主題;「お茶」について

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 乗った飛行機が離陸して水平飛行に入ると、スチュワーデス(今はキャビン・アテンダントと言うそうです)が座席の近くに来て、やさしく、にこやかに“Which do you like tea or coffee?" と話しかけてきます。
 (中国本土の航空会社の場合、“tea ? coffee ?”のぶっきらぼうさに、威圧を感じますが)。
 この“tea or coffee ?”は、人がくつろいだ時、口にする世界の共通的な飲み物が“お茶”であること示しています。

 今回は、この“お茶”が世界の共通の飲み物になった頃について、です。

1.茶の起源

   現在、私たちが飲んでいる茶は、中国でもインドでもスリランカでも、ほとんどが栽培種の茶樹から採った葉から作られたものです。この茶の原産地がどこかについて様々な学説がありますが、今のところ最も有力な説としては中国西南部、雲貴高原ということになっています。地図で言えばインドシナ半島の付け根が中国大陸とぶつかるあたりです。雲南省と貴州省にまたがる高原、東南アジアの北側となります。
 一般的に有用植物の利用は、その原産地の周辺で始まります。雲貴高原は、揚子江の源流でもあり、メコン河の源流でもあります。つまり中国へ流れる文化、東南アジアヘ流れる文化両方の源流にあたるところです。茶の利用も、ここで始まって、各方面に広がったと考えられています。
 米も、雲貴高原であるという学説があります。「日常茶飯事」という言葉がありますが、茶も米も、原産地が同じ所となっているようです。茶を飲むという文化、米を食べるという文化の原産地は、どちらもこの辺りということになっています。
 とは言え、茶がこのあたりから発した文化ではあったとしても、茶が最初から飲み物であったかどうかは、はっきりしません。茶の葉を加工して飲むというのは、かなり高度な文明です。我々が茶の木の前に立っても、この葉を入れたお湯、もしくは水が飲めると考ることはむずかしく、お腹が減っている時だったらつまんで食べてみようかと考える、この方が自然の様に思います。しかし、人には渇きを癒したいという、空腹のときとは別の要求があります。これは先ず水、もしくは湯によって満たされますが、これらがそのままでは飲みにくい地域があります。その様なところでは、この中に植物的なものを入れて美味しく、飲みやすいものにしていくことを考えつきます。
 飲む茶は、明らかに中国の薬が起源であったろうと考えられています。よく食べる茶から飲む茶へ発展したと言われますが、食べる茶はあくまで食べる茶で、これが発展して飲む茶へ変化する必然性はないようです。現在でも東南アジアの人たちは茶を食べています。そして、東南アジアの人々の間にも飲む茶が普及していますが、その飲む茶が食べる茶と同じ原材料からできるというのが判らない、というぐらい食べる茶と飲む茶の間には隔たりがあるようです。ただ、飲む茶と食べる茶とどちらが古いかを比べると、食べる茶の方が知恵として古い段階だと考えられています。飲む茶の方がはるかに高度な知恵で、古代以来、中国文明が持っていた漢方、煎じ薬の知恵が元になっていと考えるのが一般的のようです。そして、中国文明が次第に周辺部に広がっていった結果、中国周辺部の少数民族の栽培している植物が薬として効くことが発見されます。そういう経過があって飲む茶になったのだと考えられています。そして、飲む茶が、中国文明に対してある種の共感と、ある種の憧れを持つ国々に飲み物として普及して行きます。

2.日本の茶

   日本の喫茶も、やはり中国から入ってきたと考えられています。遣唐使が盛んに派遣され、盛唐の文化が輸入された8世紀に、茶も入って来たと思われますが史料は残っていません。確かな正史に茶の記事が顔を出すのは9世紀の初頭、嵯峨天皇の時代です。
『日本後紀(にほんこうき)』弘仁6(815)年4月の条に、
 近江国滋賀韓崎に幸す。すなわち崇福寺を過(よ)ぎる。大僧都永忠(えいちゅう)命を謹み、法師等衆僧を率いて門外に迎え奉る。さらに梵釈寺を過ぎ、輿をとどめて詩を賦す。皇太弟および群臣、和し奉る者多し。大僧都永忠手自ら茶を煎じすすめ奉る。

 嵯峨天皇は、琵琶湖西岸の韓(唐)崎へ行幸された。その帰途、崇福寺をすぎ梵釈寺に至って両寺を兼住していた大僧都永忠より献茶を受けた、のです。

 この永忠という僧は、在唐三十年におよぶ中国体験の持ち主です。渡唐した当時、中国で喫茶の風習がようやく文化として定着し、その精神や味わいについて詳しく語る茶書(=『茶経』)が生まれた時代でした。その時期に在唐した永忠は、喫茶の習慣を身につけて帰朝したと思われます。この唐崎行幸は永忠が帰朝して約10年、中国から恐らく携帯してきた茶をまだ持っていたのでしょう。貴重品の茶であればこそ自ら煎じたのです。

 この記録以降、喫茶の習慣は、皇室・公家・僧侶を始めとする貴族階級には浸透しますが、平安時代中期、遣唐使が廃止され中国一辺倒から国風文化への時代になると、しばらく茶の歴史は中断に近い状態となります。この理由に次のようなものがあります。
現在も作られている団茶の味は、我々の嗜好に合わぬというほかないようです。団茶は、緊圧し成形してから熟成の段階を経ます。この熟成は、自家発酵とは異なる発酵(後発酵と呼ぶことがあります。一種の菌の作用によるもの)で、独特の風味(一種のカビ臭さ)が生じます。この臭いは、湿暖な日本では決して良香とはいえないようです。憧憬の的である唐文化の一部として、伝統文化とは異質な飲み物が導入されたのですが、やがて日本人の嗜好に合わないことが明らかになって、憧憬の念が消えるとともに、喫茶の習慣も失われたと言うのです。
 平安時代に、喫茶の風がすたれてしまった後、建久二(1191)年、栄西(ようさい)禅師によって日本に再び茶はもたらされます。栄西がもたらした茶は後発酵のない、青葉アルコールの香り高い、日本人好みの茶だったのです。
 栄西が唐から持ち帰った茶樹は、初め筑前国背振山に植えられ、その十数年後、栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人に贈られ、京都にも植栽されます。そして恐らく、栄西が鎌倉に招かれるとともに、茶は東国にも伝わったと思います。栄西が鎌倉において将軍実朝に出会った承元5(1211)年、有名な栄西の著作『喫茶養生記』の第一稿が書き上げられています。
『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記された将軍実朝との茶にまつわる話があります。
建保2(1214)年2月、実朝は前夜の宴会で飲み過ぎたらしく、栄西に加持祈祷を頼んできます。当時の治療といえば、高僧の祈祷が何より効くと信じられていたからです。しかし、栄西は、宿酔と聞いて祈梼のかわりに茶を良薬と称し勧めます。効果は絶大でした。これは茶に含まれるカフェインの効果です。そこで、実朝に「茶の徳を誉むるところの書」一巻を呈したといいます。これが今日残っている『喫茶養生記』の第二稿(再治本)であろうと言われています。
 『喫茶養生記』の特色は、何といっても薬としての茶の称揚です。その序において、
 そもそも茶というものは、末世における養生の仙薬であり、人の寿命を延ばす妙術である。その茶の木がはえる山谷は神秘霊妙な土地であり、その茶を摂取する人は長命なのである。ところで茶は印度でも中国でも尊重されているし、かつては我が日本でも嗜愛されたことがあった。このように昔から日本でも外国でも茶を尊んできたのであるから今さらこれを用いないで済ますことができようか。まして茶が末世における養生の良薬であればなおさらのことであって、その事情をよくくみとらなければならない。(森鹿三氏の現代語訳『茶道古典全集』所収による。以下同じ)
 ここで、栄西が日本に茶を定着させるためには、まず薬としてその普及を図ったことがうかがえます。栄西は、いかに茶が健康によいか博覧強記の知識を総動員して論じます。『喫茶養生記』で注目される部分を引用しますと、まず茶の作り方です。
 宋朝における茶の焙り方を見たところでは、朝、茶を摘んで、これをすぐ蒸しそしてまたすぐ焙る。このように休む暇も無いから、怠け者にはとうてい成し得ない仕事である。焙り棚に紙を敷いて、紙が焦げない程度にとろ火で火をいれる。焙るにも工夫して緩急よろしく焙る。夜通し眠らずに焙って、摘んだ茶はすべてその夜のうちに焙りあげ、それを上等の瓶に入れ、竹の葉でもって固く蓋をする。このようにすれば茶は何年たっても悪くならないのである。
栄西が見た宋代の茶は蒸し製の緑茶でした。この製法は、現代の緑茶製法にほとんど変わりません。当時の中国の茶の正統派は、龍鳳団(りゅうほうだん)といわれるような精妙な団茶でした。また南方には発酵茶(烏龍茶)も登場していました。しかし、なぜか、日本に伝わった茶が蒸し製の緑茶でした。その理由は、栄西が見聞した中国での範囲が甚だ狭かったと考えられています。栄西が見聞したのは、中国でも有数の緑茶地帯桁江省をだけだったのです。それ故、栄西の嗜好にも合い、日本人のそれにも合った緑茶が日本にもたらされたのです。
『喫茶養生記』は、その下巻に茶の飲み方を記しています。
 茶は非常に熱い白湯で服用するのが良い。のむ量は一文銭大の匙で二、三杯であるが、その多少は随意にしてよい。ただ湯の量は少ない方がよいが、これもまた随意にしてよいとのことである。ことに濃い茶が美味である。飯を食ったり、酒を飲んだりする際に忘れずに茶を飲めば、食べた物の消化をよくする。
 一文銭大の匙の大きさがどの程度なのか、はっきりしないので、その二、三杯というのは、どの様な濃さであったか判りません。しかしここで注意することは、茶が食後の飲み物として勧められていることです。特に食後の茶として勧められたところに今日の茶の普及に繋がったものと思われます。茶事においても、後座(ござ)の茶は、初座(しょざ)の懐石の飯後の茶となっています。

 ところで、栄西が書いている茶の飲み方は、どの様であったか疑問に思います。宋代の茶は散茶(葉茶)、片茶(固形茶)、および片茶の一種である研膏茶がありましたが、一般には散茶でした。しかし、上記の作り方では「揉捻」の工程がありませんので、片茶の製法ともとれるのです。『喫茶養生記』は重視されていましたので、蒸し茶の片茶を薬研や臼で挽いた今日の抹茶ではないかと推察しても良いようです。
 片茶は、茶葉を搗き固め種々の形に賦形したもの、研膏茶はそれにさらに手を加え、表面に光沢がある固形茶とのことです。

3.飲みもの革命

    1609年、オランダの東インド会社の商人たちが初めて平戸にやってきます。この年を和暦にすると慶長14年、徳川2代将軍秀忠の時代です。大航海時代もだんだん後期に入って終結に近い頃です。そして、その翌年オランダは、平戸からヨーロッパヘ向けて初めて茶の輸出をします。これがヨーロッパヘ大量にもたらされた初めての茶でした。最初にヨーロッパヘ輸出された茶は中国の茶ではなく、日本の茶でした。
 その後、イギリスがやや遅れてやってきます。1615年の東インド会社駐在員の手紙があります。日本のミヤコから日本の良質な茶を取り寄せて送ってほしい、ということが書かれていて、イギリスも最初は日本から茶を輸入しようとしています。
 なぜ、中国ではなくて日本だったのか。いくつかの偶然もあったでしょうが、当時の中国は明王朝が滅んで清王朝が成立する動乱期であったことが一つの原因であると推測されます。当初は、オランダヘもイギリスヘも、日本から茶が輸出されました。このまま推移すれば、日本は世界に冠たる茶輸出国になったのでしょうが、その時、鎖国をします。鎖国が完成するのが1630年代ですが(本誌第91号を参照)、その1630年代はヨーロッパ全体に茶が行き渡り、フランス、イギリス、オランダでも茶が飲まれるようになります。その結果、世界の茶の貿易を中国が一手に握ることになります。さらにその後ヨーロッパでは、イギリスが茶貿易の主導権を握ります。大航海時代よりはもう少し後の時代の話になりますが、イギリスは大帝国となり、同時にイギリス人が好んだ紅茶が世界の飲み物になって行きます。その結果が、“tea or coffee ?”という今日の問いかけになっていきます。

 1630年代の茶がヨーロッパに入りましたが、現在の三大飲み物の他の二つ、コーヒー、ココアも、16世紀にヨーロッパで出そろいます。ヨーロッパ人にしてみれば、みな新しい飲み物でした。コーヒーの原産地は、エチオピアだと言われています。それが中東、特にトルコの飲料として定着するようになったのかは、まだ判っていないようです。しかし、ヨーロッパへはイタリアを通して入ってきます。イタリアに輸入されたのは1580年代と言われます。その後、アジア、中東方面へ進出したイギリス、オランダの商人によってそれぞれの国へ輸入されます。それが1630年代でした。イギリスのオックスフォードにコーヒー・ハウスが現れるのが、1650年、ロンドンには1652年といわれ、その後大陸の都市にもコーヒー・ハウスが現れます。17世紀の中頃、茶とほぼ同時期、あるいは少し早くコーヒーが珍貴な舶来飲料として入っています。
 一方、ココアは新大陸からもたらされました。スペイン人コルテスが新大陸メキシコで発見したのです。発見された16世紀の初め、カカオはインディアンによって「神の食料」として高い評価を与えられていたばかりではなく、貨幣として使われていました。カカオの実10個でうさぎ一匹と、百個では奴隷一人と交換されていたとのことです。
 ココアがヨーロッパに入ってきたのは、16世紀も終わりになってからでした。ココアに砂糖を入れ、更にヴァニラとシナモンを混ぜれば美味しい飲み物になることを知ったのは、スペイン人とのことです。この飲み方がヨーロッパ、特に上流階級に広がります。しかし、ココアは値段が高いこともあって中産階級以下の間には広がりませんでしたが、茶と同時期にヨーロッパに入り、そこに暮らす人々の飲み物に大きな変化をもたらしたことは確かです。
 この様にほぼ同じ頃に入ってきた3種類の飲み物の中で、茶が最も普及した一つの理由は、当時の人々の東洋文化に対する憧れがあったと考えられています。茶には760年頃書かれた陸羽の『茶経』があり、日本の「茶の湯」を中心とする芸能文化、さらに茶碗、茶器などの美術工芸品から茶の入れ方、飲み方、作法に至まで、長い歴史的伝統文化の輝きを感じていました。これに対してコーヒー、ココアには、このような文化の背景がありませんでした。この違いが、その後の浸透に差が出てきたのです。

4.紅茶

   当初、日本からそして中国からヨーロッパへ入った茶は、緑茶でした。それが18世紀の初め頃から、紅茶が入りはじめ、やがて今日に続く紅茶が全てへと変化します。
紅茶がどのように発明(もしくは発見)され、浸透していったかは、現在良くわかっていません。しかし、一つの説があります。
 当時の茶の製造は、技術的にいって自然現象を制御できるほど高度なものではありませんから、ある程度自然に順応した製造が行なわれていました。天候不良が続けば生葉は、自然に発酵することもあり、半発酵の烏龍茶が出来ることもありました。ヨーロッパに輸出された頃の中国茶は武夷山のものと、浙江省天台山のものが多く、武夷山でできる武夷茶は、大部分が烏龍茶系統の茶でした。中国が自信を持って売っていた武夷茶の色は黒かったのですが、品質が良く、イギリス人の嗜好に合ったと思われます。買手の嗜好に合わせて、烏龍茶をさらに発酵させているうちに完全発酵の紅茶が造り上げられたと言うのです。
 17世紀の初めには、オランダやイギリスは武夷茶の指名買いが多くなってきたのですが、これが紅茶への変化の切欠であったと推測されています。

 国民の間に最も広く茶が受け入れられているのは、イギリスです。そして現在、イギリスは世界最大の紅茶の消費国ですが、この様になった経緯をたどってみます。
 1662年にポルトガルの皇女キャサリンがイギリス王室のチャールズ2世に嫁ぎましたが、この時茶をイギリス王室へもたらし、同時に宮廷に喫茶の風習を持ち込んだといわれます。当時の宮廷では飲み物と言えばエール、ワイン、スピリット(アルコール飲料)でしたが、茶の愛好家キャサリンの影響もあって、東洋の茶が飲まれるようになります。そして、これにならった上流階級の女性のあいだにも広まっていきます。
 さらに、1689年王位に就いたウィリアム3世の妻メアリ2世(オランダ王室の出です)が、キャサリンと同様の茶の愛好家でした。メアリ2世は、茶、磁器、漆器などの東洋趣味をオランダから持ち込みます。その結果、宮廷内、さらには上流階級の夫人たちのあいだに喫茶の習慣を押しすすめ、拡がることになりました。この流行がイギリスの社会生活、特に食事文化に大きな影響を与え、今日の国民的飲料と定着してゆきますが、次第にイギリス独自の紅茶文化を形作っていきます。
 今日、世界の茶の80%は紅茶で、20%が緑茶です。緑茶が飲まれているのは、主として日本、中国、台湾で、その他の世界の大部分では、茶と言えば紅茶を指します。 その中でイギリスは、世界の紅茶の約半分を消費しています。そして、その飲み方、嗜み方の中にこだわりがあるようです。例えば、「ミルク・ティ」の入れ方ですが、ミルクを先に入れるか、後にするかを巡って、各人各様の論理があるとのことです。このようなことを文化とするなら、これらは18~19世紀のヴィクトリア期を通じて形成されたました。

 “お茶”がヨーロッパに広まり出したのは、1630年代でした。日本は鎖国して平和な時代へと向かいます。そしてヨーロッパの国々は、今日の繋がる文化の先駆けとなる時期でもありました。しかし、これから後の時代、茶の発明国・中国にとっての“お茶”は、大きな犠牲を払う原因にもなってしまいます。「たかが茶、されど茶」です。

 話は替わります。
 オランダ人が日本に来て「茶」に接したとき、これを「チャ」と聴いたはずです。茶の湯、煎茶、番茶、みな「チャ」です。ですからオランダ人も初めは「チャ」と言っていた筈です。それが現在は、オランダ語で"THEE"、ドイツ語で"TEE"、英語で"TEA"、つまり「ティ」。何時からこの様になったのでしょうか。
ところで、“tea or coffee ?”
いえいえ、冷えたビール、ですよね。これは失礼しました。
今回は、この辺りで!
  

参考図書

日本のルネサンス(上)桃山の宴 草月文化フォーラム
内:「大航海時代とアジアの茶」
守屋 毅  柏 書房
茶の湯の歴史 千利休まで 熊倉 功夫 朝日新聞社
年表 茶の世界史 松崎 芳郎編著 八坂書房
茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の世界 角山 栄 中公新書