主題;「明治の改暦」について

 

今回は、本誌第65号の「暦」にまつわる事柄の続きです。即ち、我が国の暦が太陽太陰暦から太陽暦に変わった時点のお話です。

 
 

 明治五年十一月九日(太陽暦十二月九日)午前十時から宮中において改暦式が行なわれました。この日、参議以下諸省の長官、式部寮、宮内省の役人が参席し、大臣を従えて明治天皇が便殿(びんでん)に出御され、伊勢神宮を遥拝して、親(みずか)ら祝詞(のりと)を読んで事の由を告げられました。
 次に賢所(かしこどころ)と皇霊殿を拝して、ほぽ同文の祝詞を告げ、諸官は拝礼して退出、次に太政官正院に出御して、改暦の詔書を大臣に賜りました。大臣拝見して参議に伝え、以下列席者が拝見して参議に返納して、天皇は入御されました。

 この改暦の詔書は、当日付をもって「達」第三百二十七号として太政官から公布されました。

改暦詔書の写し
 

 この改暦の詔書の内容は、『わが国でこれまで行用されてきた暦法は太陰(月)の朔望(みちかけ)によって暦月を立て、太陽の運行に合わせていたから、二、三年に一度閨月を置く必要があり、閨月の前後には季候の上で速い遅いがあり、その結果誤差を生じるに至ったのである。殊に暦の中段や下段に掲載されている記事は大部分が根も葉もなのい嘘偽(うそいつわ)りで、人智の発展を妨げることが少なくない。さて、太陽暦は太陽の運行に従って月日を立てているので、年によって多少相違することはあるが、季候に遅れたり進んだりはしない。四年ごとに一日の閨を置くだけで、七千年後に僅か一日の誤差を生じるだけである。これをこれまでの太陰暦に比べれば、はるかに精密であり、その便利か不便については今さら議論する必要もない。依ってこれから旧暦を廃止して太陽暦を行用し、永久にこれを守るように。百官有司は、この旨に従へ』、と述ぺられています。

 詔書としては、例を見ない懇切丁寧な表現です。これは暦法の根本的改正という、国民に影響することの極めて大きい事柄を反映したものでした。

 

この太政官の「達」には、詔書に続いて改暦の具体的な指示が箇条書されています。

一、  今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候二付、来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
 但(ただし)新暦鏤板(ろうばん)出来次第頒布候事
一、  一箇年三百六十五日、十二箇月二分チ、四年毎二一日ノ閏ヲ置候事
一、  時刻ノ儀、是迄昼夜長短二随ヒ十二時二相分チ候処、今後改テ時辰儀(じしんぎ)時刻昼夜平分二十四時二定メ、子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時二分チ、午前幾時ト称シ、午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時二分チ、午後幾時卜称候事
一、  時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右時刻二可改事
 但是迄時辰儀時刻ヲ何字卜唱来候処、以後何時卜可称事
一、  諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日二相当シ施行可致事
 
 

この後に、太陽暦の平年、閨年の総日数と毎月の大小と日数、および明治六年における新旧暦日の対照を示し、さらに新しい時刻と従来の時刻との対照表を掲げています。

 太陽暦  一年三百六十五日 閏年三百六十六日 四年毎ニ置之
 一 月 大  三十一日 其一日  即旧暦壬申  十二月三日
 二 月 小  二十八日
閏年二十九日
其一日   同  癸酉  正月四日
 三 月 大  三十一日 其一日   同  二月三日
 四 月 小  三十日 其一日   同  三月五日
 五 月 大  三十一日 其一日   同  四月五日
 六 月 小  三十日 其一日   同  五月七日
 七 月 大  三十一日 其一日   同  六月七日
 八 月 大  三十一日 其一日   同  閏六月九日
 九 月 小  三十日 其一日   同  七月十日
 十 月 大  三十一日 其一日   同  八月十日
 十一月 小  三十日 其一日   同  九月十二日
 十二月 大  三十一日 其一日   同  十月十二日
大小毎年替ル事ナシ

時刻表
午前 零時
即午後十二時
子刻 一時 子半刻 二時 丑刻 三時 丑半刻
四時 寅刻 五時 寅半刻 六時 卯刻 七時 卯半刻
八時 辰刻 九時 辰半刻 十時 巳刻 十一時 巳半刻
十二時 午刻
午後 一時 午半刻 二時 未刻 三時 未半刻 四時 申刻
五時 申半刻 六時 酉刻 七時 酉半刻 八時 戌刻
九時 戌半刻 十時 亥刻 十一時 亥半刻 十二時 子刻
右之通被定候事
 

 上記の実施綱目は、まず十二月三日をもって、明治六年一月一日とすることが示されています。明治五年十一月一日は太陽暦十二月一日に当たっており、ちょうど一か月ずれていました。ただし、十一月は小の月でしたから、旧暦十二月一日が太陽暦の十二月三十日、旧暦十二月二日が太陽暦十二月三十一日となり、新年から太陽暦を実施するためには、旧暦十二月は二日で打ち切って、翌三日を明治六年一月一日とすることになります。

 
 

ここで明治五年十一月一日から明治六年正月一日までの太陽太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)の日付の対照表を書いてみますと、

太陽太陰暦(旧暦) 太陽暦(新暦)
明治五年 十一月 一日 1872年 12月 1日
九日 9日
二十九日 29日
十二月 一日 30日
二日 31日
三日 1873年 1月 1日
明治六年 正月 一日 29日
 
 

明治五年の終わりの23日を飛ばしてしまえば、明治六年は一月一日から始めることになります。数字の上ではスッキリしています。

 

1.ねらい

   維新を達成して成立した明治政府にとって、文明開化、即ち西欧化を実現させるためには、太陽暦への改暦は当然の帰着でした。

 西欧諸国やアメリカ合衆国では、すでに太陽暦(グレゴリオ暦)を採用していました。太陽暦は文明のシンボルでした。しかし、同じ太陽暦でもユリウス暦は時代遅れと思われていました。そのユリウス暦を固守しているロシアは、強大であっても後進国と目されていました。まして太陰太陽暦やイスラム暦を使用している国々は、列強の植民地もしくは半植民地となっていましたから、後進・未開ないしは野蛮と見なされていました。

 我が国にとっては、第二の中国とならないためにも、幕府が開国時に締結した不平等条約を改訂して独立国家の立場を確保したい、そのためには先ず、日本が近代国家であることを認めてもらう必要があり、文明開化の政策を推し進めなければならない、と考えていました。

 その様々な事業の一つが欧米諸国と同じ暦の採用、つまり太陽暦の採用であったのです。
   

2.もう一つの事情

   改暦をこの時期に行なったもう一つの事情は、政府の財政事情によるものであったと言われています。

 当時の政府財政は困窮の極にありました。国庫収入の大半が土地からのものであり、毎年ほぼ一定でした。しかし、文明開化を達成すべく革新的な諸施策を実施するための支出は止めどもなく増大していました。その様な状況の中、政府の意向を受け経費の節約に必至の努力をしていた大蔵大輔の井上馨(かおる)と大蔵省三等出仕の渋沢栄一は、明治六年五月政府財政は歳入不足一千万円、負債一億三千万円の破産的状況にあることを暴露して辞職してしまうと言った出来事が起きています。

 そして、差し迫ったこととしては明治六年には上述したように閏月があります。官吏の俸給は、幕府時代には年俸制度でしたから、閏年でも問題はありませんでしたが、維新後は月給制(明治四年に改正しています)となったために閏年では一ヶ月余分の出費が必要となっていたのです。ところがこれに対応する余力が全くありませんでした。

 当時の留守政府(所謂、岩倉遣米欧視察団=政府の主要な要人たちで構成されていましたため、国内に残された政府)の財政的責任者であった大隈重信候が、明治二十八年六月に立憲改進党報局より刊行された、『大隈伯昔日譚』の中に、
 「此閏月を除き以て財政の困難を済はん(すくわん)ためには、断然暦制を変更する外なし」の結論に至ったと述べられています。

 つまり、旧暦の明治五年十二月は二日で打ち切り、翌三日を新暦の明治六年一月一日としてしまえば、十二月分と翌年閏六月の給与を支払うことが必要なくなります。この様にすれば、給与のみでなくその他の経費も不必要になるわけですから、改暦は政府財政にとって大きな救いの神であったと言うことになります。
   

3.混乱

   改暦の発表は、事前の予告もなく突如行なわれました。発表から実施まで僅かに23日の余裕しかなかった上、一年の締めくくる十二月を二日で打ち切ってしまうという、はなはだ荒っぽい仕方でした。
 当然のことながら、太陽暦は全く経験していませんでしたから、多くの戸惑いがあったに違いありません。

 「足辺より鳥の起(たつ)如く急に太陽暦をとり用ゐ(い)」「政府において、毛唐人の国の太陽暦をおとり用ゐなされしは、とりもなおさず毛唐人に降参して、その属国になりし訳でござらう」《『開化問答』》とか、「此度太陰暦を止めて太陽暦となし、明治五年十二月二日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄に二十七日の相違にて世間これを怪む者多からん」《『改暦弁』》と評しています。

 しかし、この改暦によって最大の被害を被ったのは、頒暦業者でした。文部省天文局は、明治五年三月に、翌六年の頒暦原稿を業者に渡し、一万円の冥加金を納めさせていたのですから、この時点では改暦を全く考慮していなかったと思われます。そして、頒暦業者は天保暦による明治六年暦を印刷し、十月一日より発売していたのですから、その被害は次のようでした。
 大小本暦の印刷部数270万分に対し、残部は175万1千部、一枚摺略暦六通りの印刷枚数170万枚でその残りは102万枚、この被害金額は38,959円に達し、業者の中には借金で商売が立ち行かなくなったところもあったとのことです。その混乱振りは想像を絶するものがあったのでしょう。

 そして、被害を受けた分野に俳句の世界があります。この世界では季語が重要な位置を占めていますが、この区分がメチャメチャになってしまったのです。そこで、春を二、三、四月、夏を五、六、七月、秋を八、九、十月、冬を十一、十二月とし、新たに一月を新年として、一年を五季に分け直しました。
 これは先人の知恵ですが、春の季語に新年が含まれないのですから、何やら寂しい気がします。旧暦の四季感と太陽暦の季節感とがうまくマッチングしないのは、現在でも感じられるところです。
   

4.あとがき

   ここでは触れませんでしたが、上記の太政官の「達」には、詔書に続いて改暦の具体的な指示が箇条書されています。
 その中には、
 従来の季節の移り変わりと共に変化した時刻の「不定時制」を「定時制」にすること。
 時刻を表す文字を「字」から「時」に変更すること。
 今まで行なっていた諸々の祭典の日付を新暦のその日に移し替えて実行しること。
 があります。

 これらの①②は、現在では何の問題もなく受け入れられていますが、③については、未だに受け入れられていないところもあります。

 

 「明日から暦が替るよ」と言われた当時の人達(私の二代か三代前の祖父母も含みます)にとって、これがどんなことであるのは、即座には理解できなかったに違いありません。
 しかし、人々にとって一番腑に落ちないことが、朔日に「月」が見えるようになったことだと言います。
 当時の新聞に載った記事があります。

 昔からないものたとえに、遊女の誠、卵の四角と朔日の月だったが、太陽暦になってから朔日に月が出るようになり、遊女が誠を示すようになり、先日はある農家で鶏が四角い卵を産んだという。
  

 かなりの皮肉ですが、何時の時代にも皮肉屋はいるものです。

 それにしても、この改暦の乱暴さは現代の我々には想像もつきません。ことの大小はあっても被害を受けたのは暦屋さんだけでなく、あらゆる分野であったに違いありません。

 ところが、現代です。平成維新だと踏ん張り、なんとか変化の方向の兆しを掴みたいと、従来の規制をややゆるめた「特区」を設定し進めようとしたところ、「よってたかって」改革され何にもできない「特区」が設定されています。
 残念ながら、。平成維新は期待できないようです。
 そんな意味で「進取の気概に富む乱暴な政治家、出でよ」です。

今回は、この辺りで失礼を !!!!!!!!


参考図書

 明治改暦  時の文明開化 岡田 芳朗 大修館書店
 暦と日本人 内田 正男 雄山閣
 暦 入門  暦のすべて 渡辺 敏夫 雄山閣