南蛮医術や、西洋人とのつき合い方、西洋語とはどんなものかなどを習得します。鎖国時代に入って18世紀前半まで南蛮医術の伝統が流れているのは、そのことを示しています。そしてその後、南蛮口(ぐち=具体的には、ポルトガル語とラテン語を指します)は、阿蘭陀口にその位置を交代します。 |
2.阿蘭陀語:オランダ |
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鎖国政策は、日本人が接することができる外国語の選択をオランダ語だけにしてしまいます。これ以降、幕末近くまでこれが続きます。寛永十八(1641)年、平戸のオランダ商館は取り壊され、代わって長崎出島--ポルトガル人のために築かれた人工の島で、すでに廃屋になっていました--に移住を命じられます。平戸に居を定めた慶長十四(1609)年から約三十年ほどで、オランダ人は長崎の一隅に幕府の手のよく行き届いた幽閉の地を与えられます。周囲は海、ただ一つの小さな橋が、市街に通じる日蘭交流の小径でした。面積は三千九百二十四坪一歩(約13,000㎡)、周囲は石垣で固められていました。 そして、このオランダ人の長崎移住によって、長崎通詞と呼ばれる人達が誕生します。オランダの通詞としては、平戸時代にも存在していました。しかし、長崎通詞は幕府体制に組入れられた通訳でした。以降、日本の外国語消化には、この人たちの活躍が大きな力となります。長崎通詞(以下、通詞)は、オランダ語の専門家(通訳、翻訳家)でしたが、それ以外に商務官、医師の業務も兼ねていました。ある意味では、オランダ語-及びこれ以外の外国語も含めた-、の世界の物事(情報)の受入れ窓口の様な立場でもありました。 しかし、通詞制度が確立された当初の通詞たちの力にも不足の部分もあったようです。元禄九(1696)年に来日したケンペルの観察と評価があります。
そして、通詞のレベルがこの様なところに何時までも留まっていたわけではありません。通詞の中にも学究的な人物が出てきます。通詞一般の実務をこなし、更にその余暇に西欧の医術・文化・科学を学習し、翻訳しようとした人達です。 そうした中に、本木良永(よしなが、りょうえい、享保二十(1735)~寛政六(1794)、栄之進、仁太夫)がいます。良永は、日本にはじめて「地動説」を紹介した人です。安永三(1774)年から寛政四(1791)年までの約二十年間、「W.J.Blaeu ; Tweevondigh Onderwijs van de hemelsche en aardsche Globen ,1666,Amsterdam」を翻訳し、その和名を、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』として残しています。その中で、宇宙に関する二説のうちの一つとして、「太陽中心説」を次のように紹介しています。
こうした通詞たちの努力による和蘭陀語の習得は、その後の日本人が接した外国語習得に大きな力となっています。 |
3.露西亜語:ロシア |
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ロシアの東方政策によって、日本の北方が舞台となってきます。宝暦九(1759)年、松前藩は択捉(エトロフ)、国後(クナシリ)の住民からロシア人の存在を知らされます。この頃(十八代紀末)からロシア語が日本に入ってきます。 こうした中、幕府は外国との交渉窓口を長崎以外にも設定することが必要となってきます。そこで幕府は、実質的にロシア人との接触の多い松前藩にこれを命じます。この結果、長崎のオランダ語に対して松前がロシア語を通じてのロシアの文化や西洋の医術が流入する窓口となります。松前には既に自然発生的にロシア語やアイヌ語の通訳が存在していたと思われますが、ロシアとの接触において通訳を命じられたのは、通詞たちでした。そして更に、ロシア語に接した日本人の先駆けとして、日本近海を走っていた船が難破し、ロシアに漂流した船乗りたちもいました。この漂流した船乗りの中で有名なのは、大黒屋光太夫です。 天明二(1782)年、伊勢国白子(しろこ)村(三重県鈴鹿市白子)の彦兵衛船、神昌丸(千石積、十七人乗、沖船頭が大黒屋光太夫)が駿河沖で漂流し、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。光太夫は、寛政二(1790)年にペテルブルグに着き、女帝エカテリナⅡ世に謁見します。光太夫は見識に富み、教養ある人物でしたので、異国の繁栄と対人間観は、彼に驚きと教訓を与えたのでした。 やがて帰国を許され、対日使節ラクスマンに従って、寛政四(1791)年五月に、イルクーツクに到着、さらに九月には根室に到着します。翌寛政五年(1793)六月、松前に到着、松前奉行は使節に対して、漂民保護の労を謝して、光太夫と磯吉を引きとります。光太大らは八月、江戸に送られ、九月に江戸城内吹上にて将軍に引見されます。漂流は、満十年に及んでいます。光太夫の漂流は、帰国してからの影響も想像以上に深くかつ広いのことから、江戸時代ではもっとも大きく意義ある事件といわれます。 光太夫は、自らの見聞を書き残していませんが、帰国して将軍に引見された時、江戸蘭学の桂川国瑞(くにあきら)によって光太夫の口述が編集されて、『北槎聞略(こくさぶんりゃく)』(十二巻、図二巻)となっています。それにはロシア語のアルファベットがあり、文字や綴りについての解説も述べられています。さらに、「ニョーバ 天/ズデズテ 星/プラウダ 誠に/ビアンナ 恥かしい」など、魯-日語対訳のロシア語やロシア文(会話)など、「天文~数量・言辞」に至る約一千語が収載されています。 そして幕府によって、「光太夫についてロシア語を習得すべし」、と命じられた通詞の中に馬場佐十郎(天明七(1787)年~文政五(1822)年)がいました。当時、光太夫は軟禁状態にあり小石川薬草園内で、監視される生活をしていましたが、馬場は文化五(1808)年に長崎から江戸に来て、二年間光太夫についてロシア語の手ほどきを受けたことが知られています。 文化八(1811)年、ロシア艦長、V・M・ゴロヴニンが捕虜となり、松前に護送、投獄されます。幕府はゴロヴニンを取り調べるために、天文方の役人、足立左内(信順)と通詞の馬場佐十郎を松前に派遣します。幕府としてできるかぎり詳細な情報を知り、それまでの北方関係・ロシア関係について総合的な考察と対策をまとめる必要があったためです。足立と馬場はゴロヴニンを取り調べますが、同時にロシア語の勉強に時間を割いています。その様子をゴロヴニンは記録に残しています。
『遁花秘訣』の原本は、E・ジエンナ(Janner 1749~1823)の種痘書です。ですから日本で初めてジェンナの種痘書が翻訳紹介されたことになります。間接的ながらイギリス医学の一端が北廻りで日本へもたらされたことにもなります。ロシア語をわがものとした、一通詞の語学力によってでした。異国の学術や文化を移し植えることのできる手段・道具としての言葉--ここではロシア語です--の使用が、十九世紀早々には可能になっていたことが判ります。 |
4.英吉利語:イギリス |
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寛永元(1624)年、英商館長のR・コックスが日本退去を命じられてから、約百八十年すぎた文化五(1808)年八月、イギリス船フェートン号が、オランダ国旗をなびかせ、長崎港に侵入します。フェートン号は蘭館のオランダ人二名を人質にとり、出島まで占拠しようと幕府を威嚇(いかく)します。幕府当局は、狼狽と混乱にたたきおとされます。そして当時の長崎奉行、松平康英はその責任をとって自刃するという悲劇で決着がつけられます。いわゆる「フェートン号事件」です。 十九世紀に入って日本は、言葉の点での鎖国政策は崩れてきます。この年の十月九日、幕府は蘭通詞に魯西亜語・譜厄利亜(アンゲリア)語の学習を、満洲語は唐通事にその学習を命じます。英語の具体的な学習とそのメンバーは、文化六年(1809)になって定まります。英語の指導者は当時、オランダ商館の次席であったJ・C・ブロムホフに依頼します。 当時「英語」という言い方はなく、正式には「諳厄利亜文字言語修学の命令」とあり、「諳厄利亜(語)」です。ラテン語では「Anglia」ですからこれからと思われますが、中国で刊行された漢訳地理書では、「諳厄利亜」と表記されていますので、中国訳の影響もあったと思います。なお、英語をオランダ語では「de Engelsch taal/Het Engelsch」です。ですからオランド語からは「アンゲリア」の呼称は出てこないようです。 この英語学習を命ぜられたメンバーの中に、本木正栄(まさひで、明和四(1767)年~文政五(1822)年、庄左衛門)がいます。命を受けた本木正栄は精進潔斎し、神社に詣でて英語学習と英和辞典の訳編完成を祈願し、その完成に全力をふるうことを誓ったと言います。そして文化八(1811)年には『諳厄利亜興学小筌』(十巻。以下「興学」)を、文化十一(1814)年には『諳厄利亜語林大成』(十五巻。以下「大成」)を完成させ、幕府に献呈します。前者の「凡例」は、日本における英語学の劈頭を語る感慨が述べられています。その一部をぬき出してみます。
さらに「英語」について、つぎのような感慨をつづっています。
この当時の英語はどんなものであったか、『興学』から、「和蘭人与諳厄利亜人之問答」(学語集成三十五)の一部をぬき出してみます。訳は文語調で簡潔な表現となっています。
そして、三年後の文化十一(1814)年に、さらに本格的な英和辞典、『諳厄利亜語林大成』の訳編が完成します。『大成』は、『興学』と異なり、完全に英和対訳辞典の体裁になっていて、語彙をABC順に排列して、英-日の対訳で、語彙数は約七千語となっています。
その後、堀達之助(文政六(1823)年~明治二七(1894)年)が現れます。彼こそ英語を自家薬籠中のものにして、幕末の対外交渉ならびに蘭学から英学への転換期に活躍した通詞でした。 嘉永六(1853)年六月、浦賀に来航したM.C.ペリーの『日本遠征記』の記事には、ペリーの乗船していた旗艦サスクエハナ号(3,500㌧)に近づいてきた日本の防備船から、一人の男が、「立派な英語で、I can speak Dutch.と語った。彼の英語はこれだけいうのが精一杯らしかったから、ポートマン(通訳)はオランダ語で彼と会話をはじめた。けれども彼はオランダ語に熟達しているとみえて、矢継ぎ早にいろいろの質問を浴びせかけた……」とあり、さらに「通詞の堀達之助は、明らかに外国語の修得に非常な才能があるらしく、別れ際に、馴れた英語ではっきりと、Want to go home. といった」とあります。これが公的な場でアメリカ人と英語の会話をかわした最初の日本人ではないかと思われます。 フェートン号事件より約半世紀後、この五十年間で「諳厄利亜(語)」を使うことが出来る様になっていました。また、堀達之助は、幕府の蕃書調所に籍を置き、日本最初の英和辞書の編集責任者として、日本英語文化史上の大きな貢献をします。 日米和親条約の締結以降、日本には諸外国の商人たちが押し寄せてきます。そして、英語が世界に広く話されていて、その知識が不可欠であるとの認識が国内に広がります。 我々の先人が「鎖国」と言う制度に縛られながらも、外国語に挑戦し、これを習得したことに、敬意を表します。 |
阿蘭陀語の表記に漢字が使われてます。これは当時の通詞たちが、漢字を使うことによって、より原音に近い発音に近い表記が出来ると考えていたからです。ですから現在では接することもない漢字が使われています。そしてこのことは、漢字に対して現代人には及びもつかない程の知識を有していたことを証明しています。漢字制限もある意味では有意義ですが、一方では日本人の表現の自由さを奪っているように思います。 また、片仮名の表記も使われています。これは初期から使われた方法のようです。ケンペルがバカにした通詞たちは、片仮名しか使っていたのではないでしょうか。 この辺りを調べたかったのですが、判りませんでした。継続してみたいと思っています。 |
今回も締まりのない話となってしましました。ここらで失礼を! |
参考図書
長崎通詞ものがたり ことばと文化の翻訳者 | 杉本つとむ | 創拓社 |
西洋人の日本語発見 外国人の日本語研究史1549-1868 |
杉本つとむ | 創拓社 |