主題;牛肉考

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2004/12/07  

 「衣・食・住」は、生活上の三要素といわれます。本誌第81号では、「床と椅子」、つまり起居様式にまつわるお話でしたが、一面、明治維新後の住宅史でもありました。
 今回は、その要素の一つ「食」それも「牛肉」を主とした肉食について調べてみました。

 「日本人は仏教の教えを守って古来肉食、特に牛肉を遠ざけて来たが、明治の御一新から漸く牛肉を食べ始めた」、と言うのが現在の通説です。
 しかし、実はそうではないようです。古くから牛肉を食べていたようです。ただ、素直に美味しいと食べてきたわけではありません。肉食に妙なこだわりを持ち、無理にそれを押し殺したり、建前と本音を区別しながら食べてきたのです。 日本人を取り巻く宗教や政治がそうさせたのですが、牛肉と日本人との関係は、単純ではありません。

1.牛馬の渡来

   いつ頃から食べ始めたか。でも、その前に何時から牛がいたかです。近年の考古学や歴史学の成果によれば、家畜としての牛馬は、古墳時代後半の五・六世紀に朝鮮半島から渡来し、七・八世紀には牛馬による耕作が行なわれていたとのことが分かっています。
 それ以前の縄文・弥生では、家畜としての牛馬骨の確実な出土例はあまりなく、三世紀の『魏志倭人伝』に記されている「牛馬なし」は基本的に正しく、更に古い旧石器時代には野牛はいたが、家畜化されていなかった、とされています。
要するに日本には、朝鮮半島の人々の渡来が多かった五・六世紀にやって来たと云うことになります。そして、半島の南西部の百済系、南東部の新羅系の人々の牛、高燥な半島北部の高句麗の人々からは馬の渡来となります。(当然です。家畜ですから、馬や牛が勝手にやって来るなんてことはありません)
 渡来人の詳細については、本誌第79号(主幹 池端 則夫氏)を参照して下さい。

2.牛肉食べはじめ

   牛の渡来は、運搬や農耕、皮革の利用と共にその肉食を伴っていました。当時の日本人は野獣野鳥の肉食を行なっていましたが、家畜の肉を食することは余りありませんでした。その肉食に慣れ始めた頃、天武天皇四 (676)年、仏教の教えに基づいて肉食禁断の詔勅(しょうちょく)が初めて発せられます。

 天武天皇の肉食禁断の詔勅を現代語訳で見ると次のようになります。
「今後、漁業や狩猟に従事するものは、檻や落とし穴、仕掛けなどを造ってはならぬ。四月一日以後九月三十日までは、隙間の狭い梁(やな)を設けて魚を捕ってはならぬ。また牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならぬ。・・・もしこの禁を犯した場合は処罰がある。」

 不殺生戒は仏教の五戒の筆頭ですが、イスラム教の豚肉タブーなどとは異なり融通無碍なものです。戒律そのものが釈尊によって定められたものでなく、原始仏教で教団の維持のために後になって定められたものと言われています。ですから仏教教団のあり方が時代、地域で異なってくると、五戒のとらえ方も変わってきます。日本の場合には魚鳥類が例外になっています。戒律は一般的に緩和の方向にありますが、そのときの解釈が現実の社会問題への対応と政治がらみで変化しているのです。
 天武天皇の詔勅が、役畜としての重要な牛馬の保護を中心におき、更に食料として必須な狩猟漁労の獲物を除外したもの、その結果であると思われます。この後繰り返し出されている殺生禁断の詔勅が「多くは、不作や飢饉、天変地異に対する仏の加護を祈るためのものである」といわれるもの同様です。
とはいえ、半島から渡来した人々によってもたらされた牛肉食は、次第に野獣肉食に慣れていた日本人の間に広まっていきました。

3.牛肉と神道

   平安時代以降に肉食に対する禁忌意識が貴族階級に形成されはじめます。これはこの頃成立した神道、および、それと習合を始めた仏教の影響でした。
 神道はその教義確立のため、すでに体系化されていた仏教に依存しようとし、仏教も特に後発の天台、真言が国家宗教となるためには神道との結合を必要としていました。例えば、比叡山延暦寺が山麓に日吉山王権現(日吉大社)を併設したような神仏習合が進みます。その結果として、肉食に対する庶民の意識に「生類憐れみや不殺生戒」の教えだけでなく「穢れ」の感覚も加わります。前者は実感と言うよりお説教でしたが、後者は実感であり感覚でした。こうして神仏習合による肉食禁忌意識が庶民の心にまで浸透し、肉食の否定が、社会の上層から下層へ、祭祀や服喪の場から日常の場へと徐々に進行していったのです。
 更に、仏教の輪廻思想がそれを加速しました。輪廻転生と因果応報を結びつけた勧善懲悪は奈良時代から方便として使われていましたが、平安末期、源信『往来要集』(985)などが輪廻する六道、特に地獄道の恐ろしさを庶民に植え付けました。問題はこの六道のなかに畜生道が入っていることでした。それは「この牛馬は亡き父母の生まれ代わりかも知れない」という形で肉食禁忌意識を感覚的に強めることとなったのです。 

4.戦国時代と肉食

   室町末期の応仁の乱に続く戦国乱世は、伝統と旧弊の破壊の時代でした。ですからこの時代、肉食禁忌意識が弛みます。この時代には肉食は普通であり、戦乱に乗じた野武士や雑兵が横行し、彼らが農民の牛、馬を殺して食べることはしばしばあったと言われています。生類憐れみや死穢や血穢を気にしていては生きてはいけなくなったのです。この背景には皮革が武具として大量に求められていたので、家畜(牛馬)の屠殺が行われていたこともありました。
 そして、この時代のもう一つの出来事は「南蛮人」の渡来です。彼らがもたらした肉食の味覚は、切支丹に帰依した、もしくは寛容な人々を中心に多くの日本人を魅了しました。切支丹の布教は九州から始まり信長の布教許可の朱印状を得て、畿内での影響を及ぼし始めます。俳人松永貞徳は、近年切支丹が日本に伝わってから京の人々が牛肉を「ワカ」と言って賞味するようになったと書いています。ちなみに現代ポルトガル語やスペイン語で「vaca」は、雌牛、牛肉を意味します。また、切支丹大名の高山右近は日頃から牛肉を賞味し、小田原の北条攻めに際しては、陣中で蒲生氏郷や細川忠興に振舞ったと記録にあります。

5.肉食の禁制

    肉食が普通になった戦国時代を収束させたのは、織田信長と豊臣秀吉です。その信長は切支丹に寛容でした。その理由は、彼の異国趣味や南蛮貿易への関心もさることながら天下一統の途上における仏教各宗派との抗争によるところが大きいと云われています。しかし、秀吉が天下人に近づいたころは仏教と切支丹をめぐる政治的状勢が逆転しています。完成に近い新政治権力に関し、国内で新しい秩序をつくり出しその威勢を内外に示すべき段階となっていました。
 このような政治情勢のもとで、それまで切支丹に寛容であった秀吉が、天正15(1587)年、九州平定の帰路の博多で突如、「伴天連(ばてれん)追放令」を発します。これは「神国であり仏法の国である日本に邪教を授けるのははなはだけしからぬことであり、20日以内に伴天連を国外追放する」というものでした。合わせ出された十一ヵ条の「覚」の最後に「牛馬ヲ売買シ殺シ食スル事、是又曲事(くせこと=違法)トナスベキ事」の一条もありました。この禁令の主な狙いは、伴天連と切支丹大名の結合が政治勢力化していくのを押さえ、刀狩りや検地で進めていた兵農分離の新しい秩序づくりを完成させようとするものでした。

6.幕府の肉食厳禁

 徳川幕府による牛馬屠畜と肉食の禁制もほぼ同様な理由にもとづいています。 家康は、江戸開府時から切支丹には警戒心をもっていましたが、対外貿易に積極的だったこともあって弾圧にふみ切らず、その信者は増えていきました。しかし、その影響が強まると身分階級の固定を基本とする幕藩体制の確立に妨げとなり、さらに欧州列強の政治的介入に結びつくことを懸念した、慶長17(1612)年、「南蛮切支丹ノ法ヲ天下二停止(ちょうじ)スベシ」と命じたのです。続いて出された一連の禁制のなかで「牛ヲ殺スコト禁制也、自然死ノモノモ一切売ルベカラザル事」と定めました。
 このように、徳川の肉食禁制も政治的な切支丹弾圧の一環として出されました。しかし、それは、従来のそれと比べてはるかに重要なことでした。体制化された仏教と結びつき、身分階級の固定(士農工商とその下の被差別身分が十七世紀を通じ制度化された)や寺請制度(天草の乱後、庶民はすべて檀徒として寺に縛りつけられ「宗門改め」で管理された)などの制度を庶民意識において支える条件となったからです。ここで中世以来培われてきた肉食禁忌意識が、庶民にとっての基盤となったのです。

7.潜行する肉食

   幕府による肉食禁制は、種々の禁令によって厳しく制度化されていきますが、その中で特に重要なのは五代将軍綱吉による殺生禁断令です。これは将軍嗣子の死が前世での殺生の報いだとした一僧侶の言上を機に出された貞享4(1687)年の「生類憐れみ令」にはじまりますが、その一環として家畜屠畜の穢れへの服忌をふくむ新たな「触穢令」(1693)が出されています。
 しかし、このきびしい禁制も肉食を根絶できませんでした。というのも、肉食に魚鳥類が含まれておらず禁制の範囲が曖昧だったことによります。元禄の触穢令でも兎が鳥に準じて例外とされ、このあと兎肉が武家や公家の食膳、さらには将軍家の食膳にも載せられていました。
 兎を一羽、二羽と数えるのはこの触穢令に、はじまると言われますが、真偽の程は不明です。
 そして、もう一つの要因は「薬喰(くすりぐい)」と称した抜け道です。
 元禄に出た『本朝食鑑』には、牛肉が「気を補い、血を益(ま)し、筋骨を壮(さかん)にし、腰脚を強くし、人を肥健にする」とあり、その効能は知られていました。安永年間(1772~80)、江戸は麹町平河町に山奥屋という獣肉屋があり、そこで武士たちが「紅葉」(鹿の肉)や「牡丹」(猪の肉)と酒落て呼ばれた獣肉を食べるため、薬喰と称して通ったことは川柳で皮肉られています。

 『踏みわけて 紅葉を仕切る 山奥屋』

 更に牛肉の「薬喰」でもう一つ知られているのは、赤穂の大石内蔵助が堀部弥兵衛に「老養ニハ最上トノ事」で「若牛ノ由故、肉合ハ格別柔キヨシ」と添書して牛肉を贈呈した逸話です。この牛肉は、江州彦根産の味噌漬でした。彦根では、人目を忍ぶ薬喰を尻目に堂々と牛肉が生産されていたのです。

 明治18年刊『日本食志」に「近世泰西ノ俗二習ヒ再ヒ牛ヲ食スルヲ創(はじ)メシテ今ヲ距(へだた)ルコト四十年前江州高宮二屠リタル肉ヲ味噌漬トナシ江戸彦根藩邸二於テ公然之ヲ売下ケ……タルニ原(もとづ)ク」とあります。この時の40年前は、弘化年間(1844~47)になります。実は、彦根井伊家は18世紀末のころから藩内産の牛肉を将軍家などへ献上・贈呈していたのです。このことは昭和37年の『彦根市史」が紹介した『井伊家御用留」(江戸屋敷での公的日誌))によって広く知られることになりましたが、これによると天明元(1781)年から明治3年までに30件ほど牛肉味噌漬や干牛肉が将軍家、時の老中、その他諸侯に贈られていました。
 彦根藩中央の文書として正式に残されているのは、今のところ将軍家などへの贈答記録のみで、牛馬屠畜の許可に関する公文書などは見出されていません。将軍家をはじめ支配階層の人々が牛肉の美味を嗜んでいたことがわかります。

8.牛肉の解禁

     時代が幕末に近づくと、肉食禁制も緩みはじめます。居留地の外人による肉食の影響もありましたが、この頃、増加した蘭学者によるものもありました。
安政年間(1854~59)、大坂の適塾に学んでいた福沢諭吉は書いています。「まず度々行くのは鶏肉屋(とりや)、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。そのとき大坂中で牛鍋(うしなべ)を食わせる所はただ二軒ある。……最下等の店だから、凡(およ)そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ」。緒方の塾生たちは、この店で頼まれた豚を河で窒息させて殺し、手間賃の頭部を剖検したのち煮て食べていたと言うことです。
 福沢諭吉は、大阪の牛鍋屋をいささか怪しげな風情に書かいていますが、大槻玄沢の孫、如電(じょでん)が文久年間(1861~63)京の鴨の河原で見た牛鍋屋の様子を記録しています。四条から三条にかけて小屋掛けの飲食店が市のごとき賑いであったが、「其の末端に間を隔(へだて)て三条の橋の袂(たもと)に偏した所」に牛鍋屋三、四軒がかたまり、赤暗燈を掲げていた、といいます。如電によれば、この牛鍋屋の肉は江州彦根在の村のものだと言っています。京都だけではありません。安政2年(1855)、彦根魚屋町勘治が江戸四ヶ所で彦根牛肉の看板を掲げたと伝えられ、明治元年、高野瀬村の新左衛門と岩松の二人は、貿易の始まった神戸に牛肉店を開いた、といいます。

 しかし、明治新政府は改めて「肉食解禁令」を出したわけではありません。ペリー提督の脅迫で開港地での薪水食糧供給を含む日米和親条約が結ばれたとき、まず居留民向け牛屠畜解禁の道が開かれ、その後、旧体制とともに肉食禁制は自然崩壊していった、とするのが現在の見方です。
 横浜に居留地ができると、そこに日本最初の屠畜場(正確には消費地屠畜場)がつくられ、慶応3(1867)年には中川屋嘉兵衛が、江戸の外国公館向けの屠畜場を荏原郡白金に開いています。嘉兵衛は、その後高輸に牛肉店を開業していますので、居留地向けは同時に邦人向けでもありました。この牛肉店の得意先の一つは、近くの慶應義塾でした。
 このなし崩し的肉食解禁の流れに、新政府は区切りを与えます。それは明治5年1月24日と伝えられる明治天皇の牛肉試食です。これは、文明開化を目指した新政府が宮中洋風化の一環として当時20歳の天皇に勧めることによって、肉食を奨励したのです。

9.牛肉外伝

 【桜田門外の変】
 明治26年、匿名の元水戸藩士によって書れた『水戸藩党争始末』と言う本によるこぼれ話を少々。
 「幕府末路、諸侯中の人傑を算(かぞ)ふる時は、親藩に於てはまず指を水戸老公(烈公斉昭)に屈し、譜代に於ては指を彦根大老(井伊直弼)に屈せざるをえず。もしこの両雄にしてよく同心協力して幕政を参画補弼したらんには、たとへ百の西郷千の木戸ありといえども、三百年の幕府を倒すこと、かの如く枯をくじき朽をくだくより易きをうべからず。しかるに不幸にも両雄相軋弊し、したがって海内の有志また水彦両党に分れて、互ひに反目疾視し、争げきほとんど寧日なし。……当時もし両雄の間に調停する者ありて、その紛うんを解き、一堂の上に相会し杯をとり膝を接して半夕の清話をともにし、談して東照宮が百戦創業の艱難に至りたらんには、両雄積年の怨恨も一時的に融解し、……以て尊王佐幕の事に従はんことを誓ふの親朋たりしや必せり。当時調停の労をとる者のなかりしこと、実に幕府の不幸にして、しかもまた国家の不幸といふべし」。
 もし烈公と大老が協力していたならば、たとえ百の西郷隆盛、千の木戸孝允がいたとしても、幕府はあそこまで簡単に崩壊していなかったであろうと言うのです。
 両雄にこの不和をもたらした要因として本書の著者は、まず、開国をめぐる対外政略・対朝廷姿勢での差、烈公実子の一橋慶喜にかかわる将軍継嗣問題、万事に筋を通しすぎる烈公への幕閣・大奥の反感に直弼が同じたことなどを多くの史家と同様です。さらに、直弼の大老職就任に際しての猟官運動と就任後の金銀吹替えに際しての私利追求が老公の軽侮を招いたことをあげています。

 そして、もう一つの記載があります。牛肉が出てくるのです。
 「老公牛肉を好み給ひければ、年々寒中に彦根より献ずる事なりしに、直弼家督後はこれを献ぜず。その故は、直弼はもと僧になりたる事あり、仏法を信じける故、国中の牛を殺す事禁ぜしなり。然るに公にはこれを知らせ給はず。其年寒中に待たせ給へども献ぜざれば、御使を遣はされ、毎年相楽しむ所今年参らせず、何卒贈らるべしとありしに、彦根侯答へに、今年より国中にて牛を殺す事を禁じ候間、牛肉献ずべきなし、御断り申し上ぐるとあり。公、なおまた御使を遣はされ仰せられけるは、国中牛を殺す事を禁じたりとあれば是非に及ばざれど、これまで年々用ひたる事にて、ことに江州の牛肉は格別の事なれば、我等がためにのみにても別段調へられたく頼むなり、とありしかど、承知せずして、何分国禁に致し候事故相成り申さず、たつて御断り申し上ぐる、との答へなり。かくのごとく、公よりたびたび御頼みありし事を、さらに承知せざりしかば、さすがに不快に思召されしとなむ」。
 尊王攘夷の権化のような斉昭の好物が牛肉だったとは、皮肉な話ですが、血筋は争えぬもので、斉昭の七男で後に最後の徳川将軍になった慶喜も、「江戸の侠客新門辰五郎に命じて二分ずつの牛肉を買わせ、日々の食糧にした」ことは、よく知られていました。
 この烈公斉昭によるくり返しの懇請を、大老直弼は無下に断わってしまいました。その怨みを背に、水戸浪士たちは桜田門外の雪を蹴って大老の駕籠に襲いかかったのは、安政7(1860)年3月3日、上巳の節句の朝の出来事です。
 「桜田門外の変」の遠因は、「牛肉にあつた」、食いものの怨みは怖い、という説ですが、いささか斜めに見過ぎです。しかし、歴史はおもしろいものです。

10.食文化と牛肉

 牛肉といえば「スキヤキ」です。スキヤキは、江戸時代後期、農具の鋤の刃で鳥肉などを焼いて食べたのが始まりと云われます。しかし、幕末から牛肉が広く食べられるようになったとき、それは薄いスライスを煮て食べる牛鍋という形でした。割り下を入れて煮る東京風のスキヤキはこの系譜を引くものです。関西でのスキヤキは、むしろ焼くないし炒めるに近いのですが、そこでもシャブシャブとよぶミズダキが広く食べられています。要するに幕末からの牛肉食は、薄いスライスを煮て食べるという形が基本でした。
 元来、牛肉とくに高級なものは、焼いて食べた方が美味です。煮ると肉のもつ香りや肉汁がスープに浸出してしまうからですが、それは薄いスライスにするとより著しくなります。日本人はなぜこの食べ方を選んだのでしょうか。考えられるのは、ブロック肉ではそれを切るときの血が火の神の宿る台所を「穢す」と考え、薄いスライス肉の調理を指向したのでしょう。さらにそれでも不安であり、水で洗うかのごとく煮沸しようとしたのです。肉類忌避意識を払拭せぬまま牛肉の美味を味わおうとしたとき、薄いスライスを煮るという料理が考え出されたのではないかと推察されます。
 この牛肉の調理としては邪道な方法も、牛肉に豊かにサシ(脂肪交雑のこと)が入っている場合、肉から香りや肉汁が浸出して硬くなってしまうことが防げます。さらに日本の風土が生んだ醤油をこれに加えると、独特の味と香りが生み出されます。
 こうして、煮る形の調理がサシの入った牛肉と結びついて鍋物以外の煮物にも広まり、日本の牛肉料理の文化を形成したのです。そして、現在の多様化された料理方法は、ご存知の通りです。

 小生の「スキヤキ」です。
材 料; 葱(下仁田産がいいですね)、生椎茸、しらたき、お麩、豆腐(焼き豆腐でも良い)、春菊、主役の牛肉と割り下(醤油、みりん、砂糖、若干の水を混合したもの。その比率;適当)、そして生卵。
作り方と
食し方;
すき焼き鍋を適当に加熱して、脂身を溶かし鍋に馴染ませる。その後、葱、生椎茸、しらたき、お麩、豆腐を入れ、肉を野菜の上に広げる(この時、しらたきと肉とは接触しないようにする)。そして割り下をかけ、その上に春菊をのせて、煮えるのを待つ。煮えてきたら、溶いた卵に浸していただく、となります。

 (この様に書くと、「ヤク」という工程は全くなく、「スキニ」と呼ぶのが正しいと思います。如何?)
 そして、勿論この時、飲み物がなくてはいけません。それもビールやお酒でなく、やや強めなもの(例えば、焼酎)が良いように思います。

 ところで、貴兄のご家庭の「スキヤキ」のスタイルは、関東風それとも関西風。何れにしても美味しく食べるようとすることには違いないのですが、それぞれのご家庭によってこだわりがあるようです。
 貴兄のこだわりは、どんなものでしょう。「掲示板」、「メール」にて、ご開示いただければ幸いです。

 今回はこの辺りで。

参考図書

牛肉と日本人〔和牛礼賛〕 吉田 忠  農山漁村文化協会
ちゃぶ台の昭和 小泉 和子 河出書房