主題;シュリーマン(Heinrich Schliemann)    について:

 

1.まえがき:

   

 ブラッド・ビット主演ハリウッド映画「トロイ」が上映中である。
 紀元前800年頃のギリシャの詩人ホメロスが「イーリアス」「オデッセイウス」のなかで記述した紀元前1200年頃に起こった「トロイ」戦争の話しを映画化したものである。


2.生い立ち:

   1814年ナポレオン・ボナパルトが退位し、ウイーン会議が開かれる。シュリーマンは主権を回復したメクレンブルグ・シュベーリン大公国のバルチック海(Ost See)に面した小さな村ノイブコウ(Neubukow リューベックから東80km)にて1822年に生まれた。

 父親は牧師であった。母親はシュリーマンが9歳の時に亡くなっている。10歳の時父親が教会の金を横領したとの濡れ衣を着せられ、シュリーマンは故郷を離れたが父の嫌疑が晴れ父のところに戻った。

 家にはギウナジウムに通う学資がなかったため14歳から雑貨店の徒弟として働いた。18歳で南米行きを決意し船に乗るが、船がしけで難破しオランダに漂着する。シュリーマンは語学の天才であった。アムステルダムで使い走りをした3年間でマスターした言葉はオランダ語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語の6ヵ国語である。

 その後ロシア語をマスターしてサンクト・ペテルスブルグへ移住し、インデイゴ(藍染料)、硝石、硫黄、鉛の取引で26歳にして大金持ちとなる。さらにゴールドラッシュに沸くカルホルニアのサクラメントで銀行を開き多額の利益を上げた後、ロシアに戻りクリミア戦争(1853年~56年)でも商売で大儲けを
した。

 1863年(41歳)に商売を他人にまかせ,チュニス、エジプト、パレスチナ、シリア、小アジア、アテネを回る。1865年(慶應元年)には商売をたたんで世界一周の旅に出る。再度チュニス、エジプトを訪れた後インド、ジャワ、中国、日本を回りアメリカ・メキシコからヨーロッパに戻った。

 1866年ソルボンヌ大学の聴講生となってフランス文学、比較言語学、アラビア語、ギリシャ哲学、同文学、エジプト学を学んだ。この間トルコ、ギリシャなどへ旅行しこの時の見聞をまとめた論文によって1868年に、生まれ故郷の近郊ロストック(ハンザ都市)大学から文学博士号を取得している。

 1869年に「La Chine et le Japon au temps present」をパリにて出版する。

3.清国・日本旅行記:

 3.1)万里の長城

   1865年4月20日上海から蒸気船に乗って天津をめざす。3日目に経由地の山東半島煙台に着港。清国は、アヘン戦争(1840~42)後の南京条約によって広州、廈門、福州、寧波、上海の5港を開港させられたが、さらに1860年の北京条約によって、天津、煙台、漢口など11港が開港させられた。
 この煙台でイギリス人ロバート・トーマスの面識を得る。トーマスはシュリーマン同様欧州多数ヶ国語のほか日本語、シナ語を流暢に話すことが出来た。トーマスは煙台の税関で働いているのだ。

 清国は英仏への賠償金を払い終えるまで税務業務に外国人官吏を登用させられたが、かえって税収が大幅に増えたとある。清国政府は自国役人の腐敗堕落を認めて彼らを罷免し、シナ語を話せる外国人を雇うようになったのである。

 煙台を出て渤海湾を進み、白河河口を遡り4月27日夕刻天津に着いた。天津の人口は40万人。シュリーマンは世界のあちこちで不潔な町を見て来ているのだが、とりわけ清国の町は汚れている。天津の町はその筆頭で、ぞっとするほど不潔・不愉快に悩まされると書いているのである。

 4月29日天津から驢馬の曳く2輪馬車にて北京をめざす。この馬車は天蓋に青い布がかぶさっていて、寝そべるには長さが足りず、腰掛けるには低すぎるというまさに拷問のような乗り物であった。疲労困憊の挙句4月30日夕方北京へ辿り着いた。

 北京の城壁は壮大で周囲52Km、高さ16~23mあり、高さ67mの大城門が九箇所ある。どの城門も各々同じ大きさのもう一つの門によって守られている。

 マルコ・ポーロの書いた「東方見聞録」を読んでいたので、城壁の中へと入った時、素晴らしいものに遭遇できると思っていたが、荷馬車曳きが泊まるぞっとするくらい不潔な旅籠のほかにはホテルなどはなく、お寺の前で足を止めた。

 寺の僧は、はじめ一日12フランを要求したが、値切りに値切って6フランで部屋を貸してくれた。部屋は4m四方で、半分を石のベッドが占め、残りの床の部分は土が剥き出しとなっている。埃を静めるるため水をふんだんに撒いたため床はぬかるみ、ひどい悪臭がしていた。

 市内では、首の下に1.33m四方の板をつけた罪人、大通りの中央にある刑場での首の数々、纏足の女、賭博場、お寺でのお御籤、天文台にある高さ2.66mもある天球儀(1620年頃ドイツ人が作った;2066年までの日食、月食の起こる時期が明示されている)、猫の大騒ぎのような音楽と耳を引っ掻くような叫び声の歌が入った芝居などを観て回った。

 5月2日早朝馬車2台と鞍つき馬1頭を借りて、満州(Manchuria)との国境古北口に向った。長城は山から谷に下りつつ同じ高さの3本に分岐する。真ん中の1本が古北口の町を横切り、あとの2本は町の周囲に広い円を描く。3筋の城壁はまたこの先、谷を越えた高い地点で1本になり、山の稜線にそってジグザグとうねりながらのこぎり状の大きな岩の山脈に近づいていく。

 さらにこの山脈の切り立った側面を軽々と乗り越えあらゆる急な坂を貫きながら雲の中へ消えてゆく。呆然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。それは想像の百倍以上の威容をもって目の前に迫っていた。

 長城はかって人間の手が築きあげたもっとも偉大な創造物だということは異論の余地がない。しかし今やこの大建築物は過去の栄華の墓石といったほうがいいかもしれない。

 長城はそれが駆け抜けていく深い谷の底から、またそれが横切っていく雲の只中から、シナ帝国を現在の堕落と衰微にまで貶めた政治腐敗と士気喪失に対して、沈黙のうちに抗議をしているのだ。

 3.2)江戸

   上海から蒸気船に乗って横浜へ向う。三日の行程で船賃が百両(テール;900フラン)とある。ちなみに上海から天津までは八十両(テール;720フラン)を支払っている。

 6月1日の朝、奄美徳之島西海上の鳥島(硫黄島)のそばを通過し、火山の噴煙を見た。6月3日夜10時横浜に着く。6月4日小船に乗って上陸する。手間賃は4天保銭(13スー)ということであまりの安さに驚いている。シナではこの4倍はふっかけられていた。

 税関で荷物を開けるるようにと言われめんどうなので、役人2人にそれぞれ1分(2.5フラン)ずつ出したところ受け取りを拒絶された。

 6月10日大君(将軍家茂)が上洛する行列を見た。1700人の行列で将軍は馬の蹄には蹄鉄なしの藁のあてを履かせた栗毛に乗っていた。

 幕府は江戸開港を渋っていた。この頃外国人が江戸市中に入ることは危険であった。というのは、シュリーマンが来日する数年前から攘夷派の浪士が外国人を襲撃していたからである。安政6年(1859)横浜でロシア人士官と水兵、万延元年(1860)アメリカ公使館員ヒュースケン、文久元年(1861)、2年にはイギリス大使館が襲撃され大使館員が殺されていたのである。

 シュリーマンは米国・横浜総領事の骨折りで江戸への旅行許可証を手に入れた。6月25日朝どしゃ降りの雨の中侍5名の護衛のもと馬に乗って江戸へ向った。護衛の侍はわずかな心付けも受取らない。

 東海道は10~11mの道幅で江戸までの30Kmは海沿いを走り、道の両側には切れ目無く商家が立ち並んでいる。また街道沿いには、茶屋や番所があり弓・刀・鉄砲を持った兵隊たちに出会った。茶屋で16杯のお茶を頼んだが、代金は1分だった。清国同様お茶に砂糖・ミルクを入れないで飲むとの記述があり、一応乳製品を知られていない食物と捉えているが、現在のドイツ人も緑茶に砂糖・ミルクを入れないで飲むことを不思議がる。

 江戸ではアメリカ公使館が置かれた寺、大名屋敷、愛宕山から見た江戸の町並みと城、浅草寺、吉原、歌舞伎、鍛冶屋、寺子屋などを見て回った。

 明治維新の前で政治的には幕府の力が落ちて来た時代ではあったが、町並み、道路、お寺、僧侶、商家、幕府役人の倫理観等、清潔さが保たれていて、日本での印象は非常に良かったと思われる。シュリーマンは7月4日帆船にて横浜からサンフランシスコへ向けて出発した。

4.トロイア遺跡の発掘:

   シュリーマンは幼い頃ホメロスの英雄物語を父親から聞かされていた。しかしトロイアは破壊され礎石の一つも残っていないと。7歳のクリスマスプレゼントに「絵入り世界史」をもらった。炎上するトロイアの巨大な城壁と門が描かれていた。トロイアは瓦礫の下に埋もれているとの確固たる信念を抱く。

 1871年から発掘を続けてきたトルコ・ヒッサリクの丘で、トロイアの実在を推測させる遺構を発掘したのは1872年シュリーマン50歳の時であった。翌73年には<プリアモスの財宝>と呼ばれる出土品を発掘する。銅製の盾、鍋、車輪、壺、金の壺や杯、銀の刀などである。

 さらにミケーネでもホメロスが言う通り、トロイアで発見したよりも多くの黄金の財宝を発掘する。シュリーマンは発掘した財宝をドイツ帝国に寄贈することで1881年に「ベルリン名誉市民」となった。超一流の学者しか入会を許されない「プロイセン科学アカデミー」の会員になることを望んだが認められなかった。1890年ナポリにて死去(享年68)、彼が認められたのは死後10年経ってからのことであった。

 現在の考古学ではシュリーマンが発掘した場所は、ホメロスのトロイアの時代の地層を突き抜け千年も古い地層であったとのことである。第二次世界大戦の混乱で<プリアモスの財宝>は行方不明になったと思われたが、モスクワ・プーシキン美術館に秘蔵されているとのことである。

5.あとがき:

   当時横浜にはイギリス軍艦7隻、フランス軍艦2隻、オランダ軍艦1隻、イギリス陸軍1個連隊800名、フランス陸軍120名がいた。さらに長崎にはイギリス軍艦1隻が停泊していたのである。

 薩摩や長州が攘夷と叫んでいたのは、幕府を困らせるためであり、幕府が倒れると直ぐに開国へと舵を切り替えている。
 

 それにしてもイギリスやフランスの植民地にならなかったのは、両国のお互いの牽制があったからとの見方があるが、一般庶民の読み書き能力、清潔さ、社会秩序が維持されていたことなどの方がその要素として大きいのではないかと思われる。


参考図書

シュリーマン旅行記 清国・日本 H.・シュリーマン
訳 石井和子
講談社文庫
天才たちの私生活 G・プラウゼ   
訳 畔上 司/赤根洋子
文春文庫