主題;「由良之助、待ちかねたァ」について
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12月です。年末(くれ)と言えば『忠臣蔵』です。 そこで今回は、これに纏わる話題を申し上げます。 |
「遅かりし由良之助」、という言葉があります(今では余り使われていないかも知れませんが)。 この言葉は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」からきたものです。主人公の国家老・大星由良之助(大石内蔵助)の到着を待ちかねて、塩谷判官(えんやはんがん)が切腹します。その直後に由良之助が駆けつけるのですが、判官は由良之助に向かって、息も絶え絶えに「やれ由良之助、待ちかねたわい」と無念の思いを伝えるのです。 この場面の台本には、この言葉(=遅かりし由良之助)はないのですが、この場面に酔いしれた観客が、この様な言葉を作り出して、広まったと言われています。 いずれにしてもこの言葉は、由良之助は「切腹に間に合わなかった」ことから、「もうちょっとのところで、間に合わなかった」という意味で、また、「待ち構えていたところに、相手がやっと到着した」という時にも、この言葉が用いられるようになっています。 |
話は変わります。この仮名手本忠臣蔵の台本の「やれ由良之助、待ちかねたわい」を『さげ』にした人情落語があります。いささか長いのですが、五代目古今亭志ん生の速記本からこの演題を転記してみます。 |
淀五郎 (よどごろう) | |
えー、名人苦心談『淀五郎』といえう人情落語でございまして…………。 えー、市川団蔵(だんぞう)と役者(ひと)がおりました。団蔵というのは、代々名人がでておりますが、この団蔵は四代目の団蔵で、俗に”シブ団蔵”と言ったくらい、芸が渋くってそりゃァうまい。江戸三座の一つ、森田座の座頭(ざがしら)でありまして、実に日の出の勢いで、この人のいうこたァ何でも通った。 歳末(くれ)のことで、『忠臣蔵』を出して、客を呼ぼうとして、準備もすっかり出来た時分になって、 |
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頭取 | 「親方ァ」 |
団蔵 | 「何だ?」 |
頭取 | 「えー、判官を演(や)る役者が、病気になってしまいまして、代わりがないんでありますが、親方の向こうにまわる判官ですから、どうも困ってしまったんですがねえ」 |
団蔵 | 「おれは師直(もろのう)に由良之助の二タ役を演るンだ。ちょいと、香盤(こうばん)を見せてくンねえ」 |
香盤というのは、えー、役者の名前がズーツと、上(かみ)から、えー下に至るまで書いてあるもので、その香盤を見ておりました団蔵、 | |
団蔵 | 「おー、これに演らしたらどうだい? こいつなら出来るだろうから、演らしてみろ」 |
頭取 | 「へえッ~」 |
と見ると、紀伊国屋(きのくにや)という芝居茶屋の伜で、沢村淀五郎というのがいる。まだ若くって、相中(あいちゅう)といって下の方にいる地位の者。天下の団蔵の向こうにまわって、判官を演るという格じゃァない。 | |
頭取 | 「よろしいンでございますか?」 |
団蔵 | 「あァ、演らしてみてくれ。えー、若い者(もん)だっておめえ、演りようによっちゃ出来やしねえかなァ、いいよ、演らしてみろ」 |
鶴のひと声で、頭取はいやとはいえないので、この淀五郎に判官の役をさせることになって、当人にこの話をする。 とにかく名題(なだい)にしなくっちゃこの役はさせらられない。だから、 |
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頭取 | 「おまえさんを名題にするから、一生懸命に判官を演りなさいよ。三河屋の親方のおかげだよ」 |
えー、団蔵の屋号を三河屋と申します。 われわれ落語家(はなしか)でいってみりゃ、きのうまで前座に毛の生えた奴が、いきなり真打になるってンだから、こりゃァ当人よろこんで、印物(しるしもの)をこしらえて、お客ンとこを回って、初日の近づくのを待っている。 |
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着到(ちやくとう=太鼓のこと)もろとも楽屋入りをしておりますと、大序(だいじょ)、二段目、三段目……と無事に済んで参りまして、「四段目」の判官腹切りという場面になった。 | |
そこは、出物止(でものど)めといって、そのときには人を動(いご)かさなかった。 「え、若い衆(しゅ)さん、ちょいとアレ持って来てくンないか」。てえと、「いまここは、出物止めでございます」。そういうくらいの、この見せ物であります。 その「四段目」の、えー、判官でございます。誰が演っても型ァおンなしで、力弥が、三方(さんぽう)の上に九寸五分(くすんごぶ)をのせて出て参ります。そうして、こう下手(しもて)へ退(さ)がる。 から二(義太夫の二の糸)が、ヒォーン、ヒォーンと入って、場内は水を打ったよう。 |
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判官 | 「力弥、由良之助は……」 |
力弥 | 「いまだ、参上つかまつりませぬ」 |
それから、上(かみ)をはね(右、左と裃(かみしも)の襟をはずして)、すっかり支度をして、三方の上の九寸五分を、半紙にくるっと巻いて右手(めて)に持ち、膝だめしもすんで、 | |
判官 | 「力弥 力弥、由良之助は……」 |
力弥 | 「いまだ参上ォ……つかまつりませぬゥ」 |
判官 | 「存生(ぞんしょう)に対面せで、無念だと申し伝えよ。いざ、ご両所、お見届けくだされ」 |
こうなると、お客の方も、かかわり合いみたいになっちゃう。 | |
客 | 「え、なンしてるんだい、由良之助てえなァ。判官、腹ァ切っちゃうじゃねえか、グズグズしてやがンなァ。 えー、どこをのそのそしてやがンでえ。どっかで、焼酎かなんか飲んでやがンじゃねえか」 |
ぶつッと、左の脇腹へ突っ込むのがきっかげで、団蔵の、由良之助の出ンになります。 花道から由良之助が……七三のところで、こうピタッと平伏する。 |
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由良之助 | 「大星由良之助義金(よしかね)、ただいま到着ゥ、つかまつってござりまする」 |
石堂右馬之丞(いしどううまのじよう)が立ち上がって、 | |
石堂 | 「おー、城代(じようだい)家老大星由良之助とは、その方か。苦しうない、近う進め、近う近う近うッ」 |
由良之助 | 「ははッ、ははッ、ははァ……ッ。 (平伏しながら団蔵にかえって) 何だいありゃァ、まずい判官だなァ。こンなじゃないと思ったがねえ………。たいがいのことは、我慢しようと思うが、この判官はひどいや、こりゃァ、こりゃマズ判官だ。こんなところへ、おれが行って、御前だの、殿様だなんて、バカバカしくって言えるもンか。ここでたくさんだ。え、行かなくってもいいや。ここで演ってやれ。 (由良之助になって) 御前!」 |
ひどい奴があるもンで、花道へ坐ったきり動かない。石堂が | |
石堂 | 「近う、近うツ」 |
たって動きゃしない。 | |
判官 | 「おー、由良之助かァ……。 (淀五郎にかえって) いねえじゃねえか。あれッ、何だ七三にいる……。あッ、そうだ。おれの判官が気に入らねえンだ。あー、大変たことになっちゃった……。 (判官で) 待ちかねたア……ッ」 |
由良之助 | 「殿には、ご存生の態(てい)を拝し、由良之助身にとり、いかがぱかりか……」 |
判官 | 「委細のことは、きいたであろう……」 |
由良之助 | 「承知つかまつってござりまする」 |
判官 | 「この九寸五分……そちらへの形見にィ……わが欝憤(うつぷん)をッ……」 |
由良之助 | 「(ごく事務的に) 承知つかまつりました」 |
呉服店の番頭さんが、注文でも取りに来たようで、承知つかまつりましたというだけで、いっこうに傍へ来ねえ。仕方がないから、腹ァ切っちゃって、幕がしまる。 | |
淀五郎 | 「どうも、お疲れさまでございました」 |
団蔵 | 「おう、どうしたい?」 |
淀五郎 | 「ヘッ、さだめしお演りにくいことで、ございましたでしょう」 |
団蔵 | 「あァ、演りいいたァ、いえないなァ」 |
淀五郎 | 「ちょっと伺いたいんでございますげれど、こないだの稽古ンときは、由良之助が判官の傍(そば)へ参りましたが、こンちは七三のところで、由良之助がああやっておりますが、あらァ、どういう型なんでございましよう?」 |
団蔵 | 「型じゃないよ。ありゃア判官の傍へ行くのが当たり前なんだよ。えッ、だげども、行かれねえから行かねえンだ。なァ、こっちは行きたいげど、行かれねえンだよォ。 なァ、よォくものを考えなくちゃいけないぜ。え、由良之助はどこから来るんだよ。播州赤穂から、早駕籠で飛ばしてくるンだァな、えッ、そうだろう。玄関の敷台へ片足ィかけて、 ”殿はッ?” と、きくと、 ”いま、お腹を召したところでございます” ということを聞いて、忠義無類の武士(さむらい)だから、前後をわきまえず駈けつけてゆくのが、あの七三のところだ。なァ、あすこへ入ってみるてえと、石堂右馬之丞という検視の役人がいる。城代家老たるものが、かような風(ふう)をしているというのは、実に見苦しいし、また無礼なことであると思ったンで、思わず知らずあそこンとこへ、手をつくんだ。なァ、石堂右馬之丞というのは、情けのある武士だから、 ”由良之助とはそのほうか。許すぞ、苦しうない、近う近う近うッ” といわれるから嬉しいじゃねえか。 ”はァーッ” てンで、主人の傍へ行って遺言をきき、またいろンな別れも惜しみたい……と思って、ひょいと見ると、あんな腹の切り方ァしてるンだ。行かれねえじゃねえか。えッ、おい、そうじゃねえか」 |
淀五郎 | 「へえッ……。すると、どんな具合に、腹を切ったら、よろしゅうございましょうか」 |
団蔵 | 「どんな具合もこうもないや。本当に、切るんだいッ」 |
淀五郎 | 「え? 本当に? 本当に切りゃ死にますよ」 |
団蔵 | 「二、三度、死ななきゃダメだよ、おめえなンぞ」 |
淀五郎 | 「あッ」 |
返す言葉がなく、その晩帰ってから、いろいろ自分で工夫をして二目目。着到もろとも楽屋入りをして、大序から、二段目、三段目……四段目となってくるてえと、また七三で動かねえ。 こンだァ聞きに行くこたァ出来ないから、幕がしまって、顔ォ落とすてえと、裏木戸から表へ出た。 |
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淀五郎 | 「あー、よしゃよかったんだ。名題にならなきゃ、こんな思いしなくってすんだんだ。え、毎日毎目、七三でもって、由良之助が動かなかった日にゃァ、淀五郎の判官が気に入らねえから、動かねえンだてえなァ、お客さまにまでわかっちゃう。弱っちゃったなァ……。 どうして切ったらいいったら、三河屋のじじぃ、本当に切れツてやがらァ。えー、辞(や)めちゃおかしら、辞めて旅回りになっちゃおかしら。でも、宮地(みやち)イ落ちるなァいやだなァ……。 こんな恥をかくくれえなら、団蔵が切れッてンだから、あした本当に切ってみてやろうかなァ。本当に切りゃァ気に入るだろう。でも、本当に腹ァ切って、死んじまった日にゃつまらない…。 いや、由良之助が出て来やがったら、由良之助ェ突っ殺して、おらも腹切っちゃおう。相手が三河屋だァ、命を取っかえたって、惜しかァねえや。よしッ、死んじまおう」 |
と、こんな了簡を出してきた。人てえもなァ、こんなことを思うときが、あるもンですな。 方々を暇乞(いとまご)いをして歩いて、いよいよ明日ァ団蔵を殺して、自分も腹を切ろうと思う。 遅くなって、自分の家ィ帰ろうとする。中村座のわきを通るてえと、ダダダンダーン ダラーン ダラーン……という、打ち出しの太鼓の音(ね)に、ひょいと気がついたのは、そのころ中村座の座頭をしているのが、中村仲蔵という、屋号を舞鶴家(まいづるや)といったお方ですが、この人ァ 腹切りの名人で、三役、腹を切りわけたという名人であります。 |
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淀五郎 | 「あー、舞鶴屋の親方に世話ンなってるから、暇乞いをしてゆこう」 |
勝手口のほうから、 | |
淀五郎 | 「こんぱんはァ」 |
仲蔵の女房 | 「はい、どたたァ~あ、まァ、紀国屋の親方?そこはいけませんよ、こっちからお入んなさい」 |
昨日まで、「あら、淀さんかい。淀五郎さんかい」といっていた人が、名題になると「紀国屋の親方」と、呼ばれるようになる。 われわれの落語家(しょうばい)がそうでな、楽屋で、「ナニさん」とか「アニさん」と呼ぱれていたのが、真打という看板をあげると、「師匠」と呼ぱれるようになる。実にこの、師匠と呼ぱれるてえものはうれしいもンで、演者(あたし)なンぞたまに、「師匠」と呼ぱれることがある。 「おう、師匠ォ」 「へえ」 「下駄ァとってくれ」 なンてえなァ、あんまりいい師匠じゃァねえ。 |
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仲蔵 | 「なンだい、おう、淀さん来たンかい。こっちィ来な、こっちィ来な。遠慮せんで、こっちィお入りよ」 |
淀五郎 | 「へえ、どうも、ご無沙汰を………」 |
仲蔵 | 「やァ、あー、おめでとう。こんだァ、名題になったんだってなァ。こたいだ印物をもらったが、すまねえな。え、相変わらず評判もいいそうで、蔭ながらよろこんでンだ。え、何しろ三河屋のナンだからなァ……。あー、おれも忙しくって、いま帰って来たぱかりだ。まァ、ゆっくり遊んでゆきな」 |
淀五郎 | 「ヘッ……。えー、今晩はァ、実ァ、あしたは暇乞いに、上がったんでござンす……」 |
仲蔵 | 「暇乞いに? なンだい、どっか行くのかい?」 |
淀五郎 | 「へえ………」 |
仲蔵 | 「どこィ、行くんだ?」 |
淀五郎 | 「旅ィ行こうと思ってます………」 |
仲蔵 | 「旅? そりゃよした方がいいぜ。せっかくおめえ、名題になって、旅へなンぞ出ちやったら、第一、お客さんに忘れられちゃうし、芸ァくさくなるし……。えッ、少しくらい辛抱だァ、なァ、我慢してなよ。えー、で、いつ行こうてンだ?」 |
淀五郎 | 「あした、行こうと思ってるンです」 |
仲蔵 | 「あした行く? そりゃァおかしいじゃないか。こんだァ、判官というものがないんで、おまえさんが名題になって、判官をつとめて、今目が二日目……あしたァ三日目じやないか。三日目に、判官がいなくなっちゃって、どうすンだい、えーッ?」 |
淀五郎 | 「あたしも、行きたかァないんですがね………」 |
仲蔵 | 「行きたくなかったら、行かねえ方がいいぜ。えー、一体、どうしたンだい? (奥へ) おい、あの、表の酒屋へいって、酒そういつて、帰りに魚屋へ寄つて、なンかみつくろって来な。 あ一、淀さんと、一ぺえ飲むんだから……ちょいと用があるから、ここへ入(へえ)つて来ちゃァいけねえぜ。 (改まって) で、おめえ、おれに何か、かくしてンな、えー、小(ちい)せえ時分から、面倒見てンだ。こういうわけなンで……と、話したらいいじゃねえか?」 |
淀五郎 | 「へえ、ヘッ………。わたくしの判官が気に入らないンで、三河屋の親方の由良之助が、判官の傍へ来ないんですよ。初日も、今日の二日目も……まだ来ないンで、これじやァ、わたしは、のぺつ恥をかいてなくっちゃならないンで…」 |
仲蔵 | 「うーん……。聞いてみたらいいだろう。どういう風に演ったら、気に入るんでしよう……ってな」 |
淀五郎 | 「それが、本当に、切れッてンです…」 |
仲蔵 | 「ほう! 本当に切るんだよ、そりゃァ」 |
淀五郎 | 「本当に切るってもね、本当に切るくらいなら、自分が死んじゃっちゃァ合わないから、あした由良之助を突っ殺して、あたしも腹切っちゃおうと、思うんです…」 |
仲蔵 | 「そんな芝居はねえやな。えッ、おまいねえ、おい淀さん、おめえはまだ若えや。えー、引き出し違いしてやしねえかい? 三河屋が、こンだおまいを、名題にして判官てえ役ゥつけたんだ。えッ、おまいを……、ふン、そうだろ? 相手ァ三河屋だ。おまいの判官がうまかろうがまずかろうが、てめえはてめえで勝手に演ってやがれ、おれはおれの役ゥ演りゃァいい、他人(ひと)のことなンぞどうでもいいと思やァ、なんにも気にしねえで演っちまうんだ。 それを、おまいさんを判官にした以上は、どうにかしてやろう、早くうまくなってくれと思うから、演りにくい思いをして、七三で演っているんだ。 なァ、三河屋てえなァ、おまえさんにしてみりゃ、芸の神様みたいたいなえらァい人だ。その人を、仮りに殺すのなンのって、とんだおめえ、間違いだぜ、なァ、よォく考えなくっちゃいけねえぜ。 人間、テンから和尚になれるもんじやない。なんで、一生懸命ィ演らねえンだ、何事も我慢だ。えー、蝶々(ちょうちょ)はきれいだつて人はいうけれど、毛虫の時分には、人にきらわれている。蝶々ンなって、飛ぴ出して、 ”あー、きれいだなァ” ってえまで、我慢出来ねえのか。 え、我慢しなくっちゃいけねえぜ。 えェ、どういう腹の切り方ァしてンだい? そこで一つ、腹ァ切ってみな。おれが見てやるから……。あァ、三方か、ウン、その辺からでいい、演ってごらん。 うん、うん……(と煙草をつめて、ジッとみつめる)……ふゥん、なるほど……(と、煙草を喫いながら、相手のひざから腹の辺りに視線を落とす)……うゥーン……(と、頭をふり、吸いがらをポーンとはたき)……あァ、いいよ、わかったよ」 |
淀五郎 | 「どうでござンしょう?」 |
仲蔵 | 「まずいなァ」 |
淀五郎 | 「そうですか?」 |
仲蔵 | 「あー、それじゃァ、おれが由良之助でも行かねえや。あー、まずい判官だねえ」 |
淀五郎 | 「ヘッ? そうですか?」 |
仲蔵 | 「あー、まずいよ。まずいといってもな、芸のまずいのは我慢するよ。若い者(もん)に、そこはなかなかうまくいくわけァないからな、ウン。 おまいさんの判官は、実にいやなとこがある。気障(きざ)でいけねえよ。というなァ、おまいさんは名題になって、紀国屋とか何とか、お客にほめられようと思ってンだろう。え? あー、そうだろう? だから芸に欲が出ちゃって、大名になれない。淀五郎が腹ァ切るようになっちゃうんだ。 舞台へ出たら、もう淀五郎も名題もない。おれは五万三千石の大名だと、こういう気持ちだ。第一、自分は切腹ンなり、家は断絶する、家来たちには迷惑をかける。相手の師直(もろのう)はてえと、かすり傷はしたが何のお咎めもない。ああ残念だ、ああくやしいと思って腹ァ切るのと、てめえが客にほめられようと思って切るのは、こりゃ大変な違いだよ。なァ、芸人の欲なンて捨てちゃって、立派な大名が腹ァ切らなきゃいげないんだよ。 お客さんはよく知ってるから、よけりゃァほめてくれる。いくらほめられようと思ったって、演ることがまずけりゃ、客ァほめちゃくンないよ、な、そうだろう? あー、なア、おまいのを見てると、おまいさんのはね、手をこう下へついて、腹ァ切ってるが、ありゃァ大名の腹切りじゃねえ。それは、勘平の腹切りだ。勘平てなァ、狩人(かりうど)まで身ィ持ちくずすような男だから、おンなし侍たって行儀ァわるい。のたうちまわって、頬っぺたに血ィつけたりして、行儀わるく切る。 片方は、えェ、五万三千石の大名だよ、なァ。大名の腹切りは、膝へこう(左手を太もものまん中に置き、右手を左の脇腹へあてて)のせたまンまで、品位というものをくずしちゃァいけねえ。 それに、なァ、 ”由良之助かァ………" という声が、大きいじゃねえか。え、刃物が、腹へ入(へえ)ってンだよ。そこを考えなくちゃいけねえ。え、刃物で突かれたとき、切られたときは、寒気がするもンだ。 ”寒いッ” と思やァ、声にふるえが来る。寒い、寒い寒いッと思って、声を出してごらん、ウン、あー……。 そいからな、青黛(せえたい)を、こう(左手で左耳のうしろ側をさして)耳のうしろへでも、ちょいとつけておいて、由良之助の出ンなると、客がみんな、七ッ三のほうを向いちゃうから、そこを客にわかんないように、唇へちょいと塗ってごらん。白塗りで、唇の色がかわる。 欲を離れて腹ァ切りゃァ、判官になれるかもしれん。演ってごらん」 |
淀五郎 | 「(感きわまって) ヘヘッ、ありがとうございます……」 |
仲蔵 | 「いけなかったら、またおいで。え、短気を出しちゃいけないよ。まア、一ぱい飲んできな」 |
淀五郎 | 「へえッ、いえッ、そのッ……」 |
帰って、淀五郎が、その晩いろいろと工夫をして、あくる三日目、楽屋入りをする。舞鶴屋の親方に心配をかけたけれど、ことによるてえと、今日がこの舞台の踏み納めになるんじゃないかと、ひとりで考えている。 大序、二段目、三段目、四段目……いよいよ出ンなります、 七三へ、由良之助が手をつく。石堂になった役者も、毎日、「近う近う近うッ」たって、来ねえンだからしようがないけれども、役だからいわねえわけにはいかない。 |
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石堂 | 「おう、聞き及ぷ城代家老大星由良之助とはその方か、苦しうない、近う進め、近う近う近うッ」 |
由良之助 | 「ははッ、ははッ、はア……ッ。 (団蔵にかえって) おやッ、なンだい、今日の判官は? 不思議なこともあるもンだなァ……。どうしたんだろう、あの野郎ァ……。昨日と違って、ひと晩で……こんなによくなりゃァがった……。誰にきいたンかな……あ、そうか、舞鶴屋だな。それにしても、実によく出来た。よし、こいじゃァひとつ、傍へ行ってやらざァなるめえ……」 腹帯をぐいッと締め直し、かがみ腰になって、ツツツッツツツッ……と判官のわきィ、 御前ッ!」 |
判官 | 「おー、由良之助か?……。 (切腹の形のまま、淀五郎で) あれッ、今日は出ないのかい? 七三にもいねえじゃねえか……。いくらおれがまずいといったって、まるっきり出て来ねえてえたァひどいや。ちきしょう、楽屋ィ行ったら……。しかし、確かいま、近くで声がしたな……」 と、ひょいとわきを見ると、三日目ではじめて来ていた由良之助。こいっァうれしい。 |
「(切腹の形のままで) おー、由良之助かァ、うゥーン、待ちかねたァ……ッ」 |
速記録を文字にしたものを「目」だけで読むと読みにくいところもあります。しかし、声を出す感じで読むと、感じがつかめます。如何でしょうか。
この話は、別名を『四段目』とも『中村秀鶴(しゅうかく)』(仲蔵の俳名が秀鶴)とも言います。登場人物は少ないのですが、歌舞伎を知らないと表現が難しい大物です。円生、正蔵(のちの彦六、<<林家こぶ平が来年?正蔵を襲名すことになっています>>)も芸の年輪を経て十八番(おはこ)にしていたとのことです。 ところで、ダイソー(ご存知、百円ショップ)で売っているCDの中に、「日本の芸能シリーズ 落語名人19 古今亭志ん生」 というのがあります。この中にこの「淀五郎」が入っています。 いつ頃、演じたものか分りませんが、なかなか良いものです。 是非、お求め頂いて、お聞き下さい。そうして頂ければ、上の記事が更に活きてきます。 |
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今回は、長々と書いてしまいました。この辺で失礼を !!!!! |
参考図書
志ん生人情ばなし 志ん生文庫5 | 著者 古今亭志ん生 編者 小島 貞二 |
立風書房 |
この常識ことば、わかる | 日向 茂 | (株)中経出版 |