主題;「クラウゼヴィツ」について:-

1.まえがき:

   昨年のNHK大河ドラマ「新撰組」の中で、新撰組兵法指南「武田観柳斎」が西洋軍学書物を50両もの大金にて手に入れたため、隊士の一人が切腹するはめになった場面があった。この軍学書はフランスの兵法を和訳したもののようなであったと記憶している。
 クラウゼヴィツ(Carl von Clausewitz)の「戦争論」は、幕末にはオランダ語に翻訳されたものが既に幕府の書庫に入っていたとのことであるが、翻訳はされていなかったらしい。当時は戦争理論より実戦的な用兵論が要求されていたことが原因かもしれない。

 「戦争論」が翻訳されたのは明治に入ってからであるが、ドイツに留学した森鴎外も翻訳しているとのことである。

2.カール・フォン・クラウゼヴィツ
    (Carl von Clausewitz):

   クラウゼヴィツはベルリンから100Km程西にある町、エルベ川中流の現ザクセン・アンハルト州、当時はプロイセン王国領であったブルク( Burg )にて1780年に生まれた。
 なぜ 「Karl」 ではなく 「Carl」 なのか?名字からはスラブ系と思われるがこのことは、プロイセン国家成立の過程から見てなんら不思議ではない。
 (#31 プロイセンについての下記URLを参照)
http://suimu-tei.jp/st031.html

 父が軍人であり、フランス革命(1789)の影響か、1792年若干12歳で軍隊に入る。1793年には准士官としてマインツにてフランス軍と戦った。オーストリア・プロイセン軍は旧秩序回復を目指しフランス奥深く侵入したが、パリ郊外ヴァルミーにて破れ後退し、ライン一帯をフランスに占領されてしまう。
 1806年プロイセン・ロシア連合軍はイエナ・アウエルシュタット(Jena-Auerstadt)の戦いでナポレオンに大敗した。クラウゼヴィツは降伏を拒否してフランス軍に挑むが、捕虜になりフランスへ連行(パリにて9ヶ月間幽閉)された。
 1812年ナポレオンはロシアに攻込んだが、この時の1/3はライン同盟・プロイセン・オーストリア軍であった。クラウゼヴィツは故国プロイセンを捨てロシア軍に身を投じたのである。
 ロシアは焦土作戦に出て、ナポレオン軍をロシアという広大な空間に引き出し戦力を分散させて勝利を得た。ロシアから帰ったクラウゼヴィツは38歳の若さで将軍となり、その後士官学校の校長時代に「戦争論」を執筆した。 
 クラウゼヴィツはフランス・ナポレオンに対する個人的復讐心からこの「戦争論」を書いたのである。
 なぜならば最後の章は”フランスを全滅する作戦”で終わっているとのこと。1831年コレラにて死亡享年(51)。

3.戦争論 (Vom Kriege):

   戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない。戦争とは単に政治行動であるのみならず、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。
 戦争は政治が生みだしたものである。政治が頭脳で、戦争は手段にすぎないのであって、その逆ではない。したがって軍事的着眼点は常に政治的着眼点に従属しなければならない。
 大軍事的事件や、それに関する計画は、純粋に軍事的な判断にゆだねられるべきであると考えることは許せないことであり、有害でさえある。実際の作戦計画の作成にあたって政府のなすべきことについて、純粋に軍事的な判断をさせる目的で軍人に意見を求めるのは事理を誤ったものである。
 広大な領土を持つ国の征服は困難である。
 最後の勝利を得る可能性は、必ずしも二、三の会戦に敗れ、首都やある地方を失ってもなくなるものではない。敵の攻撃力の衰えに乗じて反撃に出れば、強大な戦力を発揮して、最後の勝利を獲得出来る。
 全兵力の結集こそ戦略の大原則であり、兵力の分割は避けなければならない。
 流血をいとう者は、これをいとわない者によって必ず征服される!戦争は厳しいものであり、博愛主義者のごとき婦女子の情が介入する余地などない!
 戦争哲学のなかに博愛主義をもちこもうなどとするのは、まったくばかげたことである。
 つまるところ戦争とは、敵に対してわがほうの意志を強いて強要する、ひとつの暴力行為なのである

 戦争は暴力行為であり、その行使にはいかなる限界もない。かくして一方の暴力は他方の暴力をよびおこし、そこから生ずる相互作用は、理論上その極限に達するまでやむことはない。

4.アラブとイスラエル :

   クラウセヴィツは戦争とは何か (Was ist der Krieg ?) と問い、それを定義し、その目的や戦略等を理論付けしたのであるが、何故に戦争は起きるのか (Warum bricht der Krieg aus ?) を語ってはいない。
 戦争は政治家や軍人の個人的意思によって起きているのではないのか?直近の例では「湾岸戦争」は、サダム・フセインのクエート併合の野心から、「イラク戦争」はフセインによるブッシュ・ジュニアの父であるブッシュ元大統領への侮蔑に対する復讐心からと考えられる。両戦争とも「石油」というのキーワードがからんではいるが。
 第一次世界大戦までトルコの支配下にあったイラク・ヨルダン・シリア(レバノン・パレスチナを含む)がトルコの敗戦によって、シリア(レバノンを含む)はフランスの、イラク、ヨルダン・パレスチナはイギリスの統治下に置かれた。
 イラクが1932年に独立した時、イギリスは石油が大量に出るクエートをイラクから分離させていたのである。
 第二次世界大戦終了後、ヨーロッパ各地に居たユダヤ人がイギリスの後押しによって、続々とパレスチナへ移住し始めた。そこに住んでいたアラブ(パレスチナ)人はガザ(エジプト領)、ヨルダン川西岸地域に移住した。そのほかシリア・レバノン、ヨルダンへと難民となって渡り、現在もキャンプ暮らしをしている。
 イスラエル建国以後、数回に亘ってアラブとイスラエルとの戦争はあったが、1979年にエジプト・サダト大統領は、アメリカの仲介もありイスラエル・ペギン首相との間で平和条約を結んだのである。
イスラエル及びパレスチナ・ガザ地域ではミサイル攻撃や自爆テロなどにて現在も戦闘は続いているが、アラファト議長が死亡し、アッパス氏が新議長として復活したのでパレスチナ国家樹立へ向うとよいのだが。

5.あとがき:

   資本論を読まずマルクスを語るようなものではあるが、「戦争論」を読まずクラウゼヴィツを語ることにした。
 シラーは「三十年戦争」にてカトリック教会とプロテスタント教会の線引きについて「剣によって両教会の境界は定められた。この境界は剣によって守らなければならない。最初に剣を捨てる者に禍あれ!」と言っている。
 スイスやオランダの独立は支配国に対する武力蜂起によって勝ち得たものであり、クラウゼヴィツは「ヴィルヘルム・テル」や「オランダ離反史」を書いたシラーの影響を大いに受けた。
 ソ連邦が崩壊し、そこに組み込まれていた各民族国家は分離独立したが、連邦内に異民族を抱えるロシア自体、今後ますます民族間の争いが激化して行き、中国にてもチベットやウイグルの独立問題が顕在化すると思われる。クラウゼヴィツの戦争論は大戦にも、ゲリラ戦にも有効と思われているのである。

参考図書

クラウゼヴィツの暗号文 広瀬 隆 新潮社
物語ドイツの歴史 阿部 謹也 中公新書