主題;「江戸のハンリュウ」について
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2005/1/24 |
「ハンリュウ・ブーム」と言われます。この「ハンリュウ」を漢字で書くと『韓流』となり、韓音と和音が混じってこう読まれます。90年代末、中国語圏で韓国製のドラマや映画、音楽が流行したことから、この様に呼ばれたとのことです。日本では、『冬のソナタ』(いわゆる冬ソナ)などのドラマに出演した、カッコ良い韓国の俳優にいくらかの日本女性が夢中になり、人々の視線が韓国に集まっているとマスコミが持ち上げた一つの現象です。 話は替わります。 江戸期の日本は鎖国政策を採っていました。しかし、唯一の例外が隣国朝鮮(李氏)との外交関係でした。この朝鮮からの使節団(これを朝鮮通信使と呼びます)が日本を訪れた際には、幕府はこれを歓待しています。歓待したのは幕府ばかりでなく、各地の諸大名や一般庶民までもです。この歓待の様子は、ヒョッとすると“ハンリュウ”のハシリであったかも知れません。 今回は、その「朝鮮通信使」についてです。 |
1.朝鮮通信使 |
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通信使という名称による朝鮮との外交は、江戸期に始ったものではなく、室町時代から始っています。室町幕府の足利将軍と高麗王朝や李氏朝鮮国との間で外交がもたれていました。高麗王朝の末期、貞治6(1367)年と永和元(1375)年に王朝は、使節を派遣して来ます。朝鮮の史料『高麗史節要』には「乃(すなわ)ち興儒(使節団の正使;羅興儒)をもって通信使となし、これを遣わす」とあります。朝鮮側では、既に「通信使」と言う名称を使っていました。 通信とは「信(よしみ)を通じる」という意味の言葉と解釈されています。 室町幕府の基礎を築いたのは、三代将軍義満です。義満は中国(王朝は明です)と積極的に交易を行なったことはよく知られていますが、朝鮮との貿易も盛んに行なっています。この時代、李朝政府は前後6回の朝鮮通信使を日本へ派遣しています。朝鮮通信使の度重なる訪日と交流は、足利幕府だけでなく、大内氏や九州諸大名の使者たちによる頻繁な訪朝と交易をもたらし、両国の相互理解をより深め、善隣友好の機運を高めました。 そして、天正18(1590)年、しばらく途絶えていた朝鮮からの正式な使節がやって来ます。信長の後を継いだ秀吉の時代です。この時の秀吉の態度が一方的であり、相手方を落胆させると同時に激怒させることになります。この出来事が一つの大きな原因となって、日本で言う文禄・慶長の役となっていきます。これは紛れもない侵略戦争でした。
この戦争は秀吉が死亡することによって終結します。この時から国内の権力は、豊臣家から徳川家へと移行していきます。幸いなことに家康は、朝鮮出兵の直接の軍勢には入っていませんでした。このことが朝鮮との友好関係の修復には重要な意味がありました。 日本と朝鮮との間に対馬があります。対馬藩はこの両国の仲介役でしたが、藩の財政の大きな部分を朝鮮貿易が占めていました。それがこの戦争によって貿易活動が出来ない状態になってしまいます。そこでいち早く終戦処理をして、通商条約を復活させたいと願い、家康に働きかけていたのです。 慶長10(1605)年、対馬藩の努力があって、朝鮮国使がやって来ます。家康が京都に上洛し、伏見城で会見します。目的の一つは、修交条約締結でした。 こうした状況の中で第一回の通信使が実現します。慶長12(1607)年、正使呂祐吉を代表とする467名の使節団が我が国を訪問します。以降、文化8(1811)年まで都合12回の通信使が訪日しています。 |
2.朝鮮通信使の目的 |
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朝鮮通信使は、徳川幕府の派遣要請によって来訪します。この善隣友好の外交が展開されたのは、日本と朝鮮のそれぞれに目的があったことは明らかです。それぞれの国の目的を列記すれば次のようになります。
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3.朝鮮通信使の訪日回数 |
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朝鮮通信使の訪日は、12回に及びます。その経路は、下図のようになっています。
対馬から赤間関を経て瀬戸内海を東航し、大阪河口から遡上して大阪の町に入り、ついで淀川を航行して京都に上がります。その後陸路、東海道を通って江戸へ入ります。漢陽(ソウル)から江戸までの距離四千km、約八ヶ月の使行でした。 そして、朝鮮通信使の訪日した年代を記すと次のようになります。
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4.歓待、その一例 |
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朝鮮通信使一行が漢陽を出て、江戸に到着するまで日本の各地に宿泊しますが、この間、諸大名によって歓待されています。 そして通信使一行の江戸での歓待振りは、図2のようでした。
歓迎の様子は、まさに「一寸の空隙のない」ほどで、「大坂、倭京(京都のこと)に視るにまた三倍を加う」という賑わいでした。江戸っ子は、朝鮮通信使一行の到着を指折り数えて待っていました。江戸の出版元はそれを知り、通信使到着の一年前から幕府の許可をうけ、行列絵本や絵図の刊行を準備していましたが、それらの出版物は通信使の江戸入りが近づくにつれ飛ぶように売れていました。そして当日になると、行列絵本や絵図と見くらべながら実際の行列を見物し、熱狂的な歓迎ぶりを示したのです。もちろん地位の高い人や金持ちは、特別に設けられた桟敷席などで通信使一行を見物したのです。一般の庶民は一行が通過する道筋にひしめき合い、首を伸ばして垣間見ていたのです。 当時の川柳に、 「高麗人(こまびと)も馬から落ちし下女が乳」 梢蝉 という句があります。鈴木勝忠氏の校注によれば、「朝鮮の使者も、道端の、着付けのだらしない、下女の大きな乳房に見とれて、落馬するであろうと笑ったもの」(岩波版『日本古典文学全集』四六巻)とありますが、ここにも江戸ッ子の異常なまでの関心の強さと世態人情の機微が窺えます。 また、通信使一行の行列見物に繰り出した町人や武家方の女性の衣装がきらびやかでもありました。八代将軍吉宗の享保の改革以降は、たびたび奢侈禁止令が武家、町人を問わず出されていましたが、それでも行列見物にことよせて華美な衣装を着用するものが多く、明和元(1764)年には「町触」でその禁止を命令しています。しかし、町人は一世一代の見物の場でしたから常用の衣装ではもの足らず、新たに新調したり、火事装束も派手なものに取り替えて出かけています。 通信使一行の江戸滞在は、毎回二十日から一カ月近くに及びます。この間、公式行事はこなすのですが、それ以外に日朝双方の文人、学者たちによる筆談、詩の唱酬などの文化交流がありました。 日本の文人、学者たちからすれば、「一世一代の奇遇」であるとして、宴を催して朝鮮の文人らと交流を深め、あるいは客館へ押しかけ、交歓していました。申維翰(第9回の製述官、歯に衣を着せぬ、単刀直入の辛辣な日本評を残しています)などは、「連日、館に在り、尋常詞客の来って見るもの相つぐ、詩律唱和および筆談酬酢(しゅうさく=主客互いに酒を酌み交わすこと。転じて、問答、または応対の意)、閑隙なきに苦しむ。その上、外から請乞するものがある。南森東の両長老の手をへて頼んでくる。いわく集序、いわく題画、いわく賛像、いわく詠物の類、みな手書をねがい、円章を押して去る。人をして汨悩暇なからしむ」と、その応接にいささか悲鳴をあげています。 更に、朝鮮通信使との交流は時代が下がれば下がるほど活発になってきます。大名や学者、知織人の交流もますます盛んになっていきますが、一般民衆までがこの交流に参加しました。十八世紀の末ですが、中井積善という学者がいます。彼はこのような朝鮮外交のありさまを憂えて、時の老中松平定信に提出した意見書があります。これが『草茅危言』です。 『草茅危言』によれば、いろいろな人びとが通信使の宿を訪れているとあります。「また三都にては」というのは京都・江戸・大坂です。「また三都にては平人までも手寄さえあれば、館中に入り贈答するに官禁もなければ(取り締まり規定もないので)、浮草の徒先を争って出る事なり。館中雑沓して(通信使が泊まっている宿がこみあって)市のごとく、粗文悪詩をもって、韓客に冒飾し、その甚だしきは一向未熟の輩」漢詩漢文を知らんのまでが行くというのです。「百日も前より七律一首ようやく荷ひ出し」、漢詩を持ってにわか勉強で通信使に添削を頼む。そういう意味では徴笑ましい風景だが、もうこれは嘆かわしいと中井積善は言っています。「それを懐中し、膝行頓首してさし出し、一篇の和韻を得て、終身の栄として人に誇るなど笑ふべし」。通信使にみせて、これは見事と言ってもらったら、村や町に帰って、おれは偉いぞと言う。それぐらいに人気があったと言うことです。 |
このような歓待振りは、江戸期の我が国が唯一、国交のあった朝鮮国の親善使節を目のあたりにすることによって得た文化的影響や、学者、文人が筆談、詩律唱和で外部の世界を知りたいという欲求を満たしたかったに違いありません。この新しいことに対する知識人や民衆の健全な受容精神が、幕末から明治維新、そして終戦以降の我が国の発展に繋がっているものと思います。 そして、今、「ハンリュウ」です。これも新たな展開の一つの切欠になっているのかも知れません。 |
今回はこの辺りで、失礼を! |
参考図書
朝鮮通信使 -善隣と友好のみのり- | 上田 正昭 編 | 明石書店 |
朝鮮通信使史話 | 朴 春日 | 雄山閣出版 |
朝鮮通信使と江戸時代の三都 | 仲尾 宏 | 明石書店 |