主題;「暦」について

 

 本誌の第63号は、池端主幹による「感覚時間について」でした。

 人間は、「時」と「場」の関数の上に存在する社会的な動物であると言われますが、この「時」とのしがらみから、終生逃れることはできません。この「時」には、四季とか昼夜とか言った悠久の古から存在する自然的なものと、法律・規則・風俗と言った何がしら人為的に形成されたものとがあることが分ります。

 池端主幹の狙いは、人為的に決めている時間、そして、この結果としての年齢を、人が持つ本来の自然的な感覚による年齢を考えるために、あるパラメータを導入して論理的な数式で表したところに面目と面白みがあると思います。
 加齢と共に(平たく言えば、年を取るにつれて)、月日の経つのが早くなることを実感としている小生にとって、この記事は興味のあるものでした。 そして、現役会員諸兄のご意見などお聞かせいただければ「うれしいな」などと池端主幹と話しているところです。

 さて、今回は、池端主幹の記事に触発されて、「暦」として見ました。暦は時の流れを測り数える方法です。ですから、「暦」を考える際には「時」という概念も考えなければならないのですが、ここではこれを省いて話を進めさせて頂きます。


 

 わが国の暦は、ご存知の様に明治6年の改暦以前は「太陰太陽暦」でした。この「太陰太陽暦」がどの様なものであったかというお話です。
 先ずは暦の歴史です。

 

1.暦の歴史

 日本語の「こよみ」は日を数えるという意味です(日読(ひよみ)の「ひ」が「こ」に変化しました)。そして、長い時の流れを数える方法が暦です。これに対して漢字の「暦」は、日月星辰(にちげつせいしん)の運行を測算して歳時、時令などを日ごとに記した記録です。いずれにしても和漢とも時を数える方法が暦法です。
 それ故、暦法とは、一日を単位として月・年を用いて長い時の流れを区切って人の生活に合わせて時を測り、数える方法をいいます。

 地球上の万物は、地球の自転に起因する明暗とそれに伴う諸現象に左右されています。人類も地球上に現れた時から一日を単位とする生活が始まったものと思われます。そして、月の満ち欠けによる形相と明暗の変化が、人類には大きな関心を与えたことは容易に想像できます。更に人類は寒暖の繰り返しや、それに伴う草木の開花結実、鳥獣の生活状況の変化などにより、更に進んで太陽高度の変化、それによって生じる日陰の長短、昼夜の長さの周期的な変化、あるいは星辰の出没、季節によって夜空に見える星の違いなど、いろいろな天文現象に気付き、月の満ち欠けより長い時の区切りがあることを知ったに違いありません。

 この様なことから、最初に発生した暦法は、月の満ち欠けによって日を数え、これを12回繰り返すとほぼ季節も元に戻る太陰暦法でした。月の満ち欠けに関係のない太陽暦法も1ヶ月の日数が30日前後であることは、暦の初めは月によって日を数えた名残と考えられます。
 天文学では月の満ち欠けの周期を朔望月(さくぼうげつ)といい、季節が循環する周期を太陽年(回帰年)と言います。暦法は、人類にとって必要な朔望月と太陽年を如何に調節するかでした。

 朔望月は、29.53059日、太陽年は、365.24220日(いずれも1900年初頭の値)です。この数値が一日の整数倍でないため、端数をどの様に取扱って、月の満ち欠けにも、季節の狂いも起こらないようにするかということでした。
そして人類は、閏月、閏日という考えに気付き、これを太陽年に入れて月の満ち欠けと季節の狂いを調整することを発見しました。その結果、暦法として太陰暦、太陰太陽暦、そして現在、世界の多くの国が採用している太陽暦などに辿り着いたのです。

2.太陰太陽暦

 朔望月と太陽年の端数を調整するためには、
29.53059i=365.24220j を満足する整数のi、jを求めることが必要です。
 これを書き直すと、i/j=12.36827となります。
 即ち、1太陽年は、12朔望月ごとに0.36827の端数が出ます。この端数をなくすために閏月を挿入すればよいことになります。この端数に近似する分数をあげると、
1/3=0.33333
3/8=0.375
4/11=0.36364
7/19=0.36842
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 1/3は、3太陽年に一回の閏月を入れることで、1太陽年の平均日数は364.21日となり、調整不十分です。

 3/8は、8太陽年に三回の閏月を挿入するのもで、8太陽年は、8×365.24220=2921.9376日であり、12ヶ月の5太陰年に13ヶ月の閏年3回を含む(12×5+13×3)=99朔望月の日数は、99×29.53059=2923.52841日となり、1.59日のずれが生じますので、これも調整不十分です。

 7/19は、19太陽年に七回の閏月を入れることで、19年7閏法と言います。紀元前433年ギリシャの天文学者メトンが発見したもので、メトン法と言い、中国ではこれを章法と言います。
 19太陽年は、19×365.24220=6939.6018日であり、12ヶ月の12太陰年に13ヶ月の閏年7回を含む(12×12+13×7)=235朔望月の日数は、235×29.53059=6939.6884日となり、ほぼ等しくなります。
 19年の4倍の76年を周期とするカリポス法は、紀元前334年ギリシャのカリポスによって発見されています。76年の総日数を27759日とし、1太陽年を365.25日とするもので、中国ではこの暦法を四分法といいます。

 太陰太陽暦は、その置閏法により多種多様なものが出来ます。主なものとしては、ユダヤ暦、ギリシャ暦、バビロニア暦、インド暦、中国暦などがあります。
 わが国の暦法は、古代から中国暦法を移入した、この太陰太陽暦でした。

3.日本の暦法

 古代日本の暦法は、本居宣長が『真暦考』で述べている「天地おのづからの暦」、言い換えれば自然現象に従う自然暦であったという考えが一般的のようです。
わが国の暦は、中国から百済を経由して伝来したといわれています。『日本書紀』によれば、欽明天皇14(553)年6月、百済の暦博士が来朝したのが初めてだと考えられています。その後、様々な経緯がありましたが、貞観元(859)年『長慶宣明暦経』が渤海から貢献されて、貞観三(861)年、真野麻呂の申請で『宣明暦』を行なうようになりました。

 この暦(宣明暦)は、その後、823年の間使われていました。そして、この暦の不備が目立つようになりました。例えば、17世紀末では、日月食が暦に記載されていながら実際には不食であったり、またその逆のこともあったりしたのです。

 この不備を追求した学者の中に江戸時代の渋川春海(1639~1715)がいました。春海は自らも天体を観測して、中国・元の『授時(じゅじ)暦』にならって新暦『大和暦』作成し、改暦を上奏して入れられ、貞享元(1684)年10月29日『貞享暦』と名を賜り、翌年から施行されました。ここで初めて日本人による土地・風土に適した暦が作られたことになります。この暦法そのものは太陰太陽暦でした。

 春海は改暦の功により幕府の天文職に任ぜられ、これより作暦の権は暦博士の手から幕府天文方の手に移りました。
以来、若干の修正を加えながらこの暦は、明治6年の改暦まで使い続けられてきたのです。
 この間の改暦を年表風に書いてみると、
宝暦5 
(1755)年;
「宝暦甲戌(こうじゅつ)元暦」
貞享暦法に用いた数をわずかに修正したもの。
明和8 
(1771)年;
「修正宝暦甲戌元暦」
上記の暦を修正したもの。
寛政10
(1798)年;
「寛政戊午(ぼご)元暦」
この暦は、中国から舶来した「暦象考成後編」を通じて間接的に西洋天文学を取り入れたもので、日、月の運行についてはケプラーの楕円軌道説を導入している。
天保15
(1844)年;
(弘化元年)
「天保壬寅(じんいん)元暦」
日本における最後の優れた太陰太陽暦法と言われるもの。
なお、この暦は太陽暦が採用された後、旧暦の推算に引続き使用されて今日に至っています。
 明治 5(1872)年11月9日、改暦勅書が発せられ、太陽暦を採用、同年12月3日をもって明治6年1月1日としました。

 何の前触れもなく、突如としてこの年の12月がなくなってしまったのです。この改暦の凄まじさは、現代の我が国では考えられないような乱暴さ(?)です。この辺りの事柄につきましては、回を改めてお話しさせていただきます。

4.あとがき

 改暦によって採用された暦は、グレゴリオ暦の太陽暦です。そして今年は4年に一度の閏年です。この太陽暦を新暦といい、改暦以前の「天保暦」を旧暦と称しています。

 ところで、今日2月20日は、旧暦でいえば2月1日です。そして、今年の暦では、2月に閏月が置かれています。季節にまつわる行事を今年の暦で調べてみますと、3月3日の雛祭りは、4月21日(新暦、以下同じ)。端午の節供は6月22日。七夕様は8月22日。そして8月15日の中秋の名月は、9月28日となって、節供と季節の感じが正にぴったりとする年なのだろうと思います。

 旧暦は、1200年以上に亘って、我々日本人の背活に馴染んだものでした。現在でもこの旧暦に従った風習が多く残っていることは、ご存知の通りです。
 しかし、旧暦では年毎の月の大小は変わるので、商家などでは店頭に大小の文字を刻んだ告知板を掲げ間違いのない様に注意していました。こんなものを必要とした理由は、当時の決算は盆暮れか、毎月晦日でしたので、小の月を大の月と間違えれば「朔日早々集金に来るなんて縁起でもない」と塩などを撒かれてしまうことにならない様にするためだったのです。

 また、武士にとっても衣替えが一日でも遅れれば世間の失笑を買い、無礼な奴だと信頼を失うことにもなったのです。

 

 こんなことからすれば、現代は易しいものです。
西向く士(サムライ)(二、四、六、九、十一月)」、さえ覚えておけば良いのですから。

今回は、この辺りで失礼を !!!!!!!!

参考図書

 日本の暦 岡田 芳朗 新人物往来社
 旧暦はくらしの羅針盤 小林 弦彦 NHK出版
 日本の暦と歳時記  別冊歴史読本   新人物往来社
 日本 大百科全書   小学館