主題;「棄捐令」について

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2004/09/30  

 棄捐令「きえんれい」と読みます。難しい言葉です。文字のそれぞれの意味を辞書で調べてみますと、
「棄(き)」 ;棄てる。投捨てる。見すてる。忘れる。
「捐(えん)」;棄てる。放棄する。見すてる。除く。削り去る。
「令(れい)」;言いつける。命じる。告げる。言いつけ。ふれ。
とあります。
 「棄」も「捐」も「棄てる」ということです。そして、「令」は「言いつけ」ですから、これは『棄てなさいという命令』になります。では、何を『棄てなさい』なのでしょう。それは、幕臣たる旗本、御家人が札差たち商人にしている借金を指しています。
 つまり、借金帳消しを命ずる幕府からのお達しなのです。

 今回は、この命令(暴令?)について調べてみました。


1.改革

   ご存知のように、江戸期の武士たち(幕臣、諸国の藩士を問わず)の給与は、基本的に「先祖伝来の固定給」でした。そして、それはお米であり、その額は、お米を量を測る単位『石』で表されていました。
 この様な体制での武士の状況については、本誌#77『幕臣の財政』で述べています。

 江戸時代は270年続き続きましたが、経済の消長の点で見れば三つの山と谷がありました。山は経済成長期ですし、谷は不況期です。山は元禄、明和・安永、文化・文政の三時代であり、谷は享保、寛政、天保の時代です。そして谷の時代には必ず、幕府による行財政改革が行なわれています。即ち、この改革を享保の改革、寛政の改革、天保の改革といい、これらを「江戸の三大改革」呼んでいます。

 そして、それぞれの推進者は、八代将軍徳川吉宗、松平定信、水野忠邦でした。ですが、これらは、基本的に「武士の・武士による・武士のための徳川幕府」の改革を目指したものでした。確かに米将軍・吉宗(暴れんぼ将軍ではありません)、松平定信、水野忠邦たちは、民政を重視し、多くの弱者や貧民の救済に手を差し伸べる諸策を行なっていますが、基本的にはこの「武士の・武士による・武士のための幕府」を護持するためのものでしかありません。従って、彼らが民に温かい政治を行なった裏には、 
 ・ 徳川幕府の権威の回復
 ・ 幕府の構成員である幕臣の権威の確立
 などが目的であり、現在の民主主義による「人民の・人民による・人民のための政治」に政府の質を変えようとする意図などは、全くありませんでした。
 今回のお話は、寛政の改革の推進者、松平定信によって行なわれた政策の一つでした。

2.定信登場

   天明6(1786)年8月20日に第10代将軍・徳川家治が死亡します。そして、その七日後には家治の信任を得て幕政を牛耳っていた老中筆頭田沼意次が罷免されてしまいます。田沼政権はその末期、凶災と飢饅(天明の大飢饉)、これにともなう一揆・打ち壊しが発生して決定的に力を失ってしまいます。そして、田沼政権に翻弄された幕政をどの様に収拾するかが、当局者たちの苦悩でした。
 そこに白羽の矢を立てられたのが、奥州(現、福島県)白河藩主松平定信でした。定信は、御三鄕の一である田安宗武の次男で吉宗の孫であり、その清潔な人格と白河藩でみせた天明飢饅での治績が広く知られ、

 『田や沼や 汚れた御世(みよ)を改ためて 清く澄ませ白河の水』

 と落首に読まれるような人物で、御三家、御三鄕の推挙、そして譜代大名層の信頼を得て、天明7(1787)年老中の座に着きました。

 かくして寛政の改革が始まります。
 改革の最も緊要な課題は、幕府財政の建て直しであり、本質的には封建的土地所有を再編強化すること、ひいては幕藩制支配の論理を取戻すことでした。
 定信は、「金穀の柄は上(かみ)に帰すべきもの」と云います。貨幣と米穀、すなわち経済は、お上(支配)の意に従うべきもので、金融業者や大商人が勝手に動かすべきものではない、という考えを持っていましたので、田沼時代に自由に飛びまわった商業資本を幕藩体制の秩序の回復・維持に資する範囲でしか許さないと云うことになります。その結果、商業・高利貸資本に対する強い抑制策は、他の改革に比べて寛政の改革の特徴的な地位を占めています。中でも将軍直属の軍事力にして幕府権力を支える官僚群、旗本・御家人の財政に食い入った高利貸商人札差に対する改革の嵐は、当然厳しいものがありました。

 旗本たちの数年にわたる大借金が、すでに「利に利を重ねて、元金よりも利子ばかり」であり、札差らが派手な生活ぶりを誇示している有様は、幕政担当者にとって決して面白いことではありません。札差の面々は、いわば田沼時代に醸成された非道徳的風潮の中心であり、定信の表現によれば、「身分の奢り言語に絶し、風俗は歌舞伎役者と二つにて、多くはくづれ申し、失礼尊大の様子、不届きの至り」(水野家文書『撰要類集』)であったのです。
 一般に寛政の改革は、田沼時代に思う存分羽をのばした商業資本を抑圧したといわれていますが、内実は、一部の大商人を選択して抱え込んだ上で行なわれました。勿論、それは定信の頭のなかで矛盾していたわけではありません。お上に帰し、為政者の意のままに動く良質の商業資本をもって勝手気ままで社会を混乱に導いた悪い資本(それは田沼政権の走狗でした)を押え、従属させようというのです。

 寛政元(1789)年、この年ヨーロッパではフランス大革命がおこり、近代の扉を開いたのですが、わが国ではこのあと天保改革を経て明治維新に至まで、まだ80余年を費やさねばなりませんでした。しかし日本は、世界史の中にただ超然としていられたわけではなかったのです。既に、わが国の近海はたびたび黒船を見かけるようになり、林子平が江戸日本橋からオランダまで、境なしの水路だと喝破したのは、ちょうどこの頃です。
 定信が旗本・御家人の借財を一挙に軽減して、経済的負担を取払ってやろうと計画したのも、この年の春先のことでした。

 定信が腹心の幕閣たちに、内々でもちかけた相談は、大要次のようなものでした。
 札差の貸付金の未返済の滞り金を、
 ・ 20年以上前までは、帳消し
 ・ 19年以前から10年前まで、20年賦または無利子
 ・ 9年以前から5年前まで、15年賦
 ・ 4年前以後は従前通り
 以後、約半年の月日をかけて、この構想は、極秘のうちに練りあげられて行きます。   

3.棄損令 (仕法御改正の申渡し)

   極秘裡に練り上げられた札差仕法の改正と旧債権破棄の案は、八月中句にはほぼ固まります。内容も定信の原案よりはるかに厳しいものとなり、発布の日取りも更衣などの入用がすむ重陽(九月九日)をやりすごし、九月十日から十二日ごろと内定したのです。(実際には最後の申渡書の加筆訂正で若干遅れることになりましたが)

 札差一同と蔵前の町役人が、北町奉行初鹿野河内守の番所に召出され、勘定奉行久世丹後守立合いのもとに、申渡しを受けたのは寛政元(1789)年九月十六日のことです。
天王町組札差浅草茅町弐丁目家持
坂倉屋清兵衛
ほか三十一人
片町組札差浅草旅寵町壱丁目代地新兵衛店
相模屋庄兵衛
ほか三十一人
森田町組札差浅草平右衛門町久左衛門店
伊勢屋七兵衛
ほか三十一人
其の方共、御旗本・御家人へ下され候御切米高引き請け世話致し、定式・臨時とも用向き承り、金子貸付け渡世致し候儀に候所、其の方ども貸金の儀は永(なが)々元利の取引きに成り、数代の借金尽(つく)る期もこれなく候間、御旗本・御家人は遂(おい)々難渋(なんじゆう)相増し候事に候。

其の方ども儀は、右躰(てい)の弁(わきま)えもこれなく、渡世に任せ利足(利息)を重ね引取り勘定相立て、なほ三季の請取金高にて不足に候えば、其の分また元に直し、追々金高相増し候ても利下げ等も致さず、容易に多分の利潤を取り候て、身分の奢侈(しゃし)は勿論、下代どもに至る迄種々の遊興のみ致し、甚だしきは世上町屋の風俗迄崩し候様なる不届きの奢(おごり)を極(きわ)め、其の上用事達し候御旗本・御家人へ対し候ては、失礼なる事どもこれ在る趣相聞け、言語に絶し不届きに付き、厳しく御咎(おとがめ)仰せ付けらるべく所、格別の御憐愍(れんびん)を以つて御宥免(ゆうめん)成し下され候間、向後(きようご)身持ち風俗を改め、渡世の分限を守り、御家人へ対し失礼成る儀一切致さざる様一同申し合はせ相慎むべし。

此の度其の方ども貸金利下げ、幵(ならびに)是迄の貸金済方(すませかた)等別紙の通り仕法御改正仰せ出され、浅草御蔵前猿屋町代地へ貸金会所相建て、町年寄樽屋与左衛門へ引き請け仰せ付けられ候間、その意を得、仕法の趣急度(きつと)相守り申すべき事。

右仕法は勿論、以来不届の筋これあるにおいては厳重に相糺(ただ)し、急度御咎仰せ付けらるべく候間、其の旨存ずべきもの也。

今度其の方ども貸金仕法御改正仰せ出され候間、公儀より無利足御下ヶ金成し下され、右の内へ差加(さしくわ)え金いたし、会所より貸渡し候様、申し渡し候。尤も御下げ金の儀は、二十カ年賦の積りに候間、その意を得、返納方割合の儀は、会所に申出で差図を請けべきもの也。
(『札差事略』御改正之部)

 これが棄損令の申渡しです。どこにも棄捐(借金棒引き)というような字は見当りません。利子を引下げ、これまでの貸金の済方(すませかた)を別紙の通り改正し、貸金会所を建てて町年寄樽屋与左衛門に引請けさせるとあり、幕府からの助成金については無利足の御下げ金が20年賦で出されるというだけで、金額も方法もはっきりしていません。ですが、仕法書帳面が一冊渡され、これに具体的な改正仕法が全12ヵ条にわたって、事細かに書かれていたのです。
そして、町奉行書で申渡しを受けた後、つづいて町年寄樽屋与左衛門の役宅で、一同に申渡された書面があります。これが九ヵ条あって、より具体的に、近づく冬御切米の受取りや、それを担保とした新規の金融に備え、用立金元金・利子の計算方法や、自分(樽屋与左衛門のこと)が担当することとなった会所(まだできていない)の説明が成されていたのです。これが、先の申渡書と仕法帳の解釈書となっていたのです。
 棄捐令は、その対象である札差に直接示された申渡書と仕法帳の二つからなり、樽屋の申渡書がこれを補うもので、広くはこの三点をもって構成されていたということになります。
 棄捐令の内容は大きく分類すると、
 ① 旧債権の処分法、
 ② 今後の札差貸金の仕法、
 ③ 御下げ金と会所の資金貸付けなどの助成、
 ④ その他、
 に分けられますが、詳細を省いて、要点を示せば、
 ① 六年以前までの貸付金は、新古の区別なくすべて帳消しとする。
 ② 五年以内の分は利子を(これまでの三分の一に)下げ、永年賦を申し付ける。
 となります。

4.江戸大喜び

   蔵前の札差たちとって、六年前までの貸付金といっても、年利18%の利子で長年焦げ付いたままになっていて、利子の方が元金をはるかに越え、複利で雪たるまのようにふくれ上がったものもありました。しかし焦げ付き債権といつても、担保の俸禄・知行蔵米をがっちり押え込み、その受領から売却までの手続き一切を抱え込んでいたのですから、取りはぐれることは絶対にありません。焦げ付かせたまま寝かせておくのも、札差の手だったのです。年々18%ずつ着実に増えていけば、蔵米の支給ごとに差引ける金額が大きくなっていきます。最も安全・有利と思って貯め込んだ債権、これがある日突然、棒引きの処断です。

 定信はじめとする幕閣の関係者にとっては、一年近く極秘のうちに練りあげた改正法です。「愚味(ぐまい)心得がたい」「町家の風俗まで崩し、不届きの奢を極め」ている札差に、莫大な損害を与えて債権を削つてしまえば、それだけ「追い追い難渋あい増し」ている旗本・御家人に、定信新政権は、御仁慈を施したことになります。札差など、今日の棄捐令で難儀をしても、かねてからの不始末がもたらした因果応報である。何も同情してやることがないというのが、幕閣たちの気持でした。

 札差の債権を棒引きにする御触が出たということは、たちまち江戸中に拡がりました。旗本・御家人や、これに準ずる御三家御三卿付きの武士たちは、もちろんいずれも大喜びです。町人たちも、あの大富豪の代表者、蔵前の旦那衆が一挙に金儲けの元を断たれたという噂でもち切ったのです。
そして、喜びは松平定信に対する尊敬を神がかったものにさえしてしまったのです。その様子を当時の市井の見聞を記録した日記から、その一部を紹介しますと、

 誠に只今までは勤かね候て、ただ蔵宿へ計り奉公いたし来り候もの多く、当暮などは後へも先へも行き兼ね候もの共、数多(あまた)これ有る可く候が、誠に御影にて生き返り候と有難がり、諸方にて越中様へ御神酒(おみき)をあげ、拝まぬものはこれ無しと申す事の由。(九月十七日)
 蔵宿御書付、これ又巨細(こさい)に仰せ出され、一統(いつとう)越中様を手を合せ拝み申し候よし、あのよふな事にどうして御くわしい事だ。田沼主殿(とのも)は匹夫から出ても、あんな下女の事には気付かぬ。越中様は大名も大名、田安の御深宮(ごしんきゆう)に御育ち成さつて、公方(くぼう)様(将軍)も同様な御方だが、ふしぎに下情にもくはしく御立入りなされ、蔵宿の事など人の知らぬ所まで御気が付いた事じや。(九月十九日)
 桑原伊予守、二千七百両棄損御座候よし。御役がへ頂いたよりは有難いと、伊予申し候よし。(十月十二日)

 狂歌 「御政道 かゆいところへとどくのは 徳ある君の 孫の手なれば」 (十月十二日)

 桑原伊予守とは、安永五(1776)年から天明八(1788)年まで勘定奉行を勤めた桑原盛員(もりかず)です。家は500石5人扶持でしたが、日光の神橋修復、長崎奉行、作事奉行などを歴任し、勘定奉行の前には買米のことで等閑(怠慢)の謗りを受けて、出仕を止められたこともありますが、後に大目付、西ノ丸御留守居役などを勤め、着実に昇進した人物です。彼の場合、恐らく扶持米と足高の蔵米を担保に、札差から金を借りていたのでしょう。六年前の棄捐債務だけで2700両に達したのですから、年賦の分を合わせれば相当な金額の借金をしていたものと思われます。
 こうした負担を背負っていた幕臣の肩の荷が、突然消えてしまったのですから、狂喜したのは当然でした。

5.札差抵抗 (締め貸し)

 そして札差たちの対応です。棄捐令の申渡しを受けて7日後の九月二十三日、坂倉屋与惣(よそ)兵衛ら28人の札差が御慈悲(ごじひ)願書を提出します。彼らは「元来不如意二御座候て、是まで外金主より常々金子借請け」(『札差事略』御改正之部)、すなわち自己資金に乏しく、他借金を頼って営業してきたので、債権の棄損・年賦、さらには今後の利子低減を命ぜられては「家業相続成り難きは勿論、家族相暮し候儀も必至(ひつし)と差支へ、途方(とほう)に暮れ罷り在り候」。そこで幾重にも御慈悲の程を願い上げるというのです。

 いったん発せられた幕法です。御慈悲願いくらいで撤回などなされるはずもありません。貸付けの資金が他借りがちであったとは信じ難いところですが、高利貸金融の安全のために、資金や貸付け先もなるべく分散させておくという意味で、他借り資金が多くなることはあり得ます。といって貧窮ゆえに手元不如意というのは本当でしょうか。札差たちは強かです。しかし、手元不如意か他借りがちであるかはともかく、多額の債権を棒に振らねばならなかったことが、札差を絶望的にさせたのは確かでしょう。

 この慈悲願いを提出した翌日、町奉行所から幕府御貸下げ金の儀が明らかにされました。しかし幕府の出した御下げ金は、一万両が提示されただけで、札差に金融拒否の口実を与えないためにすぎなかったのです。惣札差96人で分ければ、一人当り100両余りにしかなりませんでした。
 札差としては、従来の債権がほとんど棄損になった旗本・御家人たちに対して、新規の貸付などしたくないのが人情というものでしょう。蔵米支給期日ごとに、借りた、返したが着実に続けられるような、低額短期の金融では儲けが限られていますから、嫌味の一つも言って、お断わり申しあげる札差が続出しています。

 先に見た日記の翌年二月九日の条には、次のような狂歌が記されています。

 『九十九夜 深草ならぬ浅草へ 通へど貸さぬ 少将の金』
 『蔵宿を 無理に叱って酉の年(寛政元年) 戌の年まで 吠える御家人』
 そしてついには、
 くり返し(札差からの借金は)一切出来申さず候に付き、かるき御家人ども一統難義に及び、気も立ち候や、諸(所)々追剥(おいはぎ)・盗人(ぬすつと)、武士多く御座候よし。(寛政二年四月十三日)

 という状況でした。札差の一斉締め貸しは、まるで申合せたように続きます。中にはほとんど閉店同様の店もあり、「只今迄、年賦米にてくらし候蔵宿は、この節裏店へ引込み申し候ものも御座候よし(十月二十九日)」。年末に至り、武家の越年資金融資希望が増してきても、「くらやど立ち行き兼ね候もの数多これ有り、余程此の節、戸をたて候もの御座候よし」(十二月九日)とあります。貸付ける資金も不足していたのかも知れませんが、手痛い目にあったばかりの相手に金が貸せるか、であったに違いありません。

6.棄捐額

 札差が受けた棄捐額は、どれほどの金額であったのでしょうか。
 旗本・御家人や御三家御三卿付きの蔵米取への高利貸を、96人で独占していた札差は、一人一人の札旦那の債権を、棄捐・年賦と振分けて算定しなければなりませんでした。具体的に個々の借金口座をみてみると、それぞれの事情が背景にあって、原則一本で割切ることはむずかしい状況でした。しかし、この年の暮れ、町奉行から各札差が棄捐させれた債権の金額書いて出すように命ぜられました。

 各札差から出された棄捐額を総計すると、金118万7808両3歩と銀14匁6分5厘4毛に達していました。札差一軒平均13,500両となります。ちなみに現金で千両といえぱ、重量にして18kgに相当するとのことです。俗に、10両盗めば首が飛ぶといわれた時代です。棄捐令が発せられた年(寛政元年)から6年前の天明三(1783)年(大凶作の時です)の幕府の年貢収入は、納米6万石・納金30万両にすぎませんでした。危機のときの数字ですが、府庫にしてこの値であったとすれば、棄捐額の大きさが分かります。

 札差は、寛政の改革の嵐によって廃業者が続出し、滅亡の一途をたどった云われています。しかし実態は、違います。札差は幕末まで、つまり旗本・御家人の俸禄制度が持続している限りは生き続けました。棄捐令発布以降も、札差業者の数(96人)は変化していませんし、札差株の譲渡が増加したという記録もありません。
 また、幕府としても札差の改正は行ないましたが、これを潰してしまうことは考えませんでした。なぜなら、札差の金融を前提として成り立つ旗本・御家人の生活を乾上がらすことになってしまうからです。
 そして、この後に続く文化・文政期にはまた繁栄の好機を迎え、札差たちは田沼期と同じような豪華な話題を振りまいています。 

7.定信退場

   定信が推進した「寛政の改革」を要約すれば、勤倹節約を旨とし、特に幕臣の叩き直しを徹底的に行なったと言えます。幕臣は長年のぬるま湯に浸り、特に田沼期の贅沢さになれてしまい、完全に堕落していました。また札差からの借金から解放し、武士本来の文武両道の生活が出来ることを意図して、「棄捐令」を発したのでしょう。

 しかし、度が過ぎるといけません。
 落首  『世の中に か(蚊)ほどうるさき ものはなし びんぶぶんぶと 夜も寝られず』と揶揄されてしまいます。
 そして、『田や沼や 汚れた御世(みよ)を改ためて 清く澄ませ白河の水』
 という落首が云う世論に押されて登場した定信も、なんでも節約では市民生活が暗くなってしまい、市民もその政策に飽きが出てきます。

 『白河の あまり清きに住みかねて 濁れる元の田沼恋しき』
 『それみたか あまり倹約なすゆえに 思いがけなき不治の退役』

 寛政5(1793)年7月、定信は失脚します。この時36歳。天明7(1787)年6月に老中筆頭に就いていますので、足かけ7年の任期でした。

 政治には「永遠性」があり、政策には「継続性と連続性」があると云われます。現在の悪しきものの遠因が戦前、元をたどれば明治末期、あるいはそれ以前と思われることが多々あることに気づきます。
 ですから、ある日平成の「棄捐令」が、発令されないとも限りません。何を「棄てるか」ですって。例えば、国の借金。はたまた国民年金の積立金。ここでお達しを受けるのは国民です。何やら気分が悪くなって来ました。

今回はこの辺りで。


参考図書

江戸時代 北島 正元 岩波新書
<江戸>選書10 江戸の札差 北原  進 吉川弘文館
田沼意次と松平定信 童門 冬二 時事通信社