主題;「Beethovenについて」:-
1.前書き: |
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熱力学での状態方程式を発見したファン・デル・ワールス、画家のヴァン・ゴッホやヴァン・ダイクなどのオランダ(ベルギーを含む)人の名前に着くvanはドイツ語(高地ドイツ語)ではvon(from、of)であるが、濁音は英語式発音と思われる。 ドイツが生んだ大作曲家ベートーヴェンにもvanが着きベートーヴェンはオランダ(ベルギ-)系なのである。ドイツ人でvonが付けば貴族であるが、オランダ人のvanは貴族とは限らない。 辞書によるとBeetは苗床、hof(en)は囲まれた場所、屋敷、農場、館、宮殿、・・・・・ 従ってベート・ホーフェンが原音に近い発音であろう。 |
2.ベートーヴェンとその時代: |
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Ludwig van Beethoven(日本では一般的にルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンと呼んでいる)は1770年12月にライン河畔のボンにて生まれた。当時ボンはケルン大司教(選帝侯)領に属していた。19世紀初頭までドイツには山ほどの教会・司教領があった。 ケルンの他にマインツとトリアー大司教は皇帝選挙権を持っていて王侯のように暮らしていたのである。 ベートーヴェンが生まれる前年1769年はにナポレオンがコルシカ島で生まれている。コルシカがイタリア・ジェノヴァ領からフランス領になったのはナポレオンが生まれるたかだか30年前のことであった。 また1770年にはフランス王ルイ15世の孫のルイ(後の16世)とオーストリア女帝マリア・テレジアの娘のマリー・アントアネトが結婚しているのだが、23年後の1793年には相次いで断頭台にて処刑された。 ベートーヴェンが過ごした18世紀後半から19世紀前半は産業革命が起こり、アメリカの独立、フランス革命、ナポレオンの侵攻による旧秩序の破壊すなわち、教会・司教領の没収・800年続いた神聖ローマ帝国が消えてなくなるなどまさに激動の時代であった。 ベートーベンの祖父はハプスブルグ領フランデルン(フランダース)からボンへ移住し、ボンの宮廷お抱え楽師になった。ベートーヴェンはこの祖父から音楽を厳しく仕込まれたのである。ロマン・ロランのベートーヴェンをモデルにした小説「ジャン・クリストフ」によると(中身はすっかり忘れてしまったのだが)幼い頃ピアノ(ヴァイオリン?)の練習中祖父に鞭で叩かれたとの部分は微かに残っている。 1792年ベートーベンは21歳の時ウィーンに移住した。ベートーヴェンは皇帝フランツ2世の弟ルードルフ大公をパトロンとして作曲活動に従事した。 1804年ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」が完成。ナポレオンが皇帝となるのはこの年である。1805年・09年にはナポレオンがウィーンに入城している。貴族は田舎の領地に引き上げパトロンがいなくなってしまった。生活の糧を貴族から一般市民へとその対象を移して行かざるをえなかった。 1798年ドイツで「リトグラフ」がチェコ生まれのゼネフェルダーによって発明された。それまでは金属活字や木版などの凸版あるいは銅版を削っての(エッチング)凹版などによって印刷を行っていたが、版作成に時間がかかっていた。 「リトグラフ」は石版画の意味で、石灰岩の上に脂肪酸溶液で描画し表面に化学変化を起こさせ不要な部分にはインクが付着しないように細工することで印刷出来る。 現在は石から亜鉛版さらにアルミ版と変化して来ている。この「リトグラフ」の発明によって文書・楽譜・デッサンなど大量の複写が可能になったのである。ベートーヴェンも作曲したあと楽譜を一般向けに売ったことと思われる。 ベートヴェンは1798年28歳の時難聴の症状が出て48歳で完全に聴力を失った。1819年から死ぬ1827年までに書かれた会話帳が百三十冊の残っているとのこと。買い物のリスト、家主とのいざこざ、家政婦の悪口、甥のカールのことなどが書き込まれている。 弟の死後、その息子(甥)の親権をとったのだが、甥は職業を次々と変えて一向にものにならずベートーヴェンの心配の種はつきなかった。 金がいるため既に上演済みの序曲三曲をロンドンの出版社の代理店に売ったり、前金をとったが契約どおり仕事をしなかったり、二股を掛けて契約したりしたようである。 作曲したミサ曲をワイマール公に買ってもらおうとゲーテに頼み込んだがなしの礫であった。 交響曲第五番・六番(1808)、『エグモント序曲』(1810)、『ウエルントンの勝利』(1813)、シラーの詩『An die Freude:歓喜に寄す』を知ったのはベートーヴェンがボンにいた十代の頃と思われる。この詩を取込んだ第九の完成はベートーヴェンが死ぬ3年前の1824年であった。 ベートヴェンが生まれたボンはもとよりライン左岸は1795年以降フランスに占領されていたのだが、1815年のウイーン会議以降マインツから北の右岸も含めたラインランドはプロイセン王国に併合されてしまった。 |
3.あとがき: |
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ハンブルグに駐在していた1977年はベートーヴェンの死後150年ということで記念の行事が多数あったことを思い出す。 その一つは、ベートヴェンの交響曲第1番から9番がセットになったLPが発売されたと現地の人から聞き、ドイツからクラシック好きの人に送ったことである。 二つ目は、「カール・ベーム」指揮によるコンサートを聴きにいったのだが開演時間が遅い(20時)く、夕食中にビールを飲んだことで公演会場にて睡魔に襲われてしまったのである。 |
参考資料:
1 | エロイカの世紀 近代を作った英雄たち |
樺山 紘一 | 講談社現代新書 |
2 | 天才たちの私生活 | ゲルハルト・プラウゼ 訳 畔上司、赤根洋子 |
文春文庫 |