主題;Burugund(Bourgogne)について:
1.まえがき/ボジョレー・ヌーヴォー (Beaujolais Nouveau): |
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今年は11月18日((11月第3木曜日)が発売日であった。 ボジョレーはフランスブルゴーニュの南部にある村でこの地方一帯で採れた新酒をボジョレー・ヌーヴォー と呼んでいる。 |
2.ブルグンド族の移動 (1) : |
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中央アジアに居たフン族が、西暦375年ヴォルガ川、ドン川を渡ったのをきっかけに東西ゴート族のローマ領内への侵入に伴い、他のゲルマン諸族も大挙してローマ帝国内へなだれ込んでいった。
イギリスを含めた西ヨーロッパの歴史はここから始まったと言える。 現ドイツ・ポーランド国境となっているオーデル 川の下・中流域に住んでいたブルグンド (Burugunder)族は、紀元407年頃ライン中流の ウオルムス(Wormus)を中心に国を建てたが437年 にフン族の攻撃を受け国を失う。 この史実を基に叙事詩 「ニーベルンゲンの歌」 が作られる。 |
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3.ブルグンド族の移動 (2): |
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フン族に破れた後、ブルグンド族は南下して443年にソーヌ川流域、ローヌ川中流域へ移動して王国を再建する。 461年にはロアール川上流、471年にはローヌ川下流へ、さらに500年頃にはセーヌ上流へとその勢力を拡げていった。 アッテイラがフン族の王となったのは433年ごろであるが451年にはガリア(現フランス)へ侵入し、Catalaunum(カタラウヌム、現北フランスSharon、Katalaunische Feld)にてローマ、西ゴート軍と戦った。 この時ライン川の北側下流から中流にいたフランク族がラインを渡ってフン族追撃に大いにその役割を果したのである。 486年フランク族のクロービス(Chulodwig)がフランク王国を建国した。 フランク族はアレマン族、ブルグンド族、西ゴート 族、チューリンゲン族などのゲルマン諸族をその 支配下に 置き王国を広げていった。 |
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4.ブルグンドの分裂 : |
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フランク王国が東西に分裂した時(843~870)、 ブルグンド領も東西に分裂した。 ソーヌ川の西側は西フランク王国(フランス王国)に属する「ブルグンド公爵領」、東側は東フランク王国(神聖ローマ帝国<ドイツ>)に属する「ブルグンド自由伯爵領」 (Freigrafschaft)となった。 辞書によるとにFreiはFreeで奴隷でない、自由の 「身」とある。他に自由都市(Freistadt)などがあり、帝国には属するが、支配されず自治が任されていた。 そのなごりから「ハンブルグ」はいまでも自由ハンザ゙都市「Freie und Hansestadt Hamburug」を名乗っている。 |
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5.ブルグンドの興隆とその変遷 : |
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ノルマン(Norman)人がフランスへ侵入し、 887年から10年間セーヌ川上流、からソーヌ川 流域のブルグンド(ブルゴーニュ)地方を荒らし 廻った。 パリから南西300Kmブルゴーニュにオータンという町がある。 オータンはローマ帝国末期ガリア(現フランス) 統治の中心地であった。 当時オータン(Autun)伯であったリシャール (Richard)がノルマン人の活動を抑えたことで 西フランク王家からブルゴーニュ(Bourgogne)公 に叙任されブルゴーニュ家が始まった。 ちなみにノルマン人はフランス国内に領土 (Normandie)を得る。 ノルマン人はNormandieから対岸のBritaniaに 侵攻して、現イギリス・ウインザー王朝へと続く ノルマン王朝を建てている。 ブルゴーニュ公国はオータン家、ロベール家、 カペー家と代替わりして行った。 ブルゴーニュ公国ではカペー家の系統が断絶し、 フランス王(ヴァロア家)から王家の分家フィリップ 豪胆公(1363~1404)がブルゴーニュ公に、 神聖ローマ皇帝からはブルグンド自由伯に叙任 された。 このヴァロア系ブルゴーニュ家は戦争や婚姻 政策によりLuxemburg、Brabant、Flandern、 Seeland、Hollandなどを手に入れてしまう。 現在のベルギーとオランダである。 1419年にはブルゴーニュ家の宮廷を本貫で あるブルゴーニュのデイジョンからブラバントの ブリュセルへ移して、ブリュッセル、ナミュー(ル)、 リエージュなど現ベルギー南東部の都市を 統治した。 ブルゴーニュ公国は文化・芸術でも大きな繁栄 を遂げ、いわゆるフランドル芸術が開花することに なった。 特に絵画では、ファン・アイク兄弟、ブリューゲル などが活躍した。また後にルーベンスを生む。 小便小僧が直ぐ近くで名高い、ブリュッセルの グラン・プラス(市庁舎前広場)のようなフランドル・ ゴシック様式建築が誕生した時期でもある。 ヴァロア系4代目シャルル突進公に男子が無く、 娘マリーが神聖ローマ皇帝フーリードリッヒⅢ世の 息子マクシミリアンと1477年に結婚、この時 ブルゴーニュ公爵領はフランス王家領となり それ以外のブルゴーニュ自由伯領以下はハプス ブルグ家に移った。 マクシミリアンの息子フィリップは、スペインの 王位継承者フアナ(Juana)と結婚し、フィリップは ネーデルランド一帯だけでなく、スペイン王の 地位も得た。 フィリップの子、カール5世(シャルル五世)は Gent(ゲント)で生まれ、Achen(アーヘン)で 神聖ローマ皇帝に即位した。 河口が土砂で埋まった為ブルージュが衰退し、 アントワープがヨーロッパ最大の貿易と金融の 中心地として発展する。 カール5世の子フィリップ2世がブルゴーニュ公 (1555~98)となり、翌年にはスペイン王(1556- 1598)に即位した。 フィリップ2世は最後のブルゴーニュ公でありその 死とともにブルゴーニュ公国は終焉した。 フィリップ2世の時代ヨーロッパではプロテスタント が勢力を拡大していた。 現ベルギー北部のフランデレン、ブラバントなどは その中心であった。 フィリップ2世は狂信的なカトリックあったため、 プロテスタント地域にスペイン軍を送り、何千という 新教徒を処刑した。 これに対して、オレニア公ウィレム一世(オレンジ 公ウィリアム一世)とフランダースの地方長官 エグモント伯によって貴族同盟が発足し、スペイン への抵抗運動に加わった。フィリップ2世はこれに 対し、スペインからアルバ公と1万人の軍隊を 派遣した。 アルバ公はウィレム一世を追放し、エグモント伯 や他の指導者的存在である貴族をブリュッセルの グラン・プラスで処刑した。 これを契機に民衆の暴動が勃発し、スペインは 南部の都市を除き支配力を失う。 1576年に、北部でウィリアム一世が絶対的な 支配力を確保し、スペインと和解した。 北部同盟はその後、75年に及ぶ独立への 戦いを続けた。南部のカトリック地域はスペイン への忠誠を守りこれがスペイン領ネーデルランド (現在のベルギー)となった。 1648年の「ミュンスターの講和」によりスペインは、 北部同盟(オランダ連邦共和国)の独立を承認し、 またスヘルデ河口の閉鎖を承諾した。 その結果、アントワープとゲントの地位は、かつて のブルージュと同様、商業の中心地としてオランダ・ アムステルダムに取って代わられていまう。 フランス・ルイ14世はハプスブルグ・スペインに 戦争( 1674~78)をしかけ、スペインからブル ゴーニュ自由伯領を手に入れた。 それ以後ブルゴーニュ自由伯領は、フランス領 フランシュ・コンテ(Franche Comte)となる。 |
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6.後書き : |
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フランスのブルゴーニュやフランシ・ュコンテに は行ってないのだが、ブルゴーニュ公国時代に
大いに発展したベルギーには幾度となく訪問し、 また連続1月滞在したこともある。 ブリュッセルを朝、車でモンスまで行き、1~2台 の機械修理を終えて夕方帰る。 三日から四日その繰り返しをして、次にナミュー、 リエージュと転戦し廻った。 ホテルへ帰った後、夕食前の麹(酵母?)の 香りがするビールの味が忘れられない。 種類は実に多い。 休みにはアントワープまで出かけ、ルーベンスを 堪能したのを思い出す。 フランク族もブルグンド族もゲルマン人であった が、数の上からローマ化したケルト(ガリア)人に 飲込まれてしまった。 歴史的にベルギー、オランダの地名などは イギリス経由にて紹介されたので英語表記 (発音)が一般的になっているが、筆者所有の 歴史地図がドイツ発行のため独語が優先され 勝ちとなってしまう。 それでも人名・地名などの表記発音は仏語、蘭語、独語、英語と入乱れている点は諒とされ度く。 アントワープ;(英:Antwerp、独蘭:Antwerpen、仏:Anvers) ゲント;(英:Ghent、独:Gent、蘭:Gent(ヘント)、仏:Gant(ガン) リュージュ;(英仏:Liege、蘭:Luik、独:Luettich) |
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参考図書
1 | 「新書ヨーロッパ史 中世篇 」 | 掘越 孝一 | 講談社現代新書 |
2 | 「ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史」 | 掘越 孝一 | 講談社現代新書 |
3 | 「ハプスブルク一千年」 | 中丸 明 | 新潮文庫 |
4 | 「Grosser Atlas Zur Weltgeschichte」 | Westermann | |
5 | www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm |