主題;「隣人の歴史認識」:
1.前書き: |
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島根県議会が3月16日を「竹島の日」とするを条例を制定したことに端を発し、韓国では反日デモの嵐が吹き荒れ、韓国政府はこの機会をとらえて日本の国連常任理事国入りに反対を表明した。 韓国の金大中(キン・ダイチュウ)前・大統領は北朝鮮に攻込まれ、韓国が塗炭の苦しみに遭ったことも忘れて、あろうことか北朝鮮融和政策を取り経済的に北朝鮮を支えて来た。 現・盧武鉉(ロ・ムゲン)大統領はそれに輪をかけ、北朝鮮提案の38度戦北側「開城」の経済特区に工業団地を作り、韓国製と偽って製品を輸出をしているのである。 6カ国協議が進展しない背景には北朝鮮がいづれ「核」を廃棄するからといって、韓国は日米に対し北への強行姿勢を取らないようにと主張し続けていることがその一要因になっている。 これは北が「核」を持つことを容認しているのに他ならず、いずれ南北が統一した場合に「核」が自前になると思っているのだ。 ジャーナリストの桜井良子氏は盧武鉉大統領について、彼の反米・反日及び容共思想に早くから「週刊新潮」にてその危険性を指摘していた。 昨年の12月に鹿児島県指宿市で行われた日韓首脳会談での共同声明は、現在反古にされたも同然である。日韓の交流を謳っているのだが竹島の日以来、韓国から一方的に交流を断って来ている。 韓国は開催地鹿児島が「征韓論」を唱えた西郷隆盛の出身地であることに難色を示したとのことであったが、日本は開催国に対して開催場所にクレームをつけることは外交上ありえないと押し切った経緯がある。 盧武鉉はこれでキレタのだ。今まで「在任中は歴史問題を外交と絡めない」と言っていたのだが、彼の本音が出て、その反日的言動にはあきれてものが言えない。昨年の大統領弾劾訴追以降極端に落ちた支持率アップをもくろみ、選挙対策を兼ねた反日路線は野党も一緒になっての反日戦線となったため、与党ウリ党の支持率は上がらず惨敗に終わった。 4月中旬ドイツを訪問した盧武鉉大統領は、「日本に比べてドイツは過去の歴史を真摯に反省し素晴らしい」と阿ってみたのだが、ドイツは喜ぶどころか逆に過去にばかりこだわっている韓国の姿勢が問題視されたのである。 そもそも韓国・中国は日本の歴史教科書を問題にしているが、かの国の教科書は国が作った1種類のみであって、その内容は自国に都合の良いことしか書かず、すさまじいばかりの反日的教育をしているのではないのか。 |
2.日韓関係史: |
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日本書紀に初出の半島に関する事項は、素盞鳴尊(須佐之男命)が最初新羅ソシモリに天下ったとある。このことは本誌#78の「渤海国」で述べたが、これは神話の話しであるとしても天智天皇2年(663年)の唐・新羅連合軍と戦った「白村江の戦」は史実であろう。新羅が唐と図って百済を滅亡させようとした時、日本はこれを阻止しようとして軍隊を派遣したのであった。しかし日本はこの戦に破れ、百済は滅亡し多くの人々が渡来して来た。 この時と同じ状況にあったのが、1200年後の日清・日露戦争であった。これは朝鮮及びその背後にある満州を含めた列強の覇権争いで、結果として日本はこの両戦争に勝ち、清国からは台湾(1895)を・ロシアからは遼東半島及び南満州鉄道沿線の権益と樺太の南半分(1905)を手に入れ、1910年には韓国を併合したのである。 ちなみにフランスは1884年にインドシナ(ベトナム・カンボジア)を、アメリカは1896年にフィリピンを植民地とし、欧州ではオーストリアが1908年にボスニア・ヘルツエゴビナを併合している。 韓国ソウルに「独立門」というものがある。これは日清戦争後、清国の柵封支配から独立したことを記念して明治28年(1896)に建てられものなのだが、韓国では1945年以降日本の植民地支配からの独立記念碑と思われている。 またその傍に「大清皇帝功徳碑」といういしぶみがある。柵封を受けていた「明」から満州族の「清」に王朝が変わった時、朝鮮国王は「清」からの服従要求を拒否した。1639年「清」皇帝ホンタイジン(太宗)は朝鮮に侵攻(丙子胡乱と呼ぶ)、時の朝鮮国王は降伏した。この時「清」に服属した証しとして建てられたものなのだが、この「碑」は漢字と満州文字で刻まれている。 記述された内容は、 ①清に対し臣として仕えること ②王の長男、次男と大臣の子女を人質として出すこと ③清に対し黄金100両、銀1000両と20種類の物品を歳幣として納めること ④その他略 当時の人々はおろかその末裔にとっても耐え難いものであると思われるのだが。 この傍に「清」の勅使(清の使節)を迎えるため「迎恩門」が建っていた。国王はこの門の前で土下座して勅使を迎えるのである。朝鮮が「独立」した時「迎恩門」を叩き壊し代わりに建てたのがかの「独立門」なのである。 この「大清皇帝功徳碑」は朝鮮が「独立」した後、海に棄てられたのだが、ご丁寧にも1945年以降海から引き上げられ元の場所に歴史的文化財として据えられているのだ。我々にはこのような彼らの歴史感やものの考え方を到底理解することが出来ない。 日帝によって初めて朝鮮の独立が侵されたと教育しているのだが、有史以来「独立門」が出来るまで宗主国の支配を受け、その年号を使わされていた国が独立していたと言えるのだろうか。 清が攻込む40~50年前秀吉の唐入り、即ち文禄・慶長の役(1592~98)を韓国では「壬辰倭乱」と教えている。この「胡乱」なり「倭乱」という言葉に彼らの歴史認識が現れているのである。すなわち宗主国が一番で次は自国、あとは胡や倭と言って「小中華」の世界に浸っているのである。 1592年日本軍は釜山上陸、2ヶ月で首都漢城が陥落、国王は王宮を捨てて平壌まで逃げた。この時王宮に火をつけたのは暴徒化した民衆であったが、韓国の教科書では日本軍が放火して焼き払ったと思わせる記述をしているとのことである。 李氏朝鮮軍が対馬に侵攻した応永の外寇(1419)など忘れていたのに、秀吉のことを今でも悪し様に言っている韓国は、「対馬の日」によって自ら他国を侵略したことを白状したことに気づかないでいるのだ。 文禄・慶長の役の時、朝鮮農民義軍が戦勝記念に建てた北関大捷碑というものが、かって咸鏡道(現北朝鮮)にあったのだが、日露戦争の後日本軍が持ち帰り現在靖国神社に置かれている。 5/6の日韓外相会談にて、韓国がこの石碑を返せと言ったのだが、これは日韓基本条約そのものを反古にすることなのだ。互いの請求権を放棄し、有償・無償総額何(5?)億ドルで決着したのではないのか。また韓国は北朝鮮を代表する権利はない。なぜなら南北朝鮮とも1991年国連に同時加盟している。即ちそれぞれ別の国なのだ。 スミソニアン/ベルリン/大英博物館;ルーブル/エルミタージュ美術館の展示物はオリエント・アラビア・中央アジア・インドなどから盗掘・略奪してきたものが大部分であるが、もとの被支配国からの返還要求を拒否しているのが世界の常識なのである。 |
3.あとがき: |
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江ノ島龍口に「常立寺」というお寺がある。建治元年(1275)元使五名(正使モンゴル人、宋/金2名、色目人1名、高麗人1名)が執権北条時宗の命によって斬られ、その墓(五輪塔)がこの寺にある。つい先日、横綱朝青龍関がお参りした。 京都「方広寺」には「耳塚」がある。これは文禄・慶長の役の時、首の代わりに朝鮮人捕虜や戦死者の耳を切り取ったものを埋めて供養したものといわれている。江戸時代来日した朝鮮通信使はこの方広寺を案内されても行くことを拒否した。耳塚は戦勝記念碑ではない。 |
引用文献:
1 | 逆説の日本史 鎌倉仏教と元寇の謎 | 井沢元彦 | 小学館 |
2 | 逆説の日本史 朝鮮出兵と秀吉の謎 | 井沢元彦 | 小学館 |