主題;渤海国について:-
1.まえがき: | |||
今年7月高句麗古墳群が、平山郁夫画伯(東京芸術大学長)の骨折りで世界遺産に登録された。当初中国が鴨緑江以北(遼寧、吉林省内)の遺跡登録を主張し韓国・北朝鮮の反発を招いていた。 高句麗の建国は百済、新羅よりは古く、紀元前37年頃から現在の中国遼寧省、吉林省を拠点にツングース系夫余族が支配階級となって徐々に朝鮮北部の平壌から中部のソウル一帯までも支配した。4世紀後半になって新羅、百済がそれぞれ辰韓、馬韓を統一した。また百済を支配したのはやはり夫余族といわれている。弁韓は加羅とも伽耶とも呼ばれ任那となる。 この任那から騎馬民族を引きつれて倭国を征服したのが、崇神天皇(御間城入彦)であるとしたのが、所謂騎馬民族国家説である。 |
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図 1:読売新聞(04.08.16) | |||
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2.日本書紀: |
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日本書記に最初に出てくるのは、新羅である。素盞鳴尊(須佐之男命)は最初新羅ソシモリに天下るが、ここは住むところではないと言って出雲の簸(ひ)の川(→氷川)の上流にたどり着く。 次に出てくるのが、崇神天皇65年に任那国が朝貢し、垂仁天皇2年に任那へ帰国する際に持たせた赤絹百匹が新羅に奪われたとある。 同じく3年に新羅の王子天日槍(あめのひほこ)が播磨へ来て近江、若狭、を経て但馬に住みつく。 仲哀天皇8年に新羅を討つ様神の啓示があったのを実行しなかったため、天皇は翌9年に病で亡くなったとある。神功皇后は直に新羅へ渡り、戦いがないうちに新羅が降伏したのを見て、高麗(こま、高句麗)、百済が朝貢を申し出たとある。 応神天皇14年~15年に百済から弓月君、阿直岐、王仁が来た。仁徳天皇12年に高麗の国が鉄の盾、鉄の的を奉った。また雄略天皇7年には任那国司となっていた吉備上道田狭が新羅と組んで反乱を起こしたとある。 以下歴代天皇紀中延々古代朝鮮三国同士及び任那を含めた倭国との抗争と交流が記述されている。 ついに 百済は斉明天皇6年(660)に、高句麗は天智天皇7年(668)に新羅・唐の連合軍に破れ滅亡し、新羅が鴨緑江以南の地をその領土として統一した。 |
3.渡来人及び神社: |
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1) 紀元前2~3世紀 | |||||||
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2) 4世紀前半 | |||||||
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3) 5世紀前半~6世紀 | |||||||
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4) 7世紀 | |||||||
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4.渤海国: |
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高句麗が唐と新羅によって滅ぼされた後、旧高句麗国の王族大祚栄が、文武天皇2年(698)現中国吉林省敦化を根拠に高句麗復興を旗印にして震国なる国を建てた。 たちまち旧高句麗の大半を支配するまでになり、唐もその実力を認めて713年にしかたなく震国王を「渤海郡王」に冊立。これによって国号を「渤海」とした。 718年、二代目国王大武芸は、即位すると独自の年号を建て新羅が唐の年号を用いていたのとの違いを見せている。武芸王は領土を広げ、遼東半島対岸の山東半島登州に攻込み唐の刺史を殺害するほどであった。ちなみにわが国では文武天皇5年(701)に始めて年号「大宝」を建てている。 神亀4年(聖武天皇4年 727年)初めて渤海使が来日した。船が日本沿岸に近づきつつも対馬海流に流され出羽の夷地(現秋田県北部から青森県あたりか)に漂着したが、24名中大使・高仁義以下16名が蝦夷によって殺された。しかしながら残る8名が国書と貂(テン)の毛皮300枚を持って平城京に入ることが出来た。国書には「高麗の旧居に復し夫余の遺俗を有(たも)てり」とあり、日本側は渤海を高句麗国の後継国と捉えていた。 渤海が我国へ使節を派遣した背景には、かって新羅が唐と組んで高句麗を滅亡させたことに鑑み、日本との同盟によって新羅を牽制することにあった。渤海からは朝貢の形式を取って獣の毛皮・朝鮮人参・蜂蜜などがもたらされ、日本からは絹や綿などの繊維製品が求められた。渤海使節は、当初の軍事的な目的から物資の交易に変わって行った。 渤海使の来日は神亀4年の第一回から数えて延喜19年(醍醐天皇、919)の第34回を最後とし、日本からの送・遣渤海使は神亀5年(728)から弘仁2年(嵯峨天皇、811)まで15回派遣されている。遣唐使については舒明天皇2年(630)に始まり、寛平6年(宇多天皇、894)の菅原道真による遣唐使廃止の建議に基づく、廃止まで19回(19回目は廃止、実際に長安に至ったのが15回)とも言われている。 最近の中国人歴史学者は送・遣渤海使をも含め、日本からの遣唐使を34回あったと記述しているとのことである。これは渤海を唐の地方政権と見做し、渤海を自国の歴史に取り込むことに他ならない。確かに渤海は唐の冊封を受け、渤海からの遣唐使や唐からの冊封使派遣があった。また日本から渤海経由にて唐への使節を派遣した場合があったのである。 天平5年(聖武天皇、733年)第9次遣唐使に随行した平群広成は帰国のため翌年蘇州を出航したが、広成の乗った船が南へ流されて現ベトナム中部に漂着した。長安へ戻った後、738年渤海国の使節に同行して黄海を渡って渤海に入り、渤海国から739年の第2次渤海使とともに帰国を果した。 唐滞在の日本人の様子は渤海使を通じて情報が入り、手紙や金品を渤海使に託して唐まで届けられたこともあった。養老元年(元正天皇、717)第8次遣唐使に随行留学生として入唐していた阿倍仲麻呂が、36年間の唐滞在の後、天平勝宝4年(孝謙天皇、752)第10次遣唐使として入唐した大使藤原清成の帰国にあわせ、翌5年11月15日に現在の上海付近から船に乗り込んだのであった。 この時詠んだ歌が「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」である。船は嵐に遭い、4隻中3隻は日本へたどり着いたが、大使清成と阿倍仲麻呂が乗った船はベトナム中部に流され、翌6年には長安に戻ることが出来た。この顛末を渤海国使に託し、その書簡が天平宝字3年(淳仁天皇、759)来日した渤海使によって届けられたのである。 日本から使節団を派遣して渤海を経由して唐に渡り、藤原清成・阿倍仲麻呂を向えに行くも安・史の乱で唐が混迷し清成・仲麻呂の帰国は成らず唐にてその生涯を終えている。この使節一行が長安へ行く途中、山東半島登州(蓬莱)のお寺に寄進した壁画と願主名を80年後にここを訪れた円仁(慈覚大師)が彼の旅行記「入唐求法巡礼記」に書きとどめている。 渤海国における日常語は朝鮮語系であったと推測される。渤海使が来日した当初は新羅語学生が通訳として臨席していた。しかし時代が過ぎて渤海王朝の唐風化が進み高官や対外使節使などは唐語を話す様になっていった。渤海使の応接も後半になると唐語の通詞に折衝させていた。 渤海使来日の際漢詩の交歓が行われ、渤海側は一流の文人を派遣するようになった。菅原道真は渤海使の接待役を司り、「菅家文草」には大使や副使と応酬した漢詩7篇が収録されている。 貞観元年3月(清和天皇、859)渤海使が能登の珠洲に着岸したが、入京させず8月に現地から放還させている。この時わが国で800年間使われた唐の「宣明暦」が伝来した。 「宣明暦」については #65「暦について」(04.02.20付 酔夢亭 守崖氏)に詳しく述べられている。 延喜7年(醍醐天皇、907)唐が滅亡した後、18年(醍醐天皇、918)朝鮮では、開城を首都として高麗国が建国され、次に延長4年(醍醐天皇、926)には渤海国が契丹の侵攻を受けて滅亡した。935年新羅が滅亡し高麗が朝鮮を統一した。 |
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図 2 | |||
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参考図書
1 | 渤海国 | 上田 雄 | 講談社学術文庫 |
2 | 日本書記 上/下 | 宇治谷 孟 | 講談社学術文庫 |
3 | 空白の世紀 (清張通史2) | 松本 清張 | 講談社文庫 |
4 | 海の日本史 | 中江 克己 | 河出文庫 |