主題;ドイツの歴史;
グリム童話を編纂したグリム兄弟
(Gurimm Brueder)について:
1.兄弟の足跡: |
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グリム兄弟の兄ヤーコプ(Jacob)は1785年、弟ヴィルヘルム(Wilhelm)は、1786年にドイツ・ヘッセン地方伯爵国(1803年選帝侯爵国)のハーナウ(Hanau)で生まれた。 ハーナウは、フランクフルトからマイン川沿い、東へ15kmのところにある。北海(Nord See)への出口のハンザ都市ブレーメン(Bremen)からハーメルン(Hameln)、ゲッテインゲン(Goettingen) 、カッセル(Kassel)と南下してハーナウに向う道をメルヘン街道と呼ぶ。 グリム兄弟はフランス革命とナポレオンによるドイツ侵攻の影響をもろに受けた。兄弟の父は若くして亡くなったが、叔母の援助によって1798年兄弟そろってヘッセン国の首都カッセルの高等中学へ進学する。 本誌#54でも触れたが、1789年にフランス革命が起き、1793年には兄弟の生地ハーナウの近くのマインツやフランクフルトがフランスによって占領された。 1806年プロイセン軍がイエナ(Jena)にてナポレオンに敗れたため、神聖ローマ帝国が滅亡する。ヘッセン選帝侯爵国はフランスに占領され、選帝候は東プロイセンへと逃亡した。 1807年ヘッセンは、ナポレオンの弟ジェロームが国王となっていたヴェストファーレン王国に併合されカッセルがその首都になった。 高等中学では語学、歴史、地理、博物、人類学、道徳、論理、哲学などの授業を受け、ほかに個人授業でラテン語やフランス語も学んだ。 当時日本では寛政年間、十一代将軍家斉の時代でで、寺子屋教育での読み・書き・そろばんに比較するとその違いには驚くものがある。 1802年、兄ヤーコブ(Jacob)はカッセルの南100km ほどののマールブルグ大学へ入学する。弟ヴィルヘルム(Wilhelm)も1年後に同大学へ入った。兄弟は法律を専攻したが、ドイツがフランスに占領されたことから、民族的叙事詩ニーベルンゲンや古い言い伝えなどの文献研究に傾いていった。 1812年、「子どもと家庭の童話(Die Kinder-und hausmaerchen」の初版が出版されたが、これはナポレオンがライプチッヒにてプロイセン軍を主体とする同盟軍に敗れる一年前のことであった。 兄弟は大学卒業後、前記ヴェストファーレン王国のカッセル図書館に勤務しながらドイツ文学やドイツ文法などの研究を行っていた。1813年ナポレオン敗北の後、ヘッセンはその領土を回復し東プロイセンから選帝候が帰還した。 1830年グリム兄弟はカッセルの北約40km のハノーファー王国ゲッチンゲン大学に招聘された。#56で触れたが、1714年以降、イギリス国王がハノーファー国王を兼ねていた。この年オランダのオレンジ公ウィリアム4世がイングランド王に即位し、且つハノファー王となった。1833年ウイリアム4世はハノーファー王国にも二院制議会を持つ進歩的な憲法を認めた。 1837年ヴィクトリア女王がイギリス国王に即位したが、ハノーファー王国は女子の相続を認めていないため、ハノーファー国王にはヴィクトリアの伯父エルンスト・アウグストが即位した。アウグストは即位してまもなく、議会の解散・内閣の廃止・憲法の破棄を布告した。 これに対しゲッチンゲン大学のグリム兄弟他5名計7名の教授が国王の処置への抗議書に署名したため免職となりハノーファー王国から追放された。兄弟はゲッチンゲンからカッセルに戻り1838年から「ドイツ語辞典」の編纂に着手する。 1841年兄弟は、プロイセン国王フリートリッヒ・ヴィルヘルム4世によってプロイセン王立学士院会員となり、ベルリン大学で講義することが出来るようになった。ベルリンではもっぱら「ドイツ語辞典」の編纂に力を注いだ。 1859年に弟ヴィルヘルムが、1863年に兄ヤーコプが死んだ。 この辞典が完成したのは1961年であり、ドイツが東西に分裂していた時期もそれぞれ分担して辞典編纂にあたっていた。 |
2.シンデレラ(Cinderella): |
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シンデレラと同じ話しがグリム童話に収められている。それはAschenputtel/Aschenbroedel、即ち「灰かぶり」と題されている。 Cinder-ellaは、灰ーElla(女性名)を意味する。従って物語りの題名は同じである。グリムの「灰かぶり」ではカボチャの馬車は出て来ず、沓はガラス製ではなく黄金である。 死の間際に母親が娘を枕元に呼び「神様を大事にし、気だてを良くするように・・・」と言って息を引取る。父親は後妻をもらうが、年上の連れ子娘二人がついて来た。娘はまま母と姉たちに意地悪され寝る場所がかまどのそばの灰のなかで、身なりが汚くみんなから「灰かぶり」と呼ばれた。 舞踏会で脱げた沓を履いていた娘を探しに王子が「灰かぶり」の家に来る。まま母は、包丁で姉娘に指を切るようすすめて沓を無理に履かしてしまう。王子が姉娘を馬車に乗せ城へ戻る時鳥が沓から血が流れて、沓が小さいことを教える。白いくつ下が真っ赤に染まっているのを見て本物でないことが分かる。引き返して来た王子を待たせ、また同様妹娘にかかとを切るようすすめて沓を無理に履かしてしまう。やはり途中で血が流れ、偽者と気づく。 意地悪をした義理の姉二人は「灰かぶり」の結婚式が行われる教会へ行く馬車に同乗する。姉たち二人の目をそれぞれ行きに片方帰りに片方と、両目を鳥にくり抜かれてしまうのである。悪いことをすると天罰が下るとの教えを示したかったからであろう。 |
3.雪白姫(Scheewittchen/Scheeweisschen): |
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雪のように白いので雪白姫と名づけられたが、日本語では語呂の関係からか白雪姫と呼ぶ。娘が生まれてすぐに母親が死に、父親は後妻をもらう。 まま母は美しさにかけては誰にも負けたくない性分であった。鏡に向って国一番の美人を訊ね、鏡から答えを聞いていたが、白雪姫が7歳になると、美しいのは白雪姫であると答える。まま母は嫉妬から娘を殺そうとする。 白雪姫は森の中で一寸法師と暮らしていた。何度もまま母に殺されかけては一寸法師に助けられるのだが、ついに毒りんごを食べて倒れてしまう。一寸法師がさまざまな手当てをしても白雪姫は生き返らないのでガラスの柩のなかにねかせ、山の上にすえてお守りしていた。 どこかの国の王子が、森へ迷い込みこの柩を一寸法師から貰い受けた。家来たちが柩を運ぶ時、木にけつまづずき柩がゆれたひょうしに白雪姫は毒りんごを吐出し生き返った。まま母は王子の結婚相手が自分より千ぞう倍美しいと鏡に言われ、気がもめたが城での結婚式に出たところ王子の相手が白雪姫と判り、立ちすくんだまま身動きができなかった。 鉄製の上靴が炭火の上に乗せられて真っ赤になっているのを目の前に持ってこられ、否応なしに履かせられたまま母は、踊り踊って息絶えてしまったのである。 初版ではまま母ではなく実の母親となっていた。実の母親が娘を殺すのはあまりに酷いのでまま母にしたとのことである。 |
4.ヘンゼルとグレーテル(Hensel und Gretel): |
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木こり夫婦と幼い兄妹が森の入り口に住んでいた。ある年飢饉があり食べるものが手に入らなくなった。ここでもまま母なのだが、子供たちを森の中に捨てるようしぶる父親を責めたてる。 森の中に捨てられた兄妹は、一度は戻ってくるのだが、2度目はより奥深くに連れて行かれ魔女につかまってしまう。魔女をパン焼き窯の中へ押し込み焼き殺して、魔女の宝物を奪う。家に戻ると継母は既に死んでいた。 是も初版では、まま母ではなく実の母親であったとのこと。 |
5.あとがき: |
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Hannoverの東南60KmほどのGoslarへ行ったことがある。 |
図 録 |
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参考図書、資料
グリム兄弟 | 中公新書 |
グリム童話集(一、二) | 岩波文庫 |
ドイツ 世界の歴史と文化 | 新潮社 |