主題;「孝謙天皇神社」について

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 栃木県石橋町(下都賀郡)の町はずれに、この町が運営する保健福祉施設「きらら館」があります。この施設は気分良く、ゆったりと出来る構造で、多くの皆さんがカラオケ、囲碁・将棋、そしてお喋りに楽しんでおられます。小生も時々、ここのお風呂(トロン温泉)と食堂を利用させていただいています。
 そして、この施設の直ぐ近くに、その名を「孝謙天皇神社」というごく小さな社(やしろ)があります。失礼ながら下野(しもつけ)の田舎に、大仰な名を付した神社があるのか、と思いつつその境内に入ることもせず、ボンヤリと見過ごしていました。
 ところが最近、古代史の頁をめくっていたら、次の言葉が引っ掛かってきました。
 鑑真和上 → 授戒 → 下野薬師寺 → 弓削道鏡 → 孝謙天皇
と言った次第です。

 何やらここに天皇の名を付した神社があっても良さそうなのです。そこで今回は、落語の三題噺風に、これらの若干についてです。
 その前に、この話題にまつわる頃の仏教(日本)の年表をご覧下さい。
  (関係のない事項も含んでいます。これ以前、略)
740 神亀十二 聖武天皇、河内智識寺にて毘盧遮那仏を拝し、東大寺及び大仏建立を発 願。諸国に「法華経」十部を写し、七重塔を建立さしめる。新羅僧 審 祥「華厳経」を初講。
741 同十三 国分寺・国分尼寺創建の詔。諸国に七重塔を造り、「金光明最勝王経」 「妙法蓮華経」及び「金字金光明最勝王経」を書写し、各一部安置す。 並びに僧寺には二十僧を置き、金光明四天王護国寺とし、尼寺には 十 尼を置き、法華滅罪寺となす。
743 同十五 金銅盧舎那仏(大仏)建立の詔。大仏造宮の為、行基、弟子を率いて衆庶 を勧誘す。
744 同十六 紫香楽の甲賀寺に大仏の骨桂建つ。
745 同十七 行基を大僧正とする。玄防を筑紫に左遷す。
746 同十八 寺田を買い蓄うこと禁令。玄防没。
747 同十九 奈良東山に於いて大仏鋳造開始。
749 天平勝宝元 聖武天皇、東大寺大仏に黄金出土を告げ(陸奥国)、自らを三宝奴と称 す。大仏完成。行基没。
750 同二 護命誕生〈~834〉
751 同三 東大寺大仏殿完成。
752 同四 東大寺大仏開眼供養(導師、菩提僊那)。新羅王子金泰廉来朝、大安寺・東大寺を礼す。
754 同六 唐より鑑真来朝し、律宗を伝える(第三伝)。東大寺戒壇院創建。
755 同七 東大寺戒壇院完成し、受戒を行う。
756 同八 聖武太上天皇崩じ、遺愛品等を東大寺(正倉院)に納める。
鑑真、良弁を大僧都とする。
758 天平宝字二 勤操誕生 〈~827〉
759 同三 鑑真、唐招提寺建立。私度の禁止。
760 同四 菩提僊那没。
761 同五 下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇創設。各国分尼寺に阿弥陀像を造らせる。
763 同七 当麻禅林寺に於いて浄土曼茶羅造られる。鑑真没。
765 天平神護元 大和西大寺建立。道鏡を太政人臣とする。
766 同二 伊勢神宮に丈六仏像を造る。道鏡を法王とする。
767 神護景雲元 最澄誕生〈~822〉
768 同二 春日神社創立。
769 同三 下野国中禅寺建立。
770 宝亀元 百万塔を十大寺に分置。道鏡、造下野薬師寺別当に左遷。
僧尼の山林居住を許可。
771 同二 円澄誕生〈~837〉
772 同三 十禅師を置く。道鏡没。
(以下、略)

1.鑑真和上

   中国的都城制の導入によって計画された平城京の造営は、役民(えきみん)の流浪・逃亡を発生させます。そして、これを救済した行基(ぎょうき)の活動は、私度僧(しどそう)輩出の原因となります。この私度僧は、律令制度の下での「伽藍仏教」と異なる「民衆仏教」の一つのあり方を示していましたが、この状況に対し朝廷は「僧尼令」にもとづく仏教界の粛正を企図します。
 天平五(733)年、興福寺(こうふくじ)の栄叡(ようえい)と大安寺(だいあんじ)の普照(ふしょう)は、戒師(かいし)招請の任務を帯びて唐に渡ります。
 天平十四(742)年(唐・天宝一)、栄叡らは揚州の大明寺(だいめいじ)に鑑真を訪ね、渡日を願い、その承諾を得ます。妨害や天候に妨げられ、またその間に栄叡の病死、鑑真の両眼失明などの不幸も重なり、鑑真の渡日は容易に実現しませんでしたが、天平勝宝五(753)年十二月、遣唐使藤原清河(きよかわ)の第二船に乗り、普照らとともに薩摩国阿多(あだ)郡秋妻屋浦(あきめやのうら)(鹿児島県川辺郡坊津町秋目)に到着します。
 翌年二月に鑑真は、法進(ほうしん)・思託(したく)・如宝(にょほう)ら24人の弟子とともに平城京に入り、東大寺大仏殿の前に築かれた戒壇(かいだん)で、鑑真が戒師となり、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后をはじめ400余人に戒を授けます。
 天平勝宝七(755)年には東大寺境内に戒壇院が建てられ、はじめて正式な受戒が行なわれることになります。天平勝宝八(756)年に聖武太上天皇が病に伏し、同年五月、太上天皇は崩じますが、その直後、鑑真は良弁(ろうべん)とともに大僧都(だいそうず)に、また法進は慶俊(けいしゆん)とともに律師(りつし)となり、僧綱に列します。
 朝廷は、戒律の興隆に資するため、天平宝字元(757)年閏八月に、官の大寺ごとに戒本師田(かいほんしでん)十町を置き、地域の僧尼が月二回集まる徴悔の会、すなわち布薩(ふさつ)の財源とします。またその時の勅に、「仏法を護持するは木叉(もくしゃ=戒)よりも尚(とうと)きはなし」とあり、同年十一月に、備前国の墾田(こんでん)百町を東大寺唐禅院に施します。これは各地から戒律を学ぶために、唐禅院の鑑真のもとに来る僧の生活費などに充てるためでした。
 天平宝字二(758)年八月、孝謙天皇は皇太子大炊王(おおいのみこ)に皇位を禅譲します。淳仁天皇です。淳仁天皇は、鑑真の大僧都の任を停めて、大和上(だいわじょう)の号を賜うとともに、諸寺の僧尼が集まって戒律を学ぼうとする場合に、みな鑑真について習うべしと命じます。鑑真は、故新田部(にいたべ)親王の旧宅とその土地を賜わり、先に東大寺唐禅院の衆僧供養料として施された備前国の墾田百町を造営の資財として、ここに伽藍(がらん)を建立します。当初「唐律招提(とうりつしょうだい)」と名付けられましたが、後に「唐招提寺」と呼ばれます。そして、天平宝字五(761)年には下野薬師寺、築紫観音寺に戒壇を建てて、三戒壇として全国の授戒場とします。
 天平宝字七(763)年五月、鑑真は終焉を迎えます。76歳でした。戒律を日本に伝え、僧風を一新し、天台などの諸経綸をもたらして、律宗の祖となりました。
国宝 鑑真像(唐招提寺)
 この像は、天平宝字七(763)年春、弟子の忍基が講堂の梁の折れる夢を見て和上遷化の近いことを知り、許しを得て姿を写して像にしたと言います。脱乾漆造りに彩色が施してあります。

2.弓削道鏡

   道鏡(どうきょう)は、河内国若江郡弓削(ゆげ)郷(大阪府八尾市)の豪族弓削氏の出身です。四、五世紀以降、大伴(おおとも)氏、蘇我(そが)氏などと並んで勢力を振るっていた古代の大氏族である物部氏の本拠地である渋川が弓削の地に隣接していますので、弓削氏は、物部(もののべ)氏から分かれた氏族であると考えられています。
 東大寺大仏の鋳造が進められていた天平十九(747)年頃に、沙弥(しゃみ)として東大寺に住んでいた道鏡は、葛城山(かつらぎさん)で「苦行極まりなし」というほどの修行をしていたと言われます。後に孝謙天皇の内道場(ないどうじょう=宮中の仏殿)に入ることができたのは、その「禅行(ぜんぎょう)」によってでした。
 天平宝字六(762)年四月に保良宮(ほらのみや=滋賀県大津市石山)に滞在中の孝謙上皇は、病気になりますが、道鏡の呪禁(じゅごん=祈祷)と医術によって快復します。上皇はこれを機にまもなく出家して尼となります。翌年、太政大臣藤原仲麻呂(なかまろ)に近かった興福寺の慈訓(じくん)は少僧都(しょうそうず)の職を解任され、かわって上皇の信任を一手に握った道鏡が少僧都となります。
 天平宝字八(764)年九月に藤原仲麻呂の逆謀が発覚します。このとき孝謙上皇は、道鏡が昼も夜も朝庭(みかど)を護り仕えたことに感謝するとともに、「朕(ちん)をも導き護ります己(おの)が師」とあがめ、出家した帝(みかど)には出家した大臣があるべきである、として、道鏡を大臣禅師とします。翌月に淳仁天皇を淡路に流し、孝謙上皇は重祚(ちょうそ)し、称徳天皇となります。称徳天皇は、叛乱の平定を祈願して七尺金銅四天王(してんのう)像を造立しますが、これが、西大寺(さいだいじ)造営の機縁となります。結局、仲麻呂の反乱は失敗に終わりますが、国土の安穏、称徳天皇の延寿などを祈って、百万塔の造立が始められます。 
 その後、道鏡は太政大臣禅師になり、さらに法王となります。そして道鏡の一門で五位以上の者は男女10名を数え、弟は従二位大納言となるに至ります。
 神護景雲三(769)年に、大宰主神習宜阿曾麻呂(だざいのかんつかさすげのあそまろ)が、「道鏡を皇位につけるならば、天下は太平になるであろう」との宇佐八幡(うさはちまん)の神託を奏上します。称徳天皇は、和気清麻呂(わけのきよまろ)に命じ、神託を確かめさせたところ、「我が国家は開闢(かいびゃく)以来、君臣が定まっている。いまだかって臣を以て君となしたことはない。天日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)出なければならない。無道のものは早く排除すべきである」という託宣があらためて伝えられます。都に帰った清麻呂は、託宣の内容を奏上しますが、即位の望みを絶たれた道鏡は、清麻呂の位階、官職を剥奪して大隅(鹿児島県)に流し、姉の法均尼(ほうきんに)も還俗(げんぞく)させて備後(広島県)に流します。
 神護景雲四(770)年四月に百万塔が完成したものの、六月に平城京は飢饅と疫病に襲われ、八月に称徳天皇は崩じます。まもなく道鏡は、造下野薬師寺別当(ぞうしもつけやくしじべつとう)に左遷され、宝亀三(772)年4月に配所で没します。その卒伝には「死する時は庶人の礼を以て葬れり」とあり、無為・無冠の人物として生涯を終えています。
 道鏡は法王にまでなり、政界と仏教界に卓越した権力を振るいましたが、その地位は称徳天皇の個人的愛顧に支えられていたにすぎず、天皇の死とともに、道鏡の政界の権力基盤は崩壊します。そしてまた、仏教界からも支持されなかったのです。
百万塔について
 塔は、木製の三重で高さ約14cm、轆轤(ろくろ)を用いて造られている。相輪(そうりん)の部分を差し込みとし、塔心には『無垢淨光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の根本(こんぽん)・自心印(じしんいん)・相輪・六度(ろくど)の四種の陀羅尼の摺本(すりほん)が納められている。四種の陀羅尼は、一行五字詰で印刷されている。
 百万基の小塔は、十大寺に十万基づつ施入されたが、現在は法隆寺のみに伝存している。明治四一(1908)年の平子鐸嶺の調査によれば、小塔は43,930基、陀羅尼は1,771巻あった。なお、文化財指定のものは、小塔102基、陀羅尼100巻である。
 陀羅尼は、年紀の明白な現存する印刷物として、世界最古のものである。

3.孝謙天皇

   この天皇は、女帝です。古代の日本には6人(8代)の女帝がいます。6世紀末の推古以来、皇極(斉明)・持統・元明・元正を経て孝謙(称徳)となっています。()は重祚した天皇。その後、江戸期に明正(めいしょう)・後桜町の2女帝が即位しています。

 以下、百科事典からこの天皇の項目を引用しますと、 

 孝謙天皇(こうけんてんのう)、称徳天皇(しょうとくてんのう)(718~770)
 第四六代、第四八代の天皇。女帝。名は阿倍。聖武(しょうむ)天皇の第二皇女、母は光明(こうみょう)皇后。在位天平(てんぴょう)勝宝元(749)年~天平宝字二(758)年。年少のころ吉備真備(きびのまきび)に漢学を学び、のち心を仏教の興隆にかたむけ、聖武天皇の企てた東大寺大仏の鋳造を推進し、また法会・講経・仏寺修営などに力をそそいだ。即位後、藤原仲麻呂(なかまろ)と深く結び、聖武天皇の遺詔によって立てた道祖(ふなど)王を天平宝字元(757)年皇太子の地位から追い、仲麻呂の女婿大炊王を立てて皇太子とした。これがもとで、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)らの叛(はん)が企てられたが、事前に発覚してこれを抑えた。しかし天皇もまもなく退位して大炊王があとをつぎ、淳仁天皇となった。
 孝謙上皇が道鏡を寵遇(ちょうぐう)するに至って淳仁天皇と不和になり、天平宝字八(764)年九月、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱がおこるに及んで、淳仁天皇を廃してみずから重祚し、称徳(しょうとく)天皇となった。しかし、天皇が道鏡を寵愛(ちょうあい)したため、道鏡の専横はなはだしく、皇位に就こうとする動きもあり、和気清麻呂(わけのきよまろ)・藤原百川(ももかわ)ら貴族が反対する事件がおきた。陵墓は奈良市の高野陵。

 とあります。

 孝謙上皇が道鏡に好意以上の感情を抱き、ただならぬ関係であったと、延歴十六(797)年にまとめられた『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、「道鏡を寵幸(ちょうこう)せらる」、「常に宮中に侍(じ)しせしめて、はなはだ寵愛せられる」などと記されています。更に、平安初期の説話集『日本霊異記(りょういき)』では、「女帝が道鏡法師と枕を同じくした」とあります。この上皇と道鏡の関係は、今日の「ワイドショー」的な話題を提供していたのです。 

 この神社(孝謙天皇神社)は、下野薬師寺(現在の薬師寺跡は、国指定史跡になっています)から、北西約4.5kmに位置します。
 ですから、薬師寺に流された道鏡を慕って女帝が秘かに京を立ち、この地で没したとの伝承があります(時間的にはあいません)。また、他には、道鏡が女帝の遺髪や遺品を持参し、この地に祭ったとの説話もあります。いずれにせよ、この神社とその伝承は、当時の上層階級に起った事件・出来事に心を寄せる人がいたことを物語っています。

 全くの余談ながら、今後に女帝が誕生するとすれば、史上9人目となります。そして、この女帝が活躍した時代、中国は唐王朝で、李白(701~762)・杜甫(712~770)が活躍した「盛唐」と言われる時期に当ります。
今回は、この辺りで。


用語説明
:重祚(ちょうそ);再度皇位に就くこと。


参考図書

県史シリーズ 栃木県の歴史   山川出版社
図説 日本仏教の歴史 飛鳥・奈良時代 田村 圓澄 佼成出版
日本「宗教」総覧   新人物往来社
大日本百科事典   小学館
最後の女帝 孝謙天皇 瀧浪 貞子 吉川弘文館

 

 下野薬師寺

  下野薬師寺の創建については、天智天皇九年(670)、天武天皇二(674)年、白鳳八(679)年、文武天皇大宝三(703)年などの諸説があります。
 しかし、「続日本後紀」嘉祥元(848)年の条に下野薬師寺に関する記述があり、9世紀の中頃の下野国では、天武天皇によって建てられた寺と信じられていたようです。
 下野薬師寺は、奈良時代末期から平安時代初期には、大和・東大寺・築紫・観世音寺とともに三戒壇の一つとして知られた名刹でした。しかし、足利尊氏が諸国に安国寺を建立した時、下野国では薬師寺跡に建てたと伝えられていますから、十四世紀のはじめ頃には、この薬師寺は衰徴してしまったようです。
 現在の薬師寺跡は、国指定史跡になっていますが、その指定地域内の南中央部は、現在安国寺の境内になっていて、そのほかの所は宅地・畑地・道路となり、安国寺境内の西北隅に戒壇跡と伝えられる所と、安国寺山門の東方はるかはなれて民家の裏に東塔跡と伝えられる所があるほかは、境内の南端に一部土塁跡を残すのみで、昔の薬師寺のおもかげは全く失われてしまっています。