主題;「生麦事件」について:-

1.まえがき:

   12/12(日)のNHK大河ドラマ「新撰組」では近藤勇の処刑にてドラマの幕を閉じたが、徳川幕府が崩壊し明治維新(1868)が成った直接原因は、文久二年(1862)に起きた生麦事件であった。

 作家 吉村昭の歴史小説では「アメリカ彦蔵」、「天狗騒乱」、「ニコライ遭難」などを読んでいる。司馬遼太郎とともに好きな作家の一人である。

 その吉村昭の講演 「生麦事件と横浜」を12/14(火)に聞きに行った。
 氏の著作「生麦事件」を事前に図書館にて借りて読んでいた。講演は本の内容に沿った話をしながら、歴史小説を書く心構えとしてフィクションは入れず、史実を書くことで歴史小説が出来上がっていくとのことであった。 

2.開国:

   嘉永6年(1853)6月ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀へ来てアメリカ大統領の親書を受け取る様強要し、幕府は仕方なくこれを受取った。ペリーは1年後の再来を告げ引き上げたのである。

 講演では「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず と幕府の慌てぶりを揶揄した狂歌が知られているが、幕府はすこしもあわてていなかった。なぜならば前年にオランダからの通告(オランダ風説書)により、アメリカが開国を求めて艦隊を派遣すると知らされていたからとのことであった。

 幕府はやはり慌てたと思う。朝廷にペリー来航の通告、隠居していた前水戸藩主斉昭を幕政(海防参与)参加、幕府専制型から有力大名の政策参加型へ、幕臣の登用、各藩での大型船建造を解禁などの改革を余儀なくされてしまったからである。

 翌嘉永7年(1854)1月ぺりー艦隊が再来し開国をせまったため、「日米和親条約」を締結し、下田と箱館を開港した。この年12月に改元、安政元年から安政7年/万延元年(1860)までには通商条約勅許不可、条約独断締結、安政の大獄、桜田門外の変、和宮降下勅許などの動きあり、作家はそれぞれの事項をテーマに小説を書いているのでここでは触れず先を急ぐことにする。

3.生麦事件:

   薩摩藩主島津斉彬は名君と言われていたが、安政5年(1858)洋式軍隊の訓練中に突然死亡した。松平慶永(春嶽)や勝海舟も斉彬を評価している。斉彬の遺言により弟久光の子茂久が次の藩主となり、久光は後見となった。

 文久2年(1862)正月水戸脱藩浪士によって老中安藤信正が襲撃された(坂下門外の変)。前藩主斉彬が幕政を改革し、朝廷を中心とした公武合体が国難を救う道であると主張していた考えに久光は同調し、京に上ることを決意した。この年の3月700名(1000余との説もあり)の従士を伴って鹿児島を出立した。
 京に上った久光は孝明天皇の側近の公家に会い朝廷の権威の強化、公武合体を説き、とくに幕政改革の具体策として、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老に登用し、過激な攘夷論者の取り締まりを主張した。

 天皇は久光に対し京にとどまり浪士の鎮撫にあたるよう勅諚を下した。4月には九条関白、京都所司代の暗殺を企てて寺田屋に集結していた攘夷派薩摩藩士を久光の命にて企てを中止するよう説得させたが、これに応ぜず薩摩藩士同士の斬り合いとなり、攘夷派6名が斬殺、負傷の2名が藩邸に連行され自刃した。(寺田屋事件)
幕府に公武合体を認めさせるため江戸へ向う勅使に随行して、久光は5月に薩摩藩士400余とともに、江戸へ下った。幕府はしぶしぶ慶喜を将軍後見職に、春嶽を政事総裁職に任じた。

 8月島津久光が、江戸から京へ向う行列と神奈川宿の手前生麦村にて馬に乗ったイギリス人(男3名、女1名)とが遭遇した。久光の乗った駕籠を六尺ふんどしをした男たちが担ぎ、その両側を駕籠廻りがかためていた。久光の行列は1Kmに及んでいた。
 イギリス人4人は、馬上2列となって、4間(7.2m)の道幅の道の端に寄せていた。行列の先頭集団はやり過ごしたが、駕籠が近着くと道幅一杯になり馬と接触しそうであった。駕籠廻りの藩士が怒りにみちた眼をして激しく手をふり、「引き返せ」と怒号を浴びせた。馬の鼻先を返し、引き返そうとした時、切迫した気配に落ち着きを失った馬が列の中へと足を踏み込んでしまった。
 列が乱れ、暴れた馬に走り寄った藩士が馬上のイギリス人のわき腹を斬り上げ、刀を返しつま先を立て左肩から斬り下げた。藩士は野太刀自顕流の使い手であった。
 著者は、鹿児島へ行き野太刀自顕流の稽古を見て馬に乗った人間をその肩から斬り下げることが出来ると確信したとのことである。他2人の男も斬られ重傷、女は無事であった。
 久光の行列は神奈川宿にて宿泊する予定であった。イギリスの報復を恐れその先の保土ヶ谷宿へ急ぎ本陣に入った。大名は本陣以外に宿泊してはならないとの定めがあったが、保土ヶ谷とて横浜に近いため、本陣から遠く離れた旅籠へと密かに移った。

 薩摩藩はその年の6月に幕府に対して要望書を提出していた。
 「近頃外国人共 馬上2行或は3行に並んで不作法にも馬を乗りまわし、歩くも同様で、久光公の行列がかれらと行き逢う折には、なるべく穏便にいたすつもりではありますが、万一先方より無作法外相働き候ハヽ夫成りにも難差置」、「諸大名往来の定められた掟もありますこと故、外国の長官たちに無作法之儀無之様お伝えいただきたい。」 

 幕府は外国人が無礼な行為をしないよう各国の公使に伝えるが、言葉もよく通じないので穏便にせよ。事件が起きると国難に発展するから決して荒々しい行動はとるなと薩摩藩に回答している。

 この事件の三ヶ月前の5月には英国公使館(高輪 東禅寺)が松本藩士に襲撃されイギリス人護衛兵2名が殺害された。さらに前年の5月にも水戸浪士に襲撃されている。

 イギリスは激怒した。イギリスは軍事力を背景にして幕府を恫喝し、翌文久3年5月になって生麦事件で10万ポンド・公使館で殺害された護衛兵の家族へ1万ポンド計11万ポンドの賠償金を幕府が支払うことで決着した。
 これとは別に薩摩藩に対しては①謝罪 ②犯人の逮捕及びイギリス士官立会いの下での処刑 ③2万5千ポンドの賠償金の支払いを要求していた。

 薩摩藩ではイギリス人を斬った藩士を差し出す意思はもとより無く、架空の犯人を仕立てあげ且つ犯人は、逃亡したと幕府に申し立てていた。幕府は事件の詳細を調べ薩摩藩の言うウソに腹を立てるが、薩摩藩を処罰することが出来なかったのである。

4.園芸学者 Robert Fortune :

   事件当時日本に滞在していたイギリスの園芸学者 Robert Fortune の見聞記「Yedo and Peking 1863」の中で、横浜で発行されたジャパン・ヘラルドを引用してイギリス側の見解を述べている。それによると「一行4人が横浜から川崎へほぼ中間の生麦で、江戸の方から来た大名行列に出合った。先ぶれのものが彼女らに道の脇に寄れ、と合図したので、一行は馬上のまま端に寄った。しかしもっと後ろへ引けと指図するので、馬首を神奈川の方向へ向けたとたん、数人の家来が物も言わず、さらに何の合図もなく、猛然と一行に斬りかかって来た。」卑劣極まる残忍な行為と言っている。

 「殺害されたリチャードソンはシナでの商売をやめイギリスへ帰る前に日本を訪れていた最中であった。またフォーチュンはリチャードソンをよく知っていて、温和な性質で立派な男らしい若いイギリス人の代表的な人物であった。将軍の幕府と結んだ条約に規定された居留地の範囲内で、日本の国道を乗馬で通行して、明らかに法律に違反していない。彼らが襲われた原因は、大名行列が近付いてきたのを認めた時、素早く道を引返すか道路の外へ出なかったことが、相手を立腹させたようである。これはたぶん一行を襲撃する口実で、これよりもっと深い原因があったはずである。万一日本の封建的権力が崩壊した場合の革新や変動の恐怖が、西洋人に対する烈しい憎しみになっていたと思う。」

 「イギリスと条約を結んだ幕府はこれら条約の権利を実施する力のないことが明白になって来た。それに引替え、神聖な天皇とともに封建大名が、江戸幕府よりも優勢となりつつあった。京都か江戸のどちらかに、権力のある政府組織が出来て、封建制度を破壊するような変化が起きない限り日本に居留する我が同胞の生命は安全ではない。内乱か列強の干渉かどちらにしても1861(62の間違い?)の現時点では定かでない。」
 フォーチュンは当時の時勢を的確に分析している。またジャパン・ヘラルドなる新聞が既に横浜で発行されていたとは驚きである。

 R.Fortuneは1812年スコットランドで生まれ、エデインバラ王立植物園の園丁を経てロンドン園芸協会に所属、イギリス東インド会社の依頼で中国からインドへ茶の木を移植した人物で、見聞記では日本各地の植物・地質・風景・風俗などの記述している。アオキには銀杏と同様に、雌株と雄株がありイギリスには雌株しかないことを本書にて知った。シュリーマンの見聞記と同様興味深いものがある。

5.薩英戦争

   文久3年(1863)5月長州藩は攘夷勅諚の実施期限が来たとして関門海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダ籍の商艦を砲撃した。各国は6月に艦船を海峡に派遣し報復を行った。
 6月22日イギリスは7隻の軍艦を横浜から出航させ、27日には鹿児島の町から12Km南方沖に停泊した。薩摩藩はイギリスの要求を拒絶し、7月2日ついに砲撃がはじまった。イギリスは、アームストロング砲を装備していた。射程が4~5Kmあり砲弾の装填や照準の変更も迅速に行うことが出来た。鹿児島の町も砲撃によって炎上した。
 それでも薩摩は良く戦い戦死5名、負傷十数名であった。一方、イギリス側は旗艦の艦長、副長を含む13名が戦死、50名が負傷した。艦隊は7月4日鹿児島を離れ10日には横浜に戻った。

 薩摩藩では勝負は五分五分と見なしたが、武器性能の差に圧倒され攘夷から開国・倒幕へと進んで行く。薩摩はイギリスと和睦した後、最新の武器を大量に購入している。また長州も薩摩名義にてイギリスから武器を購入した。

 薩・長連合軍と幕府軍による鳥羽伏見の戦いでは、薩・長の近代的な武器(線条銃、アームストロング砲)に圧倒され幕府軍は破れた。薩・長は官軍となって東海道から江戸へ、北陸道から長岡・会津若松へと軍を進め、明治2年(1867)5月函館にて終結した。

6.あとがき:

   大名行列では、道中藩主は本陣に泊まるが、食事は毒殺を恐れてか、料理人を同行させ鍋釜包丁などの調理道具を持ち歩いた。医者、馬医者の同行また寝具、風呂桶、便器も持ち歩いたとのことである。加賀前田藩の行列では供の数7000人とのこと、参勤交代の資料を求め鹿児島、松江?金沢へ調べに行ったとのことである。

 幕末当時、日本での金銀比価は1対5、国際的には1:15であった。外国から銀を持ち込み金貨(小判)と交換し外国で銀に交換すると3倍になる。国内から金が大量に流出した。幕府は小判の価値を3.3倍に即ち銀の価格を下げたため、物価が急騰しインフレとなった。下級武士、浪人、中小商工業者、小作人などが体制批判、幕藩体制に強い反発が起こり、幕府崩壊のもう一つの要因であった。米国領事ハリスやイギリス公使オールコックらは、為替差で莫大な金を稼いで行ったのである。


 藩主の父親とはいえ無位無官の島津久光が700人もの藩士を従えて京に行くこと自体が、重大な法律違反ではなかったのか?この時点で、既に幕府は負けているのだ。

参考図書

生麦事件 吉村 昭 新潮社
幕末日本探訪記
江戸と北京(Jedo and Peking )
ロバート・フォーチュン
三宅 馨訳
講談社学術文庫
大君の通貨 幕末「円ドル」戦争 佐藤 雅美 文春文庫