主題;「江戸参府」について

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2005/5/11 
 江戸期の体制、つまり徳川幕藩体制は、家康、秀忠を経て三代将軍家光の時代に完成します。この体制を大きく捉えれば、幕府と二百六十余藩とで組み立った連邦国家体制と考えることが出来ます。この場合の連邦政府は幕府です。
 幕府は、各藩の年貢徴収をはじめとする政治一般に干渉することは一切ありませんでした。連邦国家の政府が独占するのは、軍事権と外交権ですが、幕府もこの二つを掌握しています。幕藩体制は、この二つの柱、即ち、軍事権は「参勤交代制」、外交権は「鎖国体制」という形で成り立っていました。

 今回は、このような鎖国体制の中で国交のあった国の一つ、オランダ、それも長崎出島に駐在した商館長の「江戸参府」についてです。

1.鎖国体制

   島原の乱(寛永14(1637)年10月~15年2月)を直接の契機として、幕府の鎖国体制は完成します。この体制は、様々な要素があり、その認識が一様ではありません。
 一般に次のような状態が鎖国状態と認識されています。
 ① 日本船・日本人の異国渡海禁止。
 ② 異国居住日本人の帰国禁止。
 ③ ポルトガル船の日本寄港禁止。
 ④ 唐人・オランダ商館関係以外の異国人の日本渡来禁止。
 ⑤ 唐船・オランダ船以外の異国船の日本寄港禁止。
 ⑥ 異国人の日本居住禁止・制限。
 ⑦ 入貿易を長崎一港における唐船・オランダ商船に制限。
 ⑧ 海上銀(投銀投資)の禁止。
 ⑨ 異国居住日本人との文物交流の禁止。
などです。
 そして、この鎖国体制は、種々の法令の集積によって実現されました。その形成過程を年表的に整理すると、次のようになります。
元和2年 1616 ヨーロッパ船の寄港を長崎・平戸に限定
元和7年 1621 日本人の異国船便乗渡海の禁止
寛永元年 1624 イスパニアと断交
同 8年 1631 奉書船以外の日本船の異国渡海禁止
同10年2月28日付 1633 長崎奉行宛老中奉書の発令
同11年2月28日付 1634 長崎奉行宛老中奉書の発令
同12年 1635 長崎奉行への老中奉書の発令
唐船の長崎以外の寄港禁止
同13年5月19日付 1636 長崎奉行宛老中奉書の発令
南蛮人の長崎出島収容・国外追放開始
同16年2月21日付 1639 長崎奉行宛老中奉書の発令
同年 7月5日付   かれうた船(ポルトガル船)
 日本渡来禁止の発令
同18年 1641 オランダ商館の長崎出島移転

 鎖国政策の目的は、キリスト教禁制説、金銀銅の海外流失抑制説、商業資本の抑制説、大名資本の抑制説、糸割符仲間の策動説、オランダの対日貿易独占策動説、幕府権力の強化・確立説等の学説があります。色々な視点が考えられますが、その最大の要因、キリスト教政策にかかわりをもっていたことは間違いないようです。
 キリスト教禁止の理由については、キリスト教邪教説、旧教国の国土侵略説、反封建思想説、思想統制説、反幕府勢力化阻止説などが見られます。鎖国政策を、幕府(将軍)権力確立の過程の一政策として捉えた場合、切支丹(キリシタン)の反政権的存在の現象が、最も重大な問題となっていたものと思われます。即ち、将軍の発した禁令(切支丹禁令)に従わない者(切支丹)を、完全に除去することが必要とされていたのです。また、続出する外国との紛争が海外における幕府(将軍)の評価を著しく低下させ、さらに、紛争の適切な処理が難しく、幕府(将軍)権力の確立に障害となる心配があったことから、幕府(将軍)の最も支配しやすい対外関係を築こうとしたのです。その政策の施行の結果として、いわゆる鎖国状態が成立したと考えられます。
 鎖国体制は、オランダがポルトガル、イギリスなどに代わって日本貿易、引いては東洋貿易を独占する結果となり、幕府はその関係を独占しています。ですから幕藩体制の「外交権」を掌握していたことになります。
 この体制による国際的な孤立がもたらした平和によって、世界史の進歩からとり残されたことは、疑問の余地がありません。しかし、鎖国二百年の間に、国内の資源が開発され、国内市場を中心とする経済が発達し、民富の蓄積がすすみ、技術の洗練が進行したことは、確かなことです。今日、日本的とされる伝統文化や生活様式・価値観もまた、この時期に育成されました。

2.オランダ商館

   日本とオランダの交流は、慶長5(1600)年オランダ船リーフデ(慈愛)号が、豊後に漂着した時から始まります。船員ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは、当時大坂城にいた徳川家康のもとに連行され、家康に海外事情を提供してその信頼を得ます。その後、オランダは正式な国交と通商関係を樹立すべく使節ポイクを派遣します。慶長14(1609)年、ポイクは駿府の家康のもとに赴き謁見を許され、オランダ総督オラニェ公の書簡と献上品を献上します。家康は返書と通商許可の朱印状を交付、これによリオランダは平戸に商館を設置して徳川将軍家と貿易を開始することになります。二年後には、初代商館長スペックスは、駿府の家康、江戸の秀忠に謁見します。さらに翌慶長17(1612)年には、ブルーワー商館長が駿府で家康に謁見してオラニェ公の書簡を呈するなど、オランダは徳川家との関係を深めていきます。
 この様に日本とオランダの交流は、良好に始ります。
 しかし、元和8(1622)年、オランダが台湾にゼーランディア城を建設し、台湾の植民地化を図ったことにより、ここに渡航する日本船と摩擦が生じます。そして、ついに寛永3(1626)年、長崎代官末次平蔵の朱印船と紛争が発生します。この解決のために台湾長官ピーテル・ヌイツが来日しますが、交渉は決裂します。そして寛永5(1628)年、末次平蔵の朱印船が台湾で再び紛争を起こし、これに対して、幕府は平戸オランダ商館の貿易停止を命じます。この後の交渉は長引き、同9(1632)年になってフランソワ・力ロンとの交渉の結果、幕府へのヌイツの身柄引渡すことによって事件は解決します。その後、幕府はオランダ商館の対日貿易再開を許可しますが、日本船の台湾渡航を禁止します。
 寛永18(1641)年に平戸オランダ商館を長崎出島へ移転させて、幕末まで貿易を行わせることになります。
 出島のオランダ商館には、商館長(カピタン=商館長は通常一年で交代しています)自席(ヘトル)・台所役・荷倉役・筆者役・医者など10名前後の商館員が常駐していました。医者としては、元禄期に滞在し「日本誌」を著したケンペルや江戸中期のツュンベリー、そして幕末に鳴滝塾を開設したシーボルトなどが著名です。出島は長崎奉行の支配下に置かれ、商館員が出島外へ出ることが厳しく統制されていました。また、長崎には出島乙名(おとな)、同組頭、同筆者、同日行使など町方と同じ支配役人が組織され、門番が置かれて、出島の出入りは厳しく管理されていました。また、阿蘭陀大通詞以下の通詞グループが多人数置かれていました。通詞は、今日でいえば通訳と関税吏の業務に携わっていました。

3.江戸参府

    江戸参府とは、阿蘭陀商館長(=カピタン)が、徳川将軍に貿易特権を許されたことに対して御礼の言上と献上物・進物の呈上、さらに貿易の継続やそれに関わる要望などを願い出るために江戸に参上した行事を指します。
 毎年の定例として、商館長が江戸参府を行うようになったのは、寛永10(1633)年からです。特別な事情により中止されたこともあり、また、寛政2(1790)年からは5年目ごと、すなわち4年に一回となりますが、江戸時代を通じて166回(最後は嘉永3(1850)年)の江戸参府が行われています。朝鮮通信使節・琉球使節に比べて桁違いの多さです。

 江戸参府の行程は、長崎から小倉まで陸路、小倉からは瀬戸内海を海路、室か兵庫で上陸し大坂からは高瀬川を船で上リ、京都を経て東海道を陸路で江戸までというものでしたた。宿泊は、各宿場の本陣でしたが、小倉・下関・大坂・京都、そして江戸にはオランダ定宿がありました。これらは、長崎奉行支配で、長崎の地役人の扱いを受け、役料が支給されていました。
 参府に際し、商館長は一人ないし二人の書記と、一人の外科医を部下として伴いましたが、同時に、長崎奉行配下の多くの武士が護衛に付いていました。商館長に対して一見敬意を表したようにみえますが、彼らが道中で一般の日本人と接触することを断ち、ことにキリスト教関係品を手渡したり売却せぬよう、また秘かに逃れて布教などせぬよう監視するためでした。出島での幽閉が、そのままここでも保たれる仕組みでした。
 一行には、長崎奉行下の付添検使(与力)以下、同心・町司・槍持、さらに大通詞・小通詞とその部下が同道し、総勢百五十ないし二百人に達しています。
 出発は毎年1月15日または16日でした。そして約一か月をかけて江戸に到着します。江戸におよそ二十日間滞在し、この間、在府の長崎奉行同席のうえ将軍に拝謁します。帰りはまた同じ道順を経て帰ります。約三か月の参府旅行となっていました。
 商館長の江戸参府は、幕府にとっては異国人が徳川将軍を慕ってやってきたこと、つまり将軍の御威光を天下に知らしめる絶好の機会でした。そして、江戸中期以降になると、海外に関心をもっていた江戸の医師や学者にとっては、書物などから得た知識や情報の詳細を直接問い合わせる貴重な機会となって行きました。

4.随行した医師

   上述のケンペルが日本に滞在したのは、元禄3(1690)年からの二年間です。 当時、---幕藩体制が安定確立し、平和と繁栄を謳歌していました。西鶴が『日本永代蔵』を刊行したのが元禄元年、芭蕉が深川の庵を畳んで『奥の細道』の旅に出たのが元禄二年---と言った時代です。

 このケンペルの『日本誌』に江戸参府に随行したときの様子があります。ケンペルは商館長ファン・バイテンヘムに随行し、元禄4(1691)年2月13日、長崎をたつて29日目に、一行は江戸に到着します。先ず、江戸に入ってからの第一印象についてです。阿蘭陀商館長の一行が品川からだんだん江戸の日本橋の方に大通りを宿(本石町の長崎屋)に向かって進みます。いろいろな人たちが実に賑やかにその通りを行き来しています。ところが、江戸に来るまでは、どこでも日本人はオランダ人の一行を見物したのですが、江戸の町では違うというのです。
 われわれの一行が通るときにも、他の町々で起こったように、戸口の前に立って見物しようとする者はほとんどいなかった。将軍の大きな城がある、こんなに住民の多い一流の土地では、これしきのことで好奇心を起こすことはない、と彼らは思っているのであろう。
 どうせ毎年春、ちょうど江戸の桜が盛んになるころには、このオランダ人たちがやって来る。もう毎年きまった行事だ。いまさら珍しがることはないと、江戸の町衆は、このオランダ人たちを、特別に振り向こうともしなかったということです。割合にケロッとしています。それほどに、もうこの江戸の、殊に日本橋に向かう新橋、京橋、日本橋の大通りの商店街の人たちは、異国慣れしているというところでしょう。しかし、これは江戸っ子の見栄でした。江戸の定宿・長崎屋の前は人集りがしていて、その主人もその人混みをかき分けて中に入ったと川柳に詠まれる位ですから。
 そして、江戸城へ参上します。この時の将軍は、五代綱吉でした。「犬公方」の名で知られ、世上の評判は芳しくありません。しかし、一面では学問を愛し、湯島に聖堂を建てるなど、在職中・文化的な方面での業績がありました。ケンペル一行は、3月28日、謁見を賜ります。
 カピタン(商館長)が謁見の間に入ったと思われた頃合に、『オランダ・カピタン』と呼び上げる大きな声が聞こえてきた。これは商館長が将軍の御座所に近づいて、表敬の礼をすべき合図なのである。この合図を受けた商館長は、献上物が順に並べてある場所と、床を一段高くした部屋に設けられた将軍の御座所との間を、指図通りいざるように膝行し、地面に額がつくほどひれ伏し、一口も口をきくことなく、再び蟹のような恰好でいざり退く。念には念を入れて準備した謁見の儀は、このようにして全く呆気なくすんでしまうのである。
 将軍の謁見について、このように書いています。将軍に拝謁を許されるのは、商館長だけですから、ケンペルは控えの間で待っていたことになります。そこは、壁、襖など、すべて金色ずくめで、襖をしめると高い天井の下の欄間格子から僅かに光が入るだけの薄暗い部屋でした。将軍は商館長に一言も言葉をかけず、無言の拝謁を与え、商館長は老中の合図に従ってただちに退出するという拝謁の形式は、二代将軍秀忠の時にはじまりますが、五代将軍綱吉の時代には、それに続いて中奥で参府したオランダ人全員を「御覧」になるようになります。そればかりか、謁見のあと、将軍から質問ぜめにあい、挙句の果てには、大奥の婦人たちを相手に踊ってみせたり歌ってみせたりといった羽目になります。
 ケンペルは表御殿での拝謁は許されませんでしたが、中奥に同行し、その見聞を記しています。
 われわれはある時は立ち上がつてあちこちと歩かねばならなかったし、あるときは互いに挨拶し、それから踊ったり、跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、オランダ語やドイツ語を読んだり、歌をうたったり、外套を来たり脱いだり等々で、私はその時ドイツの恋歌をうたった。
 江戸の町衆は、素っ気なかったのですが、お城の中ではオランダ人に非常な好奇心を示しているようです。ですが、将軍の謁見の際に要求される膝行、平伏などの儀礼、そして注文に応じてのさまざまな出来事を「猿芝居」と書いています。

 このケンペルから83年後に、ツュンベリーが商館付医師として来日します。ツュンベリー(スウェーデン人)は、全地球上の生物の分類を試みようとする目的を持っていたリンネの門弟でした。リンネは、その目的を達成するために門弟を世界各地に派遣しましたが、ツュンベリーは正しくその一人として来日しています。そして、ツュンベリーが日本で収集した多数の植物の標本は、現在ウプサラ大学に保管されているとのことです。
 このツュンベリーが商館長の江戸参府に随行して、江戸の阿蘭陀宿長崎屋に到着したのが、安永4(1776)年4月27日です。
 前野良沢、杉田玄白たちの「解体新書」が刊行されたのが、この2年前の安永2年、そして、平賀源内が「エレキテル」を完成させ、江戸っ子を驚かせたのがこの年です。ですから、草創期の蘭学者にとって江戸参府の阿蘭陀医師と懇談することは、時代の先端を知ることでした。
 江戸に到着すると直ぐに、我々は毎日大勢の日本人の訪問を受けた。ただし、訪問者は、幕府のきちんとした許可を得たもの以外は、誰も我々を訪問する自由はなかった。
老中からの許可を得て真っ先に、医師5人と天文学者2人が訪問し、会談した。質疑応答は、常に通詞を通して行なわれた。天文学者は一般的な日蝕や月蝕に関するものであったが、私も通詞も天体に関する学理についての深い知識を持っていなかったこと、また、彼らも私もこれに関する何らかの助けになるような本も持ち合わせていなかったので、お互いにはっきりと理解するには至らなかった。
 と書いています。しかし、これに比べて、 
 医師らとの会話はずっと楽であった。日本の医師たちは、特に癌、骨折、鼻血、膿瘍(のうよう)、咽喉痛、歯痛、痔疾について教えを乞うた。
 と記しています。また、別の医師二人(桂川甫周、中川淳庵)は、毎日ツュンベリーを訪れてきたのみならず、夜遅くまで居ることがよくあったようです。
 この二人は、物理学、経済学、そして特に植物学、外科学および内科学を深く極めようとしていた。二人ともかなり巧いオランダ語を話し、また自然誌、鉱物学、動物学、植物学についてなにがしかの知識を持っていた。それらの知識は、中国やオランダの書籍と、かってこの地を訪れたオランダ医師から得たものであった。二人はうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。
 とも記しています。

 ケンペルの頃の物珍しさにただ感心し、驚いている日本人。それがツュンベリーの頃になると、外見や風習の違いを越えた、文化的な交流が日本人を高めます。
 阿蘭陀商館長の江戸参府とそれに随行した医師たちは、日本人を刺激し続け、海外の知識普及に大きな役割を果していたことになります。

 幕末の万延元(1860)年、遣米使節に随行した福沢諭吉が、サンフランシスコの工場を見学した際の見聞録に、次の一節があります。
 アメリカ人の考えに、そういうものは日本人の夢にも知らないことだろうと思って見せてくれたところが、此方(こっち)はチャンと知っている。これはテレグラフだ。これはガルヴァニの力で、こういうことをしているのだ。また砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするということを遣(や)っているのだ。ソレを懇々と説くけれども、此方は知っている。
(中略)
 先方では、そういうことが思いも寄らぬことだとこう察して、ねんごろに教えてくれるのであろうが、此方は日本に居る中に数年の間そんなことばかり穿鑿(せんさく)していたのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。
(『新訂福翁自伝』)
 この様に、幕末の日本ではそれまでに海外から得た情報が、生き生きとしていました。
 鎖国政策のため海外(特に欧州)の情報は、長崎・出島の阿蘭陀商館とその江戸参府を通してでしか入らなかったにも拘わらず、我々の先人たちが持っていた旺盛な好奇心が、知の部分では大きく世界の趨勢から遅れるなかった、ということになります。このことが明治の文明開化に繋がったのです。
今回はこの辺りで、失礼を!

参考図書

江戸時代  岩波新書 D104 北島 正元  岩波書店
徳川幕府事典 竹内 誠・編 東京出版社
鎖国=ゆるやかな情報革命
講談社現代新書・江戸時代④
市村 佑一+大石慎三郎 講談社
ケンペルのみた トクガワ・ジャパン ヨーゼフ・クライナー・編 六興出版
江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府 片桐一男 中公新書