主題;「幕臣の財政」について

「財政」などと学術的な言葉を持ち出しましたが、有体(ありてい)に言えば、「懐具合」と言う意味です。ですから今回の表題は、「幕臣の懐具合」となります。しかし「懐具合」、それも他人様のことを云々するとなると、あまりお行儀の良い仕業ではありません。そこで「幕臣の財政」とさせて頂きました。
 とは言え、他人様のことを書くことには変わりないのですが、150年以上の昔のことになりますので、ご容赦頂きましょう。


1.幕臣

   幕臣とは、徳川幕府直属の武士を云い、旗本・御家人と呼ばれた人達です。
 戦国大名の徳川氏は、三河国を出発点として勢力を拡大して行きました。天正十年(1582)以降、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国領有時代を経て、関東の雄小田原北条氏の減亡にともない、天正十八(1590)年には関東に入国し、豊臣政権下の最大の大名として領国経営を展開しました。秀吉亡きあと、慶長五(1600)年、関ケ原の合戦の勝利によって覇権を獲得し、さらに江戸幕府の開設によって、公的にも統一政権としての地位を確立しました。

 このように大名徳川氏が戦国時代の乱世の中から台頭し、やがて全国政権へ上昇転化していく過程で、これを支えたのは、三河以来の忠勇なる譜代の家臣団でした。そしてその構成は、領国の拡大と共に変化していきました。三河以来の家臣、つまり三河衆が、後の旗本の中核です。これに遠江・駿河・甲斐・信濃の近国衆や関東衆が加わり、更には大名の絶家や分割相続によって、その一族や家臣も登用されていき、高家(こうけ)や交代寄合(よりあい)のような名家の子孫、また、学芸(儒者・医師・絵師・工芸・天文・歌学・連歌・神道など)の分野で活躍した人たちも加わり拡充されていったのです。

 元来、戦陣において主将の旗のある所を本陣と呼んでいました。その本陣の主将の旗の下で近衡する直属の親衛隊を「旗本」と称するようになりました。従って、旗本とは、本来徳川氏の直接の軍事力となる集団であり、常備軍団のことになります。城持衆である上級家臣とは別に、下級家臣が中・小知行地を与えられ、徳川氏の直属家臣に組み込まれて行きましたが、後になるとお目見(めみえ)できる旗本とできない御家人に分けられて行ったのです。

2.地方取、蔵米取

   武士が、主君に「忠勤を抽(ぬき)んずる」御奉公に対して、与えられる知行は、地方取(じかたとり)と蔵米取(くらまいとり)(=切米取(きりまいとり))の二形態がありました。
 主君から土地を給わり、そこの農民を支配して年貢を取立てる、地方(じかた)知行が本来の形でした。
 一方、蔵米の知行は、領地を宛われずに、年貢収納の相当分を支給されるだけですから、封建的な武士の在り方からすれば、地方知行より軽いとみられていました。事実、大名・上級家臣は地方知行で、下級武士ほど蔵米知行となっている傾向があります。それ故、蔵米の知行は、定期的な俸禄の支給という点で、近代の公務員や会杜員などサラリーマンに一歩近づいているともいわれます。
 しかし、特定の領地領民が決っていないだけで、幕藩権カの構成員として農民たちの上に君臨していたことに変りはなかったので、支配者たる武士の本質を失ったということではありません。それ故、地方知行から蔵米知行へ、またはその逆に移動させることは容易であり、家臣団の人事・財政の対策上、その移動は時々行なわれていました。

 幕臣の場合、旗本の約44%が地方取で、比較的上層者がこの形態でした。一方、切米取の方は中下層を中心とし、幕府の蔵米を支給される者でした。
 前者(地方取)は石高で表示されます。例えば、知行千石の旗本は、幕府の年貢基準3.5公、6.5民の計算で、年間350石の貢租収入があるものと計算できます。後者(蔵米取)は俵高で示されますが、幕府蔵米は、1俵が三斗五升入を標準としていますので、千俵の旗本は、年間350石を支給されることにまります。従って地方取の千石は、蔵米取の千俵と同等ということになります。(即ち、1俵=0.35石となります)

 蔵米取はさらに切米取・扶持米取(ふちまいとり)・現米取に分かれます。旗本の切米取は、約2900人で合計約62万俵(石高にして21万7000石)が給されます。一人平均214俵ほど(≒75石)となり、100俵から500俵(35石~175石)の蔵米取が圧倒的であったと思われます。また地方知行に対し、切米取の地位が相対的に低かったことも分かりますが、大多数(約56%)の旗本が切米取であり、さらに御家人の殆どが切米・扶持米・現米を支給される、蔵米取でした。

 切米の知行高は、300俵取・500俵取というように、俵数をもって示されます。一俵は玄米三斗五升入(約63㍑、現在の標準米にして約50㎏)が標準ですので、300俵で105石、500俵で175石となります。
 切米の高は、1ヵ年の支給額です。初期にはこれを三期に分けて、三分の一ずつ支給されていましたが、享保(1723)八年より、春二月頃に四分の一(春借米(かしまい))、夏五月頃に四分の一(夏借米)、冬十月に二分の一(冬切米(ふゆきりまい)または大切米(おおきりまい))と分割支給される制度が定まりました。春・夏を借米(かしまい)と呼ぶのは、封禄米の先渡しという意味があったからだと云われています。

 蔵米は、米で支給するのを原則でしたが、実際には四分の一とか三分の一、時には半分から三分の二に及ぶ額が、予め現金にかえて支給されることがありました。支給日が近づくと、江戸城内の中ノロというところに、米と金の支給割合と、金渡しの分の米相場を書いた紙が張り出されます。例えば、「三分一金渡し、三分二米渡し、百俵二付三八両」と出されると、150俵受取る予定の御家人ならば、50俵分を現金19両で、残りを米で支給されたのです。これを張り紙値段といい、単に御張紙とも云いました。

 張紙値段は、公定の米相場で、この決定に際しては江戸市中の米価が参照されましたが、逆にこのことによって、市中米価も影響を受けました。幕府としては蔵米の量や財政上の必要、米穀流通の問題や米相場の動き、そして幕臣たちの利益などまで勘案して決定する必要があったのです。ですからこの価格はきわめて政策的な米価で、必ずしも江戸の標準的な価格とはいえないものでした。その結果に直接利害を受けるのは切米取たちでした。

 扶持米は、何人扶持と数え、一人扶持が一日五合で、毎月支給されます。20人扶持だと一日一斗、一年350日として35石になります。そこで20人扶持は、地方取100石や蔵米取100俵と同じ実収とみなされていました。
 また小禄で少数ながら、現米何石何斗というように、現米そのもので年俸を示された蔵米取もいました。更にその下には、現金取の御家人もいました。「三(サン)ピン」というのは、年に金三両と一人扶持を給された、最下級の武家をあざけった言葉です。これほど下級でなくとも、奥方(おくがた)女中衆とか医師・茶坊主・絵師ら、あるいは御用達(ごようたし)町人の軽輩の中には、扶持米と現金などを組合せて支給された者もありました。

3.御米蔵と札差

   幕府の御米蔵は浅草にあり、隅田川の右岸、現在の東京都台東区蔵前(くらまえ)にあり、総坪数3万6650坪(約99㌶)の埋立て地に、北から一番堀より八番堀まで、舟入り堀がくしの歯状に並び、54棟270戸前(寛政年間)の蔵が、堀に沿って建ち並んでいました。
 浅草の米蔵は、元和六(1620)年の創設と伝えられていますが、江戸の幕府米蔵は当初、北の丸・代官町(だいかんちょう)・和田倉(わだくら)・矢ノ倉(やノくら)・雉子橋(きじばし)・鉄炮洲(てっぽうず)・竹橋(たけばし)・浜などにも置かれていました。元禄の頃、それらは竹橋・浜を除いて廃止され、かわって享保十九(1734)年に本所(ほんじょ)御蔵12棟88戸前(寛政年中に150戸前に増築)ができました。以後、幕府米蔵といえば、浅草を主とし、本所が従という関係にありました。

浅草御蔵と蔵前(『江戸切絵図』)

 ちなみに、本所御蔵は元竹木の倉庫だったところに建てられ、御竹蔵ともよばれていました。明治に入って一時陸軍被服廠(ひふくしょう)が置かれ、のち広大な公園予定地(約2万平方㍍)として空き地になっていましたが、関東大震災の時、ここに避難した東京市民3万8千人が猛火にまかれ犠牲となりました。現在の墨田区横網町(よこあみちょう)二~三丁目の一帯です。

 関東・東北をはじめ全国の幕府領から舟で運ばれた年貢米は、隅田川に沿ったこの二つの米蔵に収められました。浅草御蔵には常時40~50万石、本所御蔵には10~20万石が詰められていました。幕府の財政上の必要があるとき、江戸市中の米相場を調節しようとする時など、ここから米問屋に売却(払い米)されました。同様に、旗本・御家人たちの借米・切米、あるいは扶持米・役料米(やくりょうまい)なども、浅草御蔵から支給され、同じく米問屋の手を経て市中へと放出されて行きました。その量は、年々40~50万石、ときにはそれ以上にのぼったと推定されています。

 蔵米取は、支給日に受け取った米を、一部の飯料を差引いて、残りを米問屋に売却し、現金にかえます。多数の旗本・御家人の俸禄米が、数日の間に浅草の御蔵から江戸市中へと散って行きました。支給日の御蔵前は、武士たちのほかに、米問屋・米仲買人たち、車・船持ち・背負人足・馬持ちなど運送人も行きかい、大変な雑踏ぶりであったと思われます。

 蔵米取たちは、支給日の当日、自分の受領する米量や組番・氏名などが記された切米手形を、御蔵役所に提出して、順番を待たなくてはなりません。入口付近に大きなわら束の棒(藁苞(わらづと))が立ててあり、それに手形(札)を竹ぐしに挟んで差しておき、自分の番を待ちます。これが「差し札(さしふだ)」です。のちには、「玉落ち」というくじ引き同様の方法で、支給の順番をきめるように変りましたが、長いあいだ待たされることには変わりはありませんでした。蔵米取たちは支給の呼出しがあるまで、付近の水茶屋とか、何時も米を売り払っている顔見知りの米問屋の店先などで休んでいたのでです。

 札差という商売は、ここから起りました。蔵米取に代って、切米手形(札)を差し、俸禄米を受け取って、ついでに米問屋に売却するまでの、面倒な手間一切を請け負ったのが、その本来の業体です。従って、その前身は蔵前の米問屋であった者が多く、またのちに至るまで米問屋と最も関係深い業種でした。

 彼らは蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれ手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差引いて、現金を各屋敷に届けるのでした。
 この場合、客である蔵米取の武士たちを、札旦那(ふだだんな)と呼び、武士からは札差のことを、蔵宿(くらやど)とも呼んでいました。

4.財政の窮乏

   旗本・御家人たちの財政窮乏は、江戸初期から認められるところでしたが、開府してから100年あまりを経て、ことに元禄の繁栄を過ぎる頃には、都市生活者としての彼らの経済は、はなはだ心許ない状態に押し詰められて行きました。

 武家たちの収入は、父祖伝来の固定した家禄のみです。役職と地位が上がり、それに応じて知行が増えるような好運は偶然でしかありませんでした。享保改革のときに、能力はあるが家禄が低いため、それまで登用できなかつた者を抜擢する道を開き、役職に相当する俸禄の不足額を支給する、足高(あしだか)の制が設けられましたが、それはいわば役職給でしたから、在任期間に限られ、本俸に相当する家禄には関係がありません。

 一度拡大した生活水準を、任期をすぎて元にもどすことは至難の技に属します。また役職が上がれば上がるで、祝儀の付届けやら盆暮れの挨拶先が増え、調度から服飾にいたるまで、地位と役職にふさわしい品々を揃えておかねばなりません。それだけ出費が増大するのです。ましてや、昇進の機会もなかつた一般の武士たちにとっては、大都市江戸の消費性向が強くなればなるほど、実収に伴わない生活を強いられることになっていきました。そのため、家財や衣類・武具などを入質することもあったでしょうし、家中の細々とした内職が、収入を増やすのに役立ったかも知れません。しかし、旗本の正規な収入は、年貢だけでした。

 地方取の旗本の収入は、支配地からの年貢です。その財政が行き詰まると、年貢の増徴を図るか、年貢を担保に借金するしかありませんでした。その第一の形態は、農民から年貢を先納させることでした。通常の年貢米の納期は、11月から12月にかけてですが、これを次第に早め、ついには一年二年先の年貢を、貨幣で徴収するようになってしまいます。年貢の前借です。また、村や有力農民に御用金を課すこともありました。これは何か理由を付けた臨時の徴発でしたが、冥加金(みようがきん)や献上金と違って、一時的な強制借上げでした。安い利子で年賦とするなど、自分に都合のよい方法でこれを命じ、さらに中途で無利子や期間延長を一方的に押し付けることが多くありましたから、実質的には年貢増徴に近いように見えます。しかし、やはり武士の借金に変りはありません。

 生産力の比較的高い水田稲作地帯でも、収穫期は秋に一定していますし、農民が他に貨幣取得の有力な手段でも持っていない限り、支配者の年貢先納や御用金の命令に耐えられませんでした。ましてや畑作雑穀生産地帯のように、生産カ水準が低位の地方では耐えられません。旗本が困窮し、農氏もその負担に応じられないとなると、先納の要求を第三者に立替えてもらうしかありません。それには村が有力者に借金をして先納する場合と、旗本が江戸商人などから直接借りて、年貢を農民から商人に送付して決済する、といった方法でしたが、次第に後者の形態が多くなり、ほぼ十八世紀中ごろには、大半の旗本が年貢米担保の借金をするようになって行きました。

一方、蔵米取の旗本たちは蔵米を抵当にして、次第に金を借りるようになるのですが、蔵米の受領・売却の代理人である札差は、まことに都合のよい位置にいました。即ち、金に困った旗本は、自分の札差に、次回の支給米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をします。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と右の借金の元利を差引き、その残りを武家の屋敷に届けるのです。札差はこうした札旦那を持つことによつて、米問屋としての性格のほかに、金融業者としても次第にカを持つようになって行きました。


5.財政改革

 合戦による領地の拡大を前提としたこの時代の経済の仕組みは、平和が続く時代には通用しなくなりました。武士たちの財政の悪化は、蔵米取たちだけでなく、地方取たち、さらには諸大名やその家臣たちも同様でした。

 幕府は、享保・寛政・天保の三大改革を行なっています。また、諸大名の藩政改革や十八世紀以降の旗本領はどこでも軒並みに改革がおこなわれました。これらの全ては財政の建直しを共通の狙いとしています。

 財政の建直しは、通常、累積した借財の処分を次のようにしています。領地・農民からの借入金は無利子・永年賦を申し付け、商人たちからの分は有カな金主一人に絞って、彼に全借財を集中するという方法でした。その金主は、毎月一定額の生活費を旗本に融通する一方、年貢や領地の産物の専売権を掌中に収め、借財を少しずつ差引いて行きます。一時的にせよ、武士たちは多数の高利貸と一応手を切ることができましたが、根本的な改革でなかったことは良く知られている通りです。

6.ある事例

 明和年間(1764~71)江戸の町人たちは、「百俵六人、泣き暮らし・・・」という文句の唄を流行らせて、小身旗本の暮らし向きを揶揄しています。
 いくら立派な屋敷を宛われ、「殿様」とか「奥方様」とか呼ばれたって、一年百俵ぽっちの俸禄では、家族が六人もいたら泣き泣き暮らしているだろう、という意味なのです。表向きは微禄でも、沢山の付け届けがくる役職に就いていて、実際は、贅沢に暮らしている幕臣(町奉行の与力、同心など)は多少いましたが、おおかたは唄の通りでした。
 旗本という士格である以上は、用人を一人と、下男、下女を一人ずつくらいは雇っていないと格好がつきません。夫婦と子供が二人いたとすれば、計7人が食べるお米の量は年間30俵は必要でした。そして残りの70俵を現金に換えても30両を越えることはありませんでした。 
 奉公人の給金は、最低の相場でも用人三両二分、下男下女二両ずつですから合計七両二分、盆暮れには御仕着(おしきせ)を一着ずつ与えるのが習慣でしたから、かれこれ十両近くの人件費が必要でした。
 加えて、これも習慣となっていた上役へ贈る付け届け、役方一統および親類との付き合いに必要な祝儀、不祝儀の出費が10両では賄いきれるかです。そして、日常の味噌、醤油、青物、炭、薪、油(行灯油)代などが五両では足りません。また、月に二度は魚を膳に出さないと奉公人は居着きませんし、大事な子供たちも丈夫に育ちません。とすれば、お殿様は役所の同僚と帰りに一杯などはできなかったかも知れません。

 九尺二間の裏長屋という、極度に狭く惨めな住まいに暮らし、上記の戯れ唄を唱っていた「下々の町人」たちは、食事の点では旗本・御家人より美味しいものを食べていました。
 普通の腕を持っていれば大工や左官の日当(工料と飯料の合計)は、五百文が相場でした。一年に300日働けば(当時の人達はよく働いています)、30両(銭相場を1両=5000文として)の稼ぎになります。裏長屋の家賃は月に五百文前後、無論下男下女などは雇いませんし、衣類や付き合いも武家のように銭金(ぜにかね)をかけないとすれば、町人たちの食費に回せる金額(可処分所得というのでしょうか)は、多かったと言えるからです。

7.あとがき

   

 江戸時代は武士を支配階級とする、いわゆる「士農工商」に身分は固定されていたと思われていますが、意外とそうではないこともあるようでした。
 例えば、幕末から明治初期に活躍した勝海舟(1823~99)の曾祖父は、越後小千谷出身の盲人でしたが、利殖の才にたけていて、江戸で成功し、盲人最高位の検校(けんぎょう)の位と千石の旗本男谷(おだに)家の株を買い取って、息子をその当主としました。その息子は更に御家人株を買い、自分の三男をそこの養子に入れています。この三男が海舟の父小吉(こきち)であることは、ご存知の通りです。

 既に述べたように、江戸中期以降の大多数の幕臣の財政は、火の車でした。にもかかわらず、旗本・御家人株を買い取って息子をその地位につけるべく努力する、今となればその心境を推し量ることは困難ですが、江戸幕府体制下の武士の位置づけが分かるような気もしてきます。
 そして、江戸の町人たちは、たいてい旗本贔屓だったと云われています。それは、「公方(くぼう)様の直臣だから」と云うことばかりでなく、大部分の旗本たちは行儀が良かったというのが、その理由です。この場合の「行儀」は礼儀だけを意味するのではなく、様々な点で貴公子風な上品さを備えていたと云うことを含んでいます。

 そして今日、礼儀という言葉も、行儀という言葉も日常生活の中で聞くことほとんどありません。

   

 話は変わります。
『ケータイを持ったサル』「人間らしさ」の崩壊(正高信男著 中公新書 2003年9月25日 初版発行)という本があります。
 この本の「帯」には、<<日本人は退化している!? 大人になれない若者たち--- 子離れできない親たち--->>とあります。
 この調子ですと、数百年後には、進化論で言う「先祖帰り」という現象は、実証されるのかも知れません。 


 

 話は妙な方向に進みだしました。今回はこの辺りで失礼を!!!

 次回は、窮状に追い込まれた幕臣救済のための、「暴令」についてのお話とさせていただきます。


参考図書

 徳川三代  旗本八万騎------将軍直轄の軍団 二木  謙監修
村上 直
NHK出版
 江戸の札差 北原  進 吉川弘文館
 旗本の経済学 小松 重男 新潮選書