主題;「冊封使と慶賀使・謝恩使」について
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2005/3/14 |
2月の中旬、沖縄へ旅行した時、首里城公園を見物しました。「守礼門」は工事中で全容は見ることが出来ませんでしたが、城正殿や他の建物、そして資料館で沖縄の歴史を示す数々の展示物を見ることが出来ました。その展示物の一つに、中国の冊封使を迎えた儀式の様子を示したものがありました。江戸期、沖縄は幕藩体制に組み込まれ、過酷な状況であったと記憶していましたので、何か変な感じがしたのです。 つまり、沖縄と中国とは、どんな関係があったのかを知らなかったのです。 そこで、今回は沖縄(=琉球)の歴史、それも近世史の若干について、です。 |
1.近世以前 |
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沖縄の島々には、旧石器時代からの人類生活の痕跡があります。そして、そこに居住し、歴史形成を始めた人々は、日本列島の先史文化と共通の原日本文化圏に属していたと言えるようです。 しかし、縄文時代後期になると次第に、本土の先史文化から遠ざかります。そして、本土が大陸の文化の影響をうけて、鉄の使用を伴う弥生式文化を発達させ始めた頃、この発展の圏外にとり残され、両者の間に文化的格差が生じ始めていきます。最近になって、沖縄の島々からも弥生式土器の出土が報告されていますが、その後の歴史の推移からみて、恐らく鉄器の使用を伴わなかったものと考えられています。鉄器の渡来と普及が遅れたため、生産力の発展は遅れ、従って、また歴史の発展も停滞せざるを得ない状況でした。 そして、沖縄諸島全域から須恵器(すえき)が広く出土することから、10世紀ごろ、本土との交渉があり、この前後に沖縄の社会が、歴史時代にすすむ用意を整えたと思われます。それを裏書きするように10世紀ごろに始まると推定されている城(ぐすく)時代には鉄器・水稲耕作の伝来の跡が残っていて、牛馬の飼育も始まっています。9世紀ごろから村落共同体内での階級分化がすすみ、11世紀末期には、各地に按司(あじ、あるいはあんじ)と呼ばれる族長的支配者層が発生します。これらの按司たちは、相互に抗争しつつも、しだいに結合へと進み、14世紀の中頃には沖縄本島に中山・北山・南山と呼ばれる三つの小国家が成立します。 三山(さんざん=三つの小国家をこの様に言います)は、明(みん)の大祖・朱元璋(しゅげんしょう)の招諭にこたえ、「臣」と称して入貢しています。こうして沖縄と中国との公式交通がはじまりました。 15世紀の初め、沖縄本島東南部の佐敷(さしき)の按司だった尚巴志(しょうはし)によって、中山・北山・南山の三つの小国家は滅ぼされ、首里(しゅり)に統一政権が生れます。これを第一尚氏(しょうし)といいます。この尚氏は、尚巴志を含め六代、およそ40年間、各王の在位が平均6年という短命の王統でした。 1469年(文明元=和暦です)、前年まで王府の財務官を勤めていた金丸(かなまる)を中心とするクーデターが起こり、金丸は政権を握ります。そして金丸は尚円(しょうえん)王と名乗って第二尚氏(しょうし)の始祖となります。以後、第二尚氏は明治の廃藩置県まで十九代(409年)の長きにわたって琉球王国に君臨します。しかし、この王家は、第一尚氏との間に血縁関係はありません。 尚円の子で第二尚氏の第三代の王となった尚真(しょうしん)の治世で沖縄に中央集権的古代国家が確立します。王都の首里には強力な中央政府が生まれ、各地に割拠していた按司たちは、ここに集居させられ、属島統治も強化されます。身分制・位階制が定められ、統治機構も整備され、次の尚清(しょうせい)王の時代(1520年代)に、北は奄美大島から南は宮古・八重山諸島までを領土とする琉球王国が築き上げられます。 14世紀以来、この洋上の小王国は、日本・中国・朝鮮だけでなく、シャム・パレンバン・マラツカ・スマトラ・バタニ・アンナン・スンダなどの南海諸島との間で、広く貿易を行なっていました。しかし、16世紀の初頭にポルトガル人が東洋に進出しはじめ、中国商人が南海貿易にのりだし、さらに日本本土の商船も南海諸国に足を伸すようになり、これらに押されて貿易はしだいに衰え、南海貿易は16世紀の40年代で途絶え、ひとり中国との進貢貿易だけが残ることになります。 しかし、首里王府は中国貿易で利益をあげていました。貿易は、進貢の名目で行われ、貿易品は、琉球からは献上物として差し上げ、明国からは下賜品として賜るという建前(たてまえ)になっていましたが、先進国と後進国との公貿易であり、互市貿易だったからです。 |
2.近世 |
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1609年(慶長十四)、薩摩藩の島津氏は、兵三千と舟100隻を出して、琉球を征服します。尚寧(しょうねい)王や多くの重臣たちは、捕虜として薩摩に連行されます。そして、2年後島津氏に対する服従と忠誠を誓って、帰国を許されます。帰国に際し島津氏は、与論島以北の島々(奄美諸島、いまの鹿児島県大島郡)を島津の直轄地とし、沖縄本島以南の島々だけに、尚氏の支配を認めたのです。島津の琉球入りは、『琉球に託して唐物(とうもの)を買い、もって宿債を償(つぐな)わん』ためのものでした。 豊臣秀吉の朝鮮侵略以来、明(みん)は日本との貿易を禁止しており、島津氏が中国貿易の利益を手に入れるためには、進貢国である琉球国を利用する以外には方法がありませんでした。島津氏が、琉球統治の基本法ともいうべき「掟(おきて)十五ヵ条」の第一条に『薩摩の命令以外のものを中国に注文してはならない』と規定したのもこのためです。 島津と首里王府は、中国に対しては、琉球が島津の支配下にあることを隠していました。中国は、ひところ倭寇(わこう)や秀吉の朝鮮侵略に懲りて、日本との貿易をひどく恐れていました。そのために首里王府は、薩摩に隷属していることが発覚すれば、必ず通交を拒絶されるとみていたのです。一方、島津氏は、幕府や本土諸藩に対しては、ことごとに琉球という“異民族国家”を付庸国として領有していることを誇示していました。沖縄人は、唐(とう)・大和(やまと)の御取合(おとりあい)(中国・日本との交際)のため、中国人でもなければ日本人でもない一種宙ぶらりんな“琉球人”として行動することを強いられたのでした。 こうして琉球王国は、島津入りから280年間、中国貿易の利潤は薩摩に掠め取られ、民衆は薩摩と首里王府の二重の収奪、過酷な支配に喘ぎながら、明治緯新を迎えたのです。ただ、この間、羽地(はねぢ)朝秀・具志頭文若(ぐしちゃんぶんじゃく)・尚敬(しょうけい)など“明君賢相”の領導で、古代的遺制をしだいに克服し、独特の文化を発展させました。 1871年(明治四)の廃藩置県で、琉球は鹿児島県の所管になります。その年の12月、たまたま沖縄の宮古島住民が台湾に漂着し、高砂族(たかさごぞく)に殺害されるという事件がおこります。これを契機に明治政府は、“日清両属”を清算し沖縄が日本のみに専属していることを公然化させるため、清(しん)国との朝貢関係を断ちきらせるための処置(琉球処分といいます)を、次々と実行に移します。1872年(明治五)9月14日、最後の琉球国王尚泰(しようたい)が、明治政府によって“琉球藩王”に封ぜられます。ついで1879年(明治十二)、明治政府は、警官160名・歩兵大隊400名を出動させ、王族および上層士族の抵抗を抑圧し、琉球藩を廃して沖縄県とし本土の政治体制に組み入れたのです。 当時、明治政府の仏人法律顧問ボアソナードは、琉球処分にあたっては、第一に前もって中国と交渉すべきこと、第二に当分のあいだ沖縄側にある程度の自治を許し、善政をしいて『住民の信従』を得るようにせよと上申していました。また自由民権左派の新聞は、政府が沖縄を強制的に併合しようとしていることを批判し、『条理と琉球人民の輿論に従い、出所進退正々堂々たるべし』と論じていました。しかし、このような上申・批判は無視され、置県処分は軍隊と警察の出動のもとに強行されます。当時の歴史的事情から、いずれは、沖縄が日本という近代的な国民国家のなかに統合され、沖縄人が日本民族の構成員となることは歴史的必然だったでしょう。しかし、明治政府の置県処分は、一方で中国との関係で、国際信義に反するものでしたし、他方で沖縄との関係では、自然な民族的統一・結合だったとは言えないように思います。 そして、これ以後今日に至るまで、この地では様々な出来事がありました(今もあります)が、ここでは、略させていただきます。 |
3.冊封使(さくほうし、又はさっぽうし) |
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冊封使とは、中国でその朝貢国の国王に封ずる詔勅を持参する使を言います。 1368年(応安元=和暦)、中国を支配してきたモンゴル人国家「元」が滅び、漢族の国家「明」が建国されます。その余波が沖縄の島々にも押し寄せてきます。明の初代皇帝朱元璋・洪武(こうぶ)帝は、建国後ただちに諸国に使者をおくり、新国家誕生を告げ、服属をうながします。明成立の四年後の1372年、楊載(ようさい)を団長とする使節団が「琉球」に派遣され、三山の一つ、中山の王察度(さつと)に入貢をうながしたのです。 「入貢」とは、中国皇帝権力に対して服属を表わすための外交的行為です。楊載が携えてきた洪武帝の詔書には、国名を「大明」、年号を「洪武」と決めたこと、使者を周辺の国々に遣わしたところ多くの国々が「入貢」してきたことなどを説明した上で、「なんじ琉球は中国の東南、海のはるか遠くに位置するため、いまだにこのことを知らないでいる。そこで、とくに使者を派遣して説明させるので、よくよく承知するように」とありました(『明実録』)。「琉球」の文字が記録に登場するのはこの『明実録』が最初です。以後、奄美地域・沖縄地域・先島地域を総称する用語として「琉球」の名称が定着することになります。地元の勢力が島々を統一して総称する前に、外から「琉球」という総称が与えられてしまったことになります。 楊載の琉球訪問は、その後の琉球の歴史に決定的な影響を及ぼしました。琉球側としては明の勧誘を断ることもできましたが、琉球内部における三山の対立が背景にあることを考えれば、これは渡りに船でした。「入貢」という形をとった貿易の膨大な利益、また琉球の覇者としての正統性が付与されるのも大きな魅力でした。楊載の訪問をうけた中山王察度は、世界帝国である明と関係を結び、他の山北・山南に対し有利な立場をえようとしたのです。ちなみに、このときの明の記録に名前が記載されていることから、察度は琉球史上、実在が明らかな人物第一号となります。 一方、皇帝の使者楊載が、僻遠の島を訪れて入貢を促す行動をとった目的は、二つあったようです。一つは、中国皇帝を頂点とする世界秩序(冊封体制)建設のための一員に琉球も加えようとの意図からです。そしてもう一つは、当面する緊急課題として、琉球の馬(小型の馬)と硫黄が欲しかったためでした。というのは、モンゴル勢力を長城(万里の長城)の北に駆逐したとはいえ、モンゴル勢カは依然として中国再突入の機会を狙っていたのです。明としてはこれに対抗する軍事行動を引続き継続する必要があり、そのためには火薬の原料となる硫黄と、前線に軍需物資を運ぶ馬の確保が必要だったからでした。 察度は、冊封体制の一員となることを表明するため、楊載の帰国の船に弟の泰期(たいき)を団長とする使節団を同乗させます。泰期は、公務を帯びて東シナ海を越えた最初の琉球人となったのでした。 察度が楊載の勧誘を受けて弟の泰期を遣わしたことは、中国の進貢(朝貢)国の仲間入りをするという意思表示でした。それ以後、察度は毎年のように進貢のための使者を派遣しますが、三山の他の地域・山南・山北の両王もまた同様の関係を中国との間に締結しています。 察度は1396年に死去し、息子の武寧が跡を継ぎます。そして、1404(応永十一)年2月、「中山王世子」武寧は、皇帝に使者を送り、父察度の死を告げて「冊封」を要請、これに応えて皇帝は、その年冊封使時中(じちゆう)を遣わし、武寧を正式に「琉球国中山王」に封じます。ですから、「冊封」とは中国皇帝の名において琉球の覇者の地位を安堵することであり、時中は琉球にきた冊封使のはじめとなったのでした。 その後、三山時代の冊封使は中山王思紹、山南王他魯毎にも派遣されていますが、統一王朝樹立後の最初の冊封使は、尚巴志のために派遺された柴山でした(尚巴志の即位、1422年。冊封、1425年)。そして、尚巴志以後の冊封使派遣は「琉球国中山王」=琉球国王に対してのみ行なわれました。 そしてその後、1633年(寛永十)、尚豊(第二尚氏の第八代の王、1621年に即位)も明の冊封をうけ、正式に中国より“琉球国中山王”として認められます。薩摩は、明国との貿易の関係上、琉球国王が明国より冊封を受けることを許していたのです。その冊封使派遣は、王国の崩壊までの合計24回、継続したのです。 「冊封体制下の琉球」という立場が固定化されたことは、琉球王国の覇者の地位が中国皇帝の名において外交的に認められたということであり、その結果として、琉球は対中国関係を外交関係の機軸とするようになったという意味になります。中国の動向に規定される「運命共同体」の一員として、琉球王国はみずからの立場を選択したのです。そして、大統暦(中国の暦)が皇帝から毎年のように支給され、進貢国の義務として公式文書などに中国元号を用いることになりました。この結果、「原日本文化」をもちながらも、しだいに独自化の長い道のりを歩んできた沖縄の歴史は、琉球王国の成立によって、明確に「中国色」を強める過程をたどるようになったのです。 |
4.慶賀使・謝恩使 |
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慶賀使(けいがし)とは、幕府将軍の代がわりに琉球国王から送る使者、そして謝恩使(しゃおんし)とは、琉球国王の襲封(即位)時に江戸へ発遣した使者を言います。 沖縄を征討した島津氏は、徳川家康・秀忠父子より功労を讃えられ、沖縄の支配を委ねられます。そして、1636年(寛永十三)、尚豊(しょうほう)の代になって、『中山王号』がはずされ、『国司』と称するように申し渡されています。更に王府は、島津氏に対して毎年春には新春を寿ぐ年頭使を送り、島津家に関わる吉事凶事には、特使を派遣するのが慣例になります。これはやがて“上国(じょうこく)"、あるいは“大和上り”という言葉が定着するようになります。 また幕府に対しては、慶賀使と謝恩使を発遣することが義務づけます。これが白石の「南島志」にも記録されている“江戸上り”です。 「江戸上り」は島津氏の要求によって、できるだけ中国の風俗をまね、異国情緒をだすように強いられていました。使者の一行は中国服を身にまとい、役名も中国式に正使(チエンスイ)・副使(フウスイ)・賛議官(サンニイクワン)・楽正(エウチエン)・楽童子(ユウトウンツウ)などと読ませています。 1709年(宝永六)の島津氏の訓令には、道中の宿幕から海陸旅立ちの諸道具・雨具の類まで『異朝の風物』に似せるようにすることが指示されています。また、1850年(嘉永三)の尚泰即位の謝恩使発遣にあたって王府の出した訓示には『すべて立居、歩行の挙動、かつ又食事の喰い様などまで、日本格(きゃく)にこれなく、唐風めき侯様に、あい嗜(たしな)むべき事』と述べられているほか、異国の感じをだすために微にいり細にわたる注意事項が付されていました。 使者一行の人数は、朝鮮使節には及びませんが、100人から約200人で、この一行と薩摩藩主参勤交代の一行をあわせれば、総勢は数千人の大行列団でした。鹿児島から淀川口までは海路、伏見までは海路を引き綱で航行、そしてその後は東海道を江戸に上ります。琉球の使者は、中国風の異国然としたあでやかな服装で、街道の要所や江戸市中の通過の際には、琉球楽器を用いた路次楽を奏しながら進行しています。朝鮮使節の場合と同様、これを迎える街道、市中の人々は事前に知らされている道筋に桟敷、竹垣を組み、群をなして見物したのです。特に、天保・嘉永の時期には一種の「琉球ブーム」が起きています。琉球国使節に対する江戸市民の意識は、朝鮮使節の場合と同様でした。江戸における琉球国使節の役目は、国王からの書簡と献上品を将軍に進上し、琉球音楽、舞踊を披露することと、宿所薩摩藩邸における文化交流にありました。また、琉球に興味のある大名や、文人たちがこぞって琉球の情報を得ようと江戸の市中を奔走したと、記録されています。 江戸期における琉球国からの使節(慶賀使・謝恩使)は、寛永11(1634)年をその始まりとして、嘉永3(1850)年に至るまで合計22使18度、渡来しています。そして余談ながら、使節の献上品の中には、特産品の泡盛が必ず含まれていたとのことです。 薩摩藩にとって琉球国は、明(みん)国との生糸貿易(進貢貿易)による重要な経済植民地であり、そのための幕府の了解を取り付ける必要がありました。また、幕府をはじめ諸藩に“異国”沖縄を支配する島津氏の権威を印象づけるには十分な役割を担ったことになります。 |
島津の琉球入り後の沖縄の政治的地位について、“日支両属”と言われているようです。ですが、日本(薩摩=島津)との関係は、支配・被支配の関係にあり、事々に政治上の監視・干渉がなされていたのに反し、中国との関係は、朝貢という外形による貿易であり、経済的な利益を得るため事大の礼(じだいのれい)を取っていたにすぎません。中国との間には、政治的な支配・被支配の関係はないのですから“日支両属”という表現はあたらないとするのが、歴史的事情を正確に伝えていると思います。 沖縄と中国(明、そして清)と強い繋がりは、表面的には貿易上の関係であったにしても、そこに暮らす人々にとっては様々な影響を受けたに違いありません。それが首里城公園の史料の中に冊封使の様子を示す展示物があった理由だと分かりました。 |
今回はこの辺りで、失礼を! |
参考図書
沖縄県の歴史 | 新里 恵二、田港 朝昭、金城 正篤 | 山川出版社 |
史料が語る 琉球と沖縄 | 小玉 正任 | 毎日新聞社 |
琉球王国;岩波新書 | 高良 倉吉 | 岩波書店 |
徳川幕府事典 | 竹内 誠・編 | 東京出版社 |
付; | 琉球国王の使者「慶賀使・謝恩使」を、「賀慶使・恩謝使」としている図書もありましたが、ここでは上述の用語を使いました。 |