主題;「由良之助、待ちかねたァ」について

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                             2005/1/13

 
 12月です。年末(くれ)と言えば『忠臣蔵』です。
 そこで今回は、これに纏わる話題を申し上げます。
 「遅かりし由良之助」、という言葉があります(今では余り使われていないかも知れませんが)。
この言葉は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」からきたものです。主人公の国家老・大星由良之助(大石内蔵助)の到着を待ちかねて、塩谷判官(えんやはんがん)が切腹します。その直後に由良之助が駆けつけるのですが、判官は由良之助に向かって、息も絶え絶えに「やれ由良之助、待ちかねたわい」と無念の思いを伝えるのです。

この場面の台本には、この言葉(=遅かりし由良之助)はないのですが、この場面に酔いしれた観客が、この様な言葉を作り出して、広まったと言われています。

いずれにしてもこの言葉は、由良之助は「切腹に間に合わなかった」ことから、「もうちょっとのところで、間に合わなかった」という意味で、また、「待ち構えていたところに、相手がやっと到着した」という時にも、この言葉が用いられるようになっています。
 
 話は変わります。この仮名手本忠臣蔵の台本の「やれ由良之助、待ちかねたわい」を『さげ』にした人情落語があります。いささか長いのですが、五代目古今亭志ん生の速記本からこの演題を転記してみます。
 
淀五郎 (よどごろう)
 
 えー、名人苦心談『淀五郎』といえう人情落語でございまして…………。

 えー、市川団蔵(だんぞう)と役者(ひと)がおりました。団蔵というのは、代々名人がでておりますが、この団蔵は四代目の団蔵で、俗に”シブ団蔵”と言ったくらい、芸が渋くってそりゃァうまい。江戸三座の一つ、森田座の座頭(ざがしら)でありまして、実に日の出の勢いで、この人のいうこたァ何でも通った。

 歳末(くれ)のことで、『忠臣蔵』を出して、客を呼ぼうとして、準備もすっかり出来た時分になって、
頭取 「親方ァ」
団蔵 「何だ?」
頭取 「えー、判官を演(や)る役者が、病気になってしまいまして、代わりがないんでありますが、親方の向こうにまわる判官ですから、どうも困ってしまったんですがねえ」
団蔵 「おれは師直(もろのう)に由良之助の二タ役を演るンだ。ちょいと、香盤(こうばん)を見せてくンねえ」
 
 香盤というのは、えー、役者の名前がズーツと、上(かみ)から、えー下に至るまで書いてあるもので、その香盤を見ておりました団蔵、
 
団蔵 「おー、これに演らしたらどうだい? こいつなら出来るだろうから、演らしてみろ」
頭取 「へえッ~」
 
 と見ると、紀伊国屋(きのくにや)という芝居茶屋の伜で、沢村淀五郎というのがいる。まだ若くって、相中(あいちゅう)といって下の方にいる地位の者。天下の団蔵の向こうにまわって、判官を演るという格じゃァない。
 
頭取 「よろしいンでございますか?」
団蔵 「あァ、演らしてみてくれ。えー、若い者(もん)だっておめえ、演りようによっちゃ出来やしねえかなァ、いいよ、演らしてみろ」
 
 鶴のひと声で、頭取はいやとはいえないので、この淀五郎に判官の役をさせることになって、当人にこの話をする。
とにかく名題(なだい)にしなくっちゃこの役はさせらられない。だから、
 
頭取 「おまえさんを名題にするから、一生懸命に判官を演りなさいよ。三河屋の親方のおかげだよ」
 
 えー、団蔵の屋号を三河屋と申します。
われわれ落語家(はなしか)でいってみりゃ、きのうまで前座に毛の生えた奴が、いきなり真打になるってンだから、こりゃァ当人よろこんで、印物(しるしもの)をこしらえて、お客ンとこを回って、初日の近づくのを待っている。
 
 着到(ちやくとう=太鼓のこと)もろとも楽屋入りをしておりますと、大序(だいじょ)、二段目、三段目……と無事に済んで参りまして、「四段目」の判官腹切りという場面になった。
 
 そこは、出物止(でものど)めといって、そのときには人を動(いご)かさなかった。

「え、若い衆(しゅ)さん、ちょいとアレ持って来てくンないか」。てえと、「いまここは、出物止めでございます」。そういうくらいの、この見せ物であります。

その「四段目」の、えー、判官でございます。誰が演っても型ァおンなしで、力弥が、三方(さんぽう)の上に九寸五分(くすんごぶ)をのせて出て参ります。そうして、こう下手(しもて)へ退(さ)がる。
から二(義太夫の二の糸)が、ヒォーン、ヒォーンと入って、場内は水を打ったよう。
 
判官 「力弥、由良之助は……」
力弥 「いまだ、参上つかまつりませぬ」
 
 それから、上(かみ)をはね(右、左と裃(かみしも)の襟をはずして)、すっかり支度をして、三方の上の九寸五分を、半紙にくるっと巻いて右手(めて)に持ち、膝だめしもすんで、
 
判官 「力弥 力弥、由良之助は……」
力弥 「いまだ参上ォ……つかまつりませぬゥ」
判官 「存生(ぞんしょう)に対面せで、無念だと申し伝えよ。いざ、ご両所、お見届けくだされ」
 
 こうなると、お客の方も、かかわり合いみたいになっちゃう。
 
客  「え、なンしてるんだい、由良之助てえなァ。判官、腹ァ切っちゃうじゃねえか、グズグズしてやがンなァ。
えー、どこをのそのそしてやがンでえ。どっかで、焼酎かなんか飲んでやがンじゃねえか」
 
 ぶつッと、左の脇腹へ突っ込むのがきっかげで、団蔵の、由良之助の出ンになります。
花道から由良之助が……七三のところで、こうピタッと平伏する。
 
由良之助 「大星由良之助義金(よしかね)、ただいま到着ゥ、つかまつってござりまする」
 
 石堂右馬之丞(いしどううまのじよう)が立ち上がって、
 
石堂 「おー、城代(じようだい)家老大星由良之助とは、その方か。苦しうない、近う進め、近う近う近うッ」
由良之助 「ははッ、ははッ、ははァ……ッ。

(平伏しながら団蔵にかえって) 何だいありゃァ、まずい判官だなァ。こンなじゃないと思ったがねえ………。たいがいのことは、我慢しようと思うが、この判官はひどいや、こりゃァ、こりゃマズ判官だ。こんなところへ、おれが行って、御前だの、殿様だなんて、バカバカしくって言えるもンか。ここでたくさんだ。え、行かなくってもいいや。ここで演ってやれ。

(由良之助になって) 御前!」
 
  ひどい奴があるもンで、花道へ坐ったきり動かない。石堂が
石堂 「近う、近うツ」
 たって動きゃしない。
 
判官 「おー、由良之助かァ……。
(淀五郎にかえって) いねえじゃねえか。あれッ、何だ七三にいる……。あッ、そうだ。おれの判官が気に入らねえンだ。あー、大変たことになっちゃった……。
(判官で) 待ちかねたア……ッ」
由良之助 「殿には、ご存生の態(てい)を拝し、由良之助身にとり、いかがぱかりか……」
判官 「委細のことは、きいたであろう……」
由良之助 「承知つかまつってござりまする」
判官 「この九寸五分……そちらへの形見にィ……わが欝憤(うつぷん)をッ……」
由良之助 「(ごく事務的に) 承知つかまつりました」
 
 呉服店の番頭さんが、注文でも取りに来たようで、承知つかまつりましたというだけで、いっこうに傍へ来ねえ。仕方がないから、腹ァ切っちゃって、幕がしまる。
 
淀五郎 「どうも、お疲れさまでございました」
団蔵 「おう、どうしたい?」
淀五郎 「ヘッ、さだめしお演りにくいことで、ございましたでしょう」
団蔵 「あァ、演りいいたァ、いえないなァ」
淀五郎 「ちょっと伺いたいんでございますげれど、こないだの稽古ンときは、由良之助が判官の傍(そば)へ参りましたが、こンちは七三のところで、由良之助がああやっておりますが、あらァ、どういう型なんでございましよう?」
団蔵 「型じゃないよ。ありゃア判官の傍へ行くのが当たり前なんだよ。えッ、だげども、行かれねえから行かねえンだ。なァ、こっちは行きたいげど、行かれねえンだよォ。
なァ、よォくものを考えなくちゃいけないぜ。え、由良之助はどこから来るんだよ。播州赤穂から、早駕籠で飛ばしてくるンだァな、えッ、そうだろう。玄関の敷台へ片足ィかけて、
”殿はッ?” と、きくと、
”いま、お腹を召したところでございます”
ということを聞いて、忠義無類の武士(さむらい)だから、前後をわきまえず駈けつけてゆくのが、あの七三のところだ。なァ、あすこへ入ってみるてえと、石堂右馬之丞という検視の役人がいる。城代家老たるものが、かような風(ふう)をしているというのは、実に見苦しいし、また無礼なことであると思ったンで、思わず知らずあそこンとこへ、手をつくんだ。なァ、石堂右馬之丞というのは、情けのある武士だから、
”由良之助とはそのほうか。許すぞ、苦しうない、近う近う近うッ”
といわれるから嬉しいじゃねえか。
”はァーッ”
てンで、主人の傍へ行って遺言をきき、またいろンな別れも惜しみたい……と思って、ひょいと見ると、あんな腹の切り方ァしてるンだ。行かれねえじゃねえか。えッ、おい、そうじゃねえか」
淀五郎 「へえッ……。すると、どんな具合に、腹を切ったら、よろしゅうございましょうか」
団蔵 「どんな具合もこうもないや。本当に、切るんだいッ」
淀五郎 「え? 本当に? 本当に切りゃ死にますよ」
団蔵 「二、三度、死ななきゃダメだよ、おめえなンぞ」
淀五郎 「あッ」
 
 返す言葉がなく、その晩帰ってから、いろいろ自分で工夫をして二目目。着到もろとも楽屋入りをして、大序から、二段目、三段目……四段目となってくるてえと、また七三で動かねえ。
こンだァ聞きに行くこたァ出来ないから、幕がしまって、顔ォ落とすてえと、裏木戸から表へ出た。
 
淀五郎 「あー、よしゃよかったんだ。名題にならなきゃ、こんな思いしなくってすんだんだ。え、毎日毎目、七三でもって、由良之助が動かなかった日にゃァ、淀五郎の判官が気に入らねえから、動かねえンだてえなァ、お客さまにまでわかっちゃう。弱っちゃったなァ……。

どうして切ったらいいったら、三河屋のじじぃ、本当に切れツてやがらァ。えー、辞(や)めちゃおかしら、辞めて旅回りになっちゃおかしら。でも、宮地(みやち)イ落ちるなァいやだなァ……。

こんな恥をかくくれえなら、団蔵が切れッてンだから、あした本当に切ってみてやろうかなァ。本当に切りゃァ気に入るだろう。でも、本当に腹ァ切って、死んじまった日にゃつまらない…。

いや、由良之助が出て来やがったら、由良之助ェ突っ殺して、おらも腹切っちゃおう。相手が三河屋だァ、命を取っかえたって、惜しかァねえや。よしッ、死んじまおう」
 
 と、こんな了簡を出してきた。人てえもなァ、こんなことを思うときが、あるもンですな。

 方々を暇乞(いとまご)いをして歩いて、いよいよ明日ァ団蔵を殺して、自分も腹を切ろうと思う。

 遅くなって、自分の家ィ帰ろうとする。中村座のわきを通るてえと、ダダダンダーン ダラーン ダラーン……という、打ち出しの太鼓の音(ね)に、ひょいと気がついたのは、そのころ中村座の座頭をしているのが、中村仲蔵という、屋号を舞鶴家(まいづるや)といったお方ですが、この人ァ 腹切りの名人で、三役、腹を切りわけたという名人であります。
 
淀五郎 「あー、舞鶴屋の親方に世話ンなってるから、暇乞いをしてゆこう」
 勝手口のほうから、
淀五郎 「こんぱんはァ」
 
仲蔵の女房 「はい、どたたァ~あ、まァ、紀国屋の親方?そこはいけませんよ、こっちからお入んなさい」
 
 昨日まで、「あら、淀さんかい。淀五郎さんかい」といっていた人が、名題になると「紀国屋の親方」と、呼ばれるようになる。

 われわれの落語家(しょうばい)がそうでな、楽屋で、「ナニさん」とか「アニさん」と呼ぱれていたのが、真打という看板をあげると、「師匠」と呼ぱれるようになる。実にこの、師匠と呼ぱれるてえものはうれしいもンで、演者(あたし)なンぞたまに、「師匠」と呼ぱれることがある。
 「おう、師匠ォ」
 「へえ」
 「下駄ァとってくれ」 なンてえなァ、あんまりいい師匠じゃァねえ。
 
仲蔵  「なンだい、おう、淀さん来たンかい。こっちィ来な、こっちィ来な。遠慮せんで、こっちィお入りよ」
淀五郎 「へえ、どうも、ご無沙汰を………」
仲蔵 「やァ、あー、おめでとう。こんだァ、名題になったんだってなァ。こたいだ印物をもらったが、すまねえな。え、相変わらず評判もいいそうで、蔭ながらよろこんでンだ。え、何しろ三河屋のナンだからなァ……。あー、おれも忙しくって、いま帰って来たぱかりだ。まァ、ゆっくり遊んでゆきな」
淀五郎 「ヘッ……。えー、今晩はァ、実ァ、あしたは暇乞いに、上がったんでござンす……」
仲蔵 「暇乞いに? なンだい、どっか行くのかい?」
淀五郎 「へえ………」
仲蔵 「どこィ、行くんだ?」
淀五郎 「旅ィ行こうと思ってます………」
仲蔵 「旅? そりゃよした方がいいぜ。せっかくおめえ、名題になって、旅へなンぞ出ちやったら、第一、お客さんに忘れられちゃうし、芸ァくさくなるし……。えッ、少しくらい辛抱だァ、なァ、我慢してなよ。えー、で、いつ行こうてンだ?」
淀五郎 「あした、行こうと思ってるンです」
仲蔵 「あした行く? そりゃァおかしいじゃないか。こんだァ、判官というものがないんで、おまえさんが名題になって、判官をつとめて、今目が二日目……あしたァ三日目じやないか。三日目に、判官がいなくなっちゃって、どうすンだい、えーッ?」
淀五郎 「あたしも、行きたかァないんですがね………」
仲蔵 「行きたくなかったら、行かねえ方がいいぜ。えー、一体、どうしたンだい?

(奥へ) おい、あの、表の酒屋へいって、酒そういつて、帰りに魚屋へ寄つて、なンかみつくろって来な。
 あ一、淀さんと、一ぺえ飲むんだから……ちょいと用があるから、ここへ入(へえ)つて来ちゃァいけねえぜ。
(改まって) で、おめえ、おれに何か、かくしてンな、えー、小(ちい)せえ時分から、面倒見てンだ。こういうわけなンで……と、話したらいいじゃねえか?」
淀五郎 「へえ、ヘッ………。わたくしの判官が気に入らないンで、三河屋の親方の由良之助が、判官の傍へ来ないんですよ。初日も、今日の二日目も……まだ来ないンで、これじやァ、わたしは、のぺつ恥をかいてなくっちゃならないンで…」
仲蔵 「うーん……。聞いてみたらいいだろう。どういう風に演ったら、気に入るんでしよう……ってな」
淀五郎 「それが、本当に、切れッてンです…」
仲蔵 「ほう! 本当に切るんだよ、そりゃァ」
淀五郎 「本当に切るってもね、本当に切るくらいなら、自分が死んじゃっちゃァ合わないから、あした由良之助を突っ殺して、あたしも腹切っちゃおうと、思うんです…」
仲蔵 「そんな芝居はねえやな。えッ、おまいねえ、おい淀さん、おめえはまだ若えや。えー、引き出し違いしてやしねえかい? 三河屋が、こンだおまいを、名題にして判官てえ役ゥつけたんだ。えッ、おまいを……、ふン、そうだろ?

相手ァ三河屋だ。おまいの判官がうまかろうがまずかろうが、てめえはてめえで勝手に演ってやがれ、おれはおれの役ゥ演りゃァいい、他人(ひと)のことなンぞどうでもいいと思やァ、なんにも気にしねえで演っちまうんだ。
それを、おまいさんを判官にした以上は、どうにかしてやろう、早くうまくなってくれと思うから、演りにくい思いをして、七三で演っているんだ。
 なァ、三河屋てえなァ、おまえさんにしてみりゃ、芸の神様みたいたいなえらァい人だ。その人を、仮りに殺すのなンのって、とんだおめえ、間違いだぜ、なァ、よォく考えなくっちゃいけねえぜ。

 人間、テンから和尚になれるもんじやない。なんで、一生懸命ィ演らねえンだ、何事も我慢だ。えー、蝶々(ちょうちょ)はきれいだつて人はいうけれど、毛虫の時分には、人にきらわれている。蝶々ンなって、飛ぴ出して、
”あー、きれいだなァ” ってえまで、我慢出来ねえのか。 え、我慢しなくっちゃいけねえぜ。

えェ、どういう腹の切り方ァしてンだい?
そこで一つ、腹ァ切ってみな。おれが見てやるから……。あァ、三方か、ウン、その辺からでいい、演ってごらん。
うん、うん……(と煙草をつめて、ジッとみつめる)……ふゥん、なるほど……(と、煙草を喫いながら、相手のひざから腹の辺りに視線を落とす)……うゥーン……(と、頭をふり、吸いがらをポーンとはたき)……あァ、いいよ、わかったよ」
淀五郎 「どうでござンしょう?」
仲蔵 「まずいなァ」
淀五郎 「そうですか?」
仲蔵 「あー、それじゃァ、おれが由良之助でも行かねえや。あー、まずい判官だねえ」
淀五郎 「ヘッ? そうですか?」
仲蔵 「あー、まずいよ。まずいといってもな、芸のまずいのは我慢するよ。若い者(もん)に、そこはなかなかうまくいくわけァないからな、ウン。
 おまいさんの判官は、実にいやなとこがある。気障(きざ)でいけねえよ。というなァ、おまいさんは名題になって、紀国屋とか何とか、お客にほめられようと思ってンだろう。え? あー、そうだろう? だから芸に欲が出ちゃって、大名になれない。淀五郎が腹ァ切るようになっちゃうんだ。

 舞台へ出たら、もう淀五郎も名題もない。おれは五万三千石の大名だと、こういう気持ちだ。第一、自分は切腹ンなり、家は断絶する、家来たちには迷惑をかける。相手の師直(もろのう)はてえと、かすり傷はしたが何のお咎めもない。ああ残念だ、ああくやしいと思って腹ァ切るのと、てめえが客にほめられようと思って切るのは、こりゃ大変な違いだよ。なァ、芸人の欲なンて捨てちゃって、立派な大名が腹ァ切らなきゃいげないんだよ。

お客さんはよく知ってるから、よけりゃァほめてくれる。いくらほめられようと思ったって、演ることがまずけりゃ、客ァほめちゃくンないよ、な、そうだろう?

あー、なア、おまいのを見てると、おまいさんのはね、手をこう下へついて、腹ァ切ってるが、ありゃァ大名の腹切りじゃねえ。それは、勘平の腹切りだ。勘平てなァ、狩人(かりうど)まで身ィ持ちくずすような男だから、おンなし侍たって行儀ァわるい。のたうちまわって、頬っぺたに血ィつけたりして、行儀わるく切る。
 片方は、えェ、五万三千石の大名だよ、なァ。大名の腹切りは、膝へこう(左手を太もものまん中に置き、右手を左の脇腹へあてて)のせたまンまで、品位というものをくずしちゃァいけねえ。
 それに、なァ、
 ”由良之助かァ………"
という声が、大きいじゃねえか。え、刃物が、腹へ入(へえ)ってンだよ。そこを考えなくちゃいけねえ。え、刃物で突かれたとき、切られたときは、寒気がするもンだ。
”寒いッ”
と思やァ、声にふるえが来る。寒い、寒い寒いッと思って、声を出してごらん、ウン、あー……。

そいからな、青黛(せえたい)を、こう(左手で左耳のうしろ側をさして)耳のうしろへでも、ちょいとつけておいて、由良之助の出ンなると、客がみんな、七ッ三のほうを向いちゃうから、そこを客にわかんないように、唇へちょいと塗ってごらん。白塗りで、唇の色がかわる。
欲を離れて腹ァ切りゃァ、判官になれるかもしれん。演ってごらん」
 
淀五郎 「(感きわまって) ヘヘッ、ありがとうございます……」
仲蔵 「いけなかったら、またおいで。え、短気を出しちゃいけないよ。まア、一ぱい飲んできな」
淀五郎 「へえッ、いえッ、そのッ……」
 
 帰って、淀五郎が、その晩いろいろと工夫をして、あくる三日目、楽屋入りをする。舞鶴屋の親方に心配をかけたけれど、ことによるてえと、今日がこの舞台の踏み納めになるんじゃないかと、ひとりで考えている。

大序、二段目、三段目、四段目……いよいよ出ンなります、
七三へ、由良之助が手をつく。石堂になった役者も、毎日、「近う近う近うッ」たって、来ねえンだからしようがないけれども、役だからいわねえわけにはいかない。
 
石堂 「おう、聞き及ぷ城代家老大星由良之助とはその方か、苦しうない、近う進め、近う近う近うッ」
由良之助 「ははッ、ははッ、はア……ッ。

(団蔵にかえって) おやッ、なンだい、今日の判官は?
不思議なこともあるもンだなァ……。どうしたんだろう、あの野郎ァ……。昨日と違って、ひと晩で……こんなによくなりゃァがった……。誰にきいたンかな……あ、そうか、舞鶴屋だな。それにしても、実によく出来た。よし、こいじゃァひとつ、傍へ行ってやらざァなるめえ……」
 腹帯をぐいッと締め直し、かがみ腰になって、ツツツッツツツッ……と判官のわきィ、

 御前ッ!」
判官 「おー、由良之助か?……。

(切腹の形のまま、淀五郎で) あれッ、今日は出ないのかい?
七三にもいねえじゃねえか……。いくらおれがまずいといったって、まるっきり出て来ねえてえたァひどいや。ちきしょう、楽屋ィ行ったら……。しかし、確かいま、近くで声がしたな……」

と、ひょいとわきを見ると、三日目ではじめて来ていた由良之助。こいっァうれしい。
 
「(切腹の形のままで) おー、由良之助かァ、うゥーン、待ちかねたァ……ッ
 
 速記録を文字にしたものを「目」だけで読むと読みにくいところもあります。しかし、声を出す感じで読むと、感じがつかめます。如何でしょうか。

五代目 古今亭志ん生
 本名 美濃部孝蔵。1890年、東京神田生まれ。初代円朝門下の朝太をふりだしに、五代目志ん生を襲ぐまでに改名16回。若い頃は酒と貧乏と奇行で知られ、戦後は実力、人気とも落語会の第一人者であった。1973年没。83歳。
 今年は没後30年と言うことになります。

 この話は、別名を『四段目』とも『中村秀鶴(しゅうかく)』(仲蔵の俳名が秀鶴)とも言います。登場人物は少ないのですが、歌舞伎を知らないと表現が難しい大物です。円生、正蔵(のちの彦六、<<林家こぶ平が来年?正蔵を襲名すことになっています>>)も芸の年輪を経て十八番(おはこ)にしていたとのことです。

 ところで、ダイソー(ご存知、百円ショップ)で売っているCDの中に、「日本の芸能シリーズ 落語名人19 古今亭志ん生」 というのがあります。この中にこの「淀五郎」が入っています。 いつ頃、演じたものか分りませんが、なかなか良いものです。
 是非、お求め頂いて、お聞き下さい。そうして頂ければ、上の記事が更に活きてきます。
今回は、長々と書いてしまいました。この辺で失礼を !!!!!

参考図書

志ん生人情ばなし 志ん生文庫5 著者 古今亭志ん生
編者 小島 貞二
立風書房
この常識ことば、わかる 日向 茂 (株)中経出版