主題;「黒船来航」について
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2004/12/30 |
泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も眠れず 嘉永六(1853)年六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる四隻の軍艦が浦賀沖に現われ、江戸中が大騒動になったとき、庶民はその世相をこの様に詠っています。 上喜撰とは、当時の高級茶の銘柄です。蒸気船で上や下やの大騒ぎを、これを四杯も飲めばカフェインで興奮し、夜も眠れなくるということにかけています。 ですが、「夜も眠れず」を恐怖や脅威を歌ったものと解釈するのは、いささか読み過ぎだと言われます。しかし、当時の世相を的確に表わしているのでしょう、今日に至るまでこの狂歌は膾炙(かいしゃ)されています。 この時、眠れなくなった幕府は「鎖国は我が国の国是である故、開港は出来ない」として、ペリー提督の要求を断固としてはねつける選択肢はありました。しかし、それを選択しませんでした。 今回は、その「何故?」についてです。 |
1.来航のねらい |
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アメリカがぺリー艦隊を派遣して、日本に開港を迫った理由の一つは、当時のアメリカにとつて、アジアは莫大な経済的利益を産む地域であったことです。それは年間500万ドルの利益を産む捕鯨業の海域であり、輸出入合わせて年間1400万ドルという国家予算の16%にも当たる取引を行なっている地域でした。日本への開国を迫ったアメリカの対日政策も、その根底にこうしたアジア地域全体の経済的権益の拡張と保護がありました。 そしてもう一つは、アメリカにとってのアジア地域での経済的権益を保護、拡張するためには、列強と競つて、アジアにおける政治的な影響力を行使することでした。当時の具体的な政治的影響力は、海軍の軍事力です。そのためにはアメリカ海軍の太平洋・アジア海域でのシーパワーの確立が不可欠です。捕鯨や貿易、そして海運も、海軍の保護と後ろ盾がなければ成り立たない状況でした。 当時の世界の海運国は、イギリスとアメリカでした。アメリカ海軍の太平洋海域での仮想敵は、イギリスであり、太平洋戦略は、イギリス海軍を対象に立てらています。イギリスがシンガポール、ホンコン等に海軍基地を持ち、アジアを支配していた状況に対抗するには、そのより東南の地域に対して、幸にしてまだ手つかずに残されている日本を含む北東アジア地域に支配権を確立することでした。 アメリカの太平洋から東南アジアへの最短のコースである日本を結ぶラィンに軍事的な支配権を設定することによって、イギリスと対等にアジアにおける地歩を固めることができます。幸にして日本はイギリスの手をまぬかれている国であり、蒸汽船にとっては重要な意味をもつ石炭も産出し、補給や船艦の修理や休養に適した多くの港があり、船隊の停泊地としては絶好の条件を持っていました。 |
2.日本の事情 |
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1) 事前情報 | |
江戸期の日本人は、直接外国に出向いて情報を集めることは不可能でした。ですから、日本に入って来る海外の情報は、長崎の出島に入港を許されているオランダ船と中国船によってもたらされるものだけでした。そしてこれらの情報の前者を阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)、後者を唐(とう)風説書と呼んでいました。唐風説書は、その情報源が出航地の江南辺りであるため、列強については不十分なものでしたが、阿蘭陀風説書は、その点十分なものでした。幕府は東アジアにある列強の艦隊配備の状況などについての情報は特に重視していました。 嘉永五(1852)年子入津阿蘭陀風説書によって、アメリカ艦隊派遣の詳報がもたらされています。その文書は次のようでした。 「一 北アメリカ合衆國より日本へ軍艦を發する風聞又行はる其風評に使節を日本江差遣しブレシテント(執政官名)より書を日本國帝江達し且漂民を護送し兼而日本の港澳を交易の為開く事を乞ひ且カリホルニヤ(アメリカ地名)より支那へ往來する水蒸氣船に供給する石炭置場を便宜の港中の地に備へられん事を請はんと欲すといふ方今支那海シユスケハンナ(船名)軍用水蒸氣船フレカットの指揮官アウクユツタ(人名)といふ日本へ差遣し軍艦惣督に任し且下文二曰戦艦を官す此船ハ皆支那にあり サラトカ」 コルヘット」 フレイモト」 シントマリヌハンガカ其後風聞にハ「アウリヱカヒツ」 之代りペルリ(人名)といふ者江戸に至る爲下文之船を駕して已に支那に着居せり更に下文の海軍を増加す シスシワプ 水蒸氣船一艘尚旗カビタンムセリユネイ(人名)別にペルリ又下文の對艦を率來れり プサンセトウン水蒸氣船シキツフ一艘指揮官シトネイスシツトセチス(人名)近日新聞に依れハ上陸攻戦の兵具も船中に載るといふ 但四月以前二も日本に至るなるへし若遅延するも知るへからす」 北アメリカ合衆國が日本国に通商開始の使節を送りたがっていて、そのための艦隊が、既に中国に到着している。そして、派遣する軍艦の名前を挙げ、指揮官(使節)をペルリ(ペリー)に交代させていることを伝え、更に船舶には上陸用の兵員および武器を携帯していること、および日本への到着予定も記載されています。 風説とは言いながら結果的に見れば、確度の高い詳細な情報がもたらされています。ですから、幕府は、ペリー来航前に、アメリカ海軍の来航という事実をかなり詳細に把握していたことになります。 |
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2) 海防認識 | |||||||||||||||||||
日本の近海に外国船舶が出没しはじめた天明期(1781~)以降、海防は幕府にとって問題となり始めています。この場合の海防とは、砲台の構築と大砲の製造および軍艦の建造を言います。 林子平が「海国兵談」を完成させたのは天明六(1786)年で、その全部が刊行されたのは寛政三(1791)年です。この中で、海は世界に通じており、日本は大砲・軍艦の建造と砲台の構築をして沿岸の防備を固めるべきであることを力説しています。幕府は、いたづらに人心を惑わすものとしてこれを罰しましたが、海防の必要性は、現実問題として否定することはできず、幕府は対策が講じています。 天明八(1788)年、老中に就任した松平定信は、海防の必要を認め、積極的な対策に乗り出すことになります。寛政四(1792)年十二月、江戸湾を中心とする沿岸の防備のための見分をしていましすし、寛政五年には、要所要所の地図と防備のための設備の図面と、普請の計画書を作成させています。 幕府は沿岸の防衛をどの様に考えていたのでしょう。ペリー来航を迎えた幕府の防備計画の諮問に答えて、嘉永六(1853)年七月、勘定奉行・川路左衛門尉と勘定吟味役格代官・江川太郎左衛門は、江戸湾の砲台建設計画を提出しています。それによれば、「異船防禦に付、富津之出洲へ向け、旗山十石崎先きより海中へ新築御臺場雁行に飛々御取建有之候得ば、永世之御備に罷成、先づは御安心之事に候」と言っています。そして、その経費の見積りとして、次のような数字を挙げています。
この金額がどれ程のものか、比較の対象として若干年代のずれはありますが、後にあげる天保十三(1842)年の幕府の歳出と比べてみます。同年の歳出額が 1,453,209両でした。ですから台場建設費の14,990,312両は、その約10倍、つまり10年分という額に達します。しかもこれは九ヶ所の砲台(御臺場)の建設費だけで、大砲の鋳造、その他の付属設備は含まれていません。 定信は、鋭意沿岸防備に力を傾けましたが、その罷免と同時に沿岸の防備工事は中止されてしまいます。財政難のためでした。 |
3) 財政状況 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幕府財政は、すでに綱吉の時代に悪化の徴候を示し、享保・寛政の改革によって一時的な改善がなされますが、時代の経過と共に悪化の度を加え、赤字財政に苦しんでいます。その赤字の補填は、一部御用金および上納金の課徴にもよりましたが、そのほとんどは貨幣の改鋳による益金、すなわち出目によって行なわれたものでした。「吹塵録」には、天保八年から同十二年までの五年間の平均で毎年634,219両不足していると記録しています。これらの不足は金銀の吹替によって補填されていますが、その状態を天保十二(1841)年の記録をもとに現代的に書き直してみると、次の表1のようになります。 表1 天保12年の幕府財政の収支 (単位、,両)
天保12年には、一般会計、特別会計で 816,984両の不足が生じ、それを金銀の吹替による益金1,264,614両の中から補填して、447,630両の余りを出していることになります。 ところが翌天保13年には表2のようになって、収支のバランスが崩れてきます。 すなわち、一般会計、特別会計の合計で、不足が 702,852両に対して、貨幣改鋳による益金が 557,322両であり、不足がなお 97,530両が出ています。天保十二年で金銀の吹替で補填した分が全支出の44%、同十三年で34.6%に及んでいます。 表2 天保13年の幕府財政収支(単位、両)
貨幣改鋳は、金銀比率の減少により貨幣そのものの価値の下落と、同時に物価の騰貴とを招いて、経済を混乱させる原因となりますが、幕府はこれに頼らざるを得ませんでした。改鋳に次ぐ改鋳によって毎年の経費をかろうじて支えていました。 後年勝海舟が「和蘭之軍艦長崎へ入港し其國王の親書を呈して世界之形勢昔日に異なるを陳述し鎖港の國法終に立へからす宜敷時勢を顧み臆時之御政略可然と云ふもの懇切至れり轟せり我か政府半は疑ひ半は信し果断之撃無し」と述べ、風説書に対して半信半疑ということもあったでしょうが、事実は上記の財政状況でしたから、幕府にとって充分な海防策の実施が必要であることは、認識しつつも財政難がそれを不可能にしていました。 |
4.方針の転換 |
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1) 幕府対応 | |
幕府は、アメリカ艦隊の来航についての情報を持ちながら、充分な対策を立てていませんでした。そして、嘉永六(1853)年六月三日、阿蘭陀風説書を裏付ける形で浦賀に姿を現わします。 交渉はアメリカの強硬態度によって始まります。対策のなかった幕府中枢は、混乱し、様々な抵抗は試みながらも、結局はアメリカの態度に屈して、ずるずると後退し、その国書を受け取ることになります。 無事国書受け渡しの儀式を終えたペリーは、来春の再航を予告して浦賀を去ります。 幕府が国書を受け取らざるを得なかった理由は、結局のところ日本とアメリカの武力に差があることを認識していたからです。そして中国がアヘン戦争で負け、その国内が混乱していると言う情報も、列強とは戦えないと判断した理由でした。 鎖国は、幕府創設以来の最も基本的な祖法です。これを変えることは、幕府の政策の根幹が揺らがすことになりできません。では拒絶すれば、最悪の場合、戦争です。アメリカ側の態度は戦争をも辞さぬ構えです。戦争になった場合の生きた教訓がお隣の中国の情勢でした。武力においては到底敵し得ないのです。今回、仮にペリーをうまくかわしたとしても、早晩イギリスかロシアかフランスが来るだろう。どのような決定をしても、幕府の従来の方式では解決できません。ここで決定を誤まれば、取り返しのつかない破局を迎えることにもなりかねないのです。 徳川幕府は、その初期からすべての決定は、幕府の指導部である老中の合議で専断的に行なってきました。しかし、ここに至って老中主座・阿部正弘は、遂に幕府創始以来の決定方式を破り、幕府の諸機関、諸大名に諮問するということに変更します。幕府の指導力が低下し幕閣の専断を許さない状況になっていたと言うべきかも知れません。これ以降、有力大名が事毎に政治的な発言力を増大することになって行きます。 老中の諮問に対する幕府有司・大名等の答申の結果は、国論の分裂状態を呈していました。すなわち大勢は、避戦的拒絶論と条件付許容論に分れますが、前者は御三家をはじめ、有力外様、大目付、目付を含んでいて最も数が多く、後者は溜詰譜代と三奉行を含んでいて数は前者に続いています。避戦的拒絶論は、相手が、武力に訴えても開国させようという態度に出た場合に対する対策がなく、その点論理的に弱点を持っています。つまり、相手の出方によっては、許容か戦争かにならざるを得ないのです。条件付許容論はその点の論理的矛盾はありませんが、幕府創業以来の基本的な祖法である鎖国の制度を変えることになってしまいます。 そして、嘉永六(1853)年十一月一日に老中から大名・布衣以上の役人に下された諭書で、「亜墨利加合衆國より差出候書翰之儀に付夫々被致建議候趣各逐熟覧集議参考之上達御聞候處諸説異同は有之侯へとも詰り和戦之二字に歸宿致候」と述べられているように、和戦のいずれかだといいながら、そのいずれとも決することはありませんでした。結局のところ相手の出方待ちということであって、主体的に国論を指導することができなかったのです。 |
2) 幕府混乱 | |
安政元(1854)年一月十六日、アメリカ艦隊は江戸湾に入り、小柴沖に投錨します。蒸汽フリゲート艦サスケハナ・ポウハタン・ミシシッピー、スプール艦ヴァンダリア・マセドニアン、輸送船レキシントンの六隻、そして、すでに十四日に到着していた輸送船サザンプトンを合せて七隻の艦船を数えます。 はじめの交渉は、その場所をどこにするかという問題でした。アメリカ側は参謀のアダムス(ペリーは病気と称していました)と、日本側は浦賀奉行支配組頭・黒川嘉兵衛が交渉にあたっています。日本側の主張は浦賀で応接する、アメリカ側は江戸あるいは江戸に近い海岸を主張して対立します。黒川とアダムスは、浦賀において交渉場所を決定するための交渉を行ないますが、両者共に主張をゆずらず、アダムスは、江戸へ行くことを主張し、黒川は鎌倉あるいは久里濱近傍を主張して物分れとなります。この間、アメリカ艦隊はワシントン記念日と称して、わざわざ日本側に通告した上で祝砲を撃っています。更に、交渉が難航するとみてとったペリーは、アダムスを浦賀で交渉させながら、艦隊を江戸に接近させます。一方アダムスの方も、「これ以上交渉しても無駄であり、艦隊を神奈川沖へ移動する」といって言って交渉を打ち切りを通告しています。 ここに至って幕府は困惑・狼狽して遂に譲歩し、安政元年二月一日、浦賀奉行支配組与力、香山栄左衛門をアダムスに面会させ、「横濱ハ如何に候哉」と提案させるに至ります。アダムスは横浜を見分の上同意し、交渉地は横浜と決まります。 ペリーは日本側との交渉において、常に武力による威嚇と、言いだしたことは一歩も引かない断固とした態度をとり続けたのです。この態度は、第一回ペリー来航で実証した対日交渉の基本的方針でした。この方針をペリー自身が海軍長官への報告の中で次の様に述べています。 「私が自分で決定した立場から少しでも後退するようなことがあれば、日本人は一本とったと思うに違いないと考える。そして日本人は、私が既に決定した事項を簡単に変更するということを知れば、非常な忍耐をもってすれば私を説得できると思い、その他すべての留保されている交渉事項をぐらっかせてしまうだろう。それ故、私は一切おかまいなしに、譲歩的な態度を示すことなく理不蓋な頑固さを押し通すことが最良の策であると考える。」 このようなアメリカ側の明確な交渉の方針に対して日本側は、事を荒だてぬよう、失体にならぬようという以外に、中枢部での確たる方針がなく、現地の情勢にその都度押されて、ずるずると譲歩する状態でした。前述したように幕府権力が低下し、国論の統合することができなかった結果でした。 交渉場所が決定すれば、つぎは交渉の内容です。上述のように、アメリカの国書に対する国論は分裂し、幕府は和戦いづれにも決め難く、結局相手の出方次第ということでした。ところがアメリカ側の態度が極めて強硬でしたので、老中・阿部正弘は、正月に海防掛参与・水戸斉昭に書翰を送り、交易への対応と小笠原島の貸与を相談しています。 アメリカ国書の要求は、一、漂流船員の保護、二、交易、三、石炭・食料・薪水の補給の三条件です。幕府としては、漂流船員の保護については特に問題はなく、残りの貿易と補給が問題なのです。そこで阿部正弘は、貿易については三~五年回答を待たせ、補給については小笠原島を貸そうというのでした。これに対して斉昭は、正月二十一日付の返書で、「無人島(小笠原島)を借すと申事甚失策と存申候、何ゆへと申せハ、無人島なれハ日本之許無之共、彼自由二致候間、少しも難有儀無之」として反対し、交易の返事を三~五年延ばすことについても、アメリカに一ヶ條でも許せば、ロシアやフランスも黙っていないだろうとして反対しています。しかし、最も対外強硬論者とみられる水戸斉昭自身も、二十五日付で松平慶永に宛てた書面で、戦争はできないし、戦わずして疲弊するとこぼしているのです。また同じ主戦的拒絶論者である慶永自身も斉昭あての書面で、戦もできないし、交易もできない、こんなことなら防備をしておけばよかったと返らぬ繰言を述べているのです。対米強硬論者と言われた斉昭や慶永でもこの問題に対しては優柔不断でした。 そして、ついに老中・阿部正弘は、二月三日、国書で要求された三ヶ條のうち、交易は駄目だが、アメリカ遭難者保護と、米艦船への寄港と補給は認めるという原則を示します。交易は認めなくとも、米艦船の寄港と補給を認めるということは、外国に対して日本の港を開くということになり、ここに鎖国の祖法は、変更されたのです。 こうして日本側の方針が確定し交渉が行なわれ結果、日米和親条約(神奈川条約)が安政元(1854)年三月三日に調印されます。 |
5.何故 |
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アメリカに開港を迫られた日本側は、艦隊来航の情報は詳細に知りながら、それに対する対策を立てることができませんでした。その理由は幕府の指導力の低下です。そしてその指導力の低下を招来した最大の原因は、幕府財政の破綻でした。度重なる海防計画も、財政的理由でその都度縮小、沙汰止みとなりほとんどその用を果していません。 従って、彼我の軍事力の差が歴然としており、戦えば敗北は必至であり、大勢としてアメリカ側の条件を容れざるを得なかったのです。加えて大名・旗本の支配層が積年の窮乏化によって戦意なく、意識の上でも到底戦える状況にはありませんでした。通商を拒否して和親条約という帰結にとどめたのは、当時としては精一杯の外交的努力でした。 |
この条約が、その後の日米通商関係および諸外国に対する日本開国の第一歩となりました。結果的に見れば、当時の国際情勢から開国を避けられなかった日本にとって、平和裡の開国に踏み出せたことは幸運とすべきことかも知れません。 しかしです。 歴史には「もし」はありませんが、もし幕府の財政が破綻していない状況であったとしても同じ結果になっていたのではないかと思うのです。というのも最近の日本外交、特に「北」への対応を見ていると、この様に考えざるを得ないのです。 当時と今の我が国では、全ての面で正しく「隔世」に違いありません。ですが、果断に対処しようとしないのです。つまり、我々は問題に直面すると思考を止めてしまう民族なのではないか、ということです。「黒船来航」では、財政難、「北の日本人誘拐事件(=拉致事件と言っています)」では、核兵器、そして、国際協調。幸いなことに何時も思考を止めてしまう厳然とした理由が存在、もしくは存在すると思い込んでしまうのです。 そしてまた、「歴史は繰り返す」と言います。とすれば、「北への対応」、情けないことですが、相手任せの成り行きに次第で、結果を待つことを是とするのです。どうしようもない「われわれ」です。 |
と言ったところで、今回はこの辺りで。 今回も纏まりのない、そして、情けない話になってしまいました。 |
参考図書
黒船と幕府 〔改訂版〕 | 濱屋 雅軌 | 弘文堂出版 |
黒船異変 -ペリーの挑戦- | 加藤 祐三 | 岩波新書 |