主題;二宮尊徳(にのみやたかのり)について
下野国の地誌をめくっていたら、二宮尊徳についての業績がでていました。 |
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先ずは、百科事典から引用した人物像です。 |
二宮尊徳 にのみやそんとく (1787~1856) | |
江戸後期の農政家。名は金次郎、尊徳は後の名乗り。相模国足柄上郡栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)百姓利右衛門の長子に生まれる。早くから父母に死別、兄弟は親戚の家に分散、二宮家伝来の田地はすべて人手に渡る。17歳のとき用水堀の空き地に棄苗(すてなえ)を植えて米一俵を収穫、「小を積んで大を為す」ことを実感したという。 苦難のすえに24歳で一町四反歩の農地を所持し、一家の再興に成功。1818年(文政一)小田原藩家老服部家の家政再建を依頼され、また老中に就任した藩主大久保忠真(ただざね)より模範人物として表彰された。 20年江戸在勤の小田原藩士たちのために低利の貸付金と五常講(ごじょうこう)を考案して苦境を救う。 22年藩主忠真より分家宇津家(旗本)の領地再建命ぜられ、下野国(栃木県)桜町領の復興を図り、31年(天保二)第一期を終了。 33年初夏のナスに秋の味があるのに驚き、稗(ひえ)を播(ま)かせて飢饉(ききん)を防いだという。 37年藩主忠真より前年からの飢饉に苦しむ小田原藩領の救済を命ぜられ、小田原へ赴く。 40年から小田原付近の農村救済のための報徳仕法(ほうとくしほう)を実施する。 42年老中水野忠邦より普請役(ふしんやく)格として幕府役人に取り立てられる。 44四年(弘化一)「日光仕法雛形(につこうしほうひなかた)」を作成、一家、一村、一藩再建のための指導書とする。尊徳の指導は小田原藩領のほか日光神領、烏山、下館、相馬各藩に及んだ。日光神領立直し仕法の業なかばに、安政三年十月二十月、下野国今市陣屋で病没、七〇歳。 著書に『為政鑑(いせいかがみ)』『富国方法書』『三才報徳金毛録』などがある。おもな門人には『報徳記』の著者富田高慶(とみたこうけい)、『二宮翁夜話』の著者福住正兄(ふくずみまさえ)や安居院庄七(あぐいしようしち)、岡田良一郎らがいる。 尊徳は身長六尺(約182cm)、体重25貫(約94kg)の強健な大男で、合理的精神に富み、和漢の古典を独自に読み替える独特の才能があった。彼の思想は実践活動と深く結び付いていた。 各自が財力に応じて支出計画をたてることを「分度(ぶんど)」といい、分度生活の結果生ずる余剰を社会に還元することを求め、これを「推攘(すいじょう)」と称した。分度をたてて推攘を図ることによって人は苦境を脱し、一村は再興され、藩もまた立ち直るとした。この方法(仕法)の根本は報徳精神とよばれ、明治以後の農村の精神的背骨として多くの影響を与えた。 墓は神奈川県小田原市栢山の善栄(ぜんえい)寺、同地には尊徳記念館があり、生家が保存されている。また小田原市および栃木県今市市に報徳二宮神社がある。 |
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そして、尊徳が宇津家の領地再建を命ぜられた時期の下野国の状況は、次のようでした。 下野国の人口は、宝暦六年(1756)では95万人でしたが、天保五年(1834)には61万人まで減少してしまいます。18世紀中期から約70年間に40%近くも人口が減少したのです。この結果、耕作人のいない手余(てあまり)田畑には草木が茂り、狐・兎の栖になって、潰(つぶ)れた農家の廃屋が目立つ「亡村」と化した村々が発生したのでした。 こうした農村疲弊には、いくつかの原因があります。
また、天明三年(1783)七月に噴火した浅間山の火山灰は、下野東北部の芳賀・那須両郡一帯まで降り、作物に尽大な被害を与えました。この時以来、数年間は夏の土用に綿入れを着るほど寒冷な天候となり、大飢饉が発生し、領内では穀物の値段は高騰し木の皮や草の根まで食べ尽し、餓死者を出すに至ったのです。農村の荒廃は関東では、下野と常陸両国で著しく進行し、下野国内では芳賀郡が最も深刻であったといわれます。 下野国には8万6千石におよぶ天領<幕府領>が大名領や旗本領と錯綜(さくそう)する形で存在し、幕府代官の支配下にありました。天領の郡別村数をみると、那須郡70カ村、都賀郡47カ村、芳賀郡38カ村で、この三郡に集中していたました。 当時の幕府老中松平定信(まつだいらさだのぶ)は、関東農村の荒廃化に危機感を強め、その復興を決意し、寛政五年(1793)、三人の有能な代官を任命しました。彼らは江戸の役所に滞在するといった従来の代官の有様とは異なり、在地に陣屋を置いて詰め、農村復興に傾注したのです。 代官の仕法<=仕方、方法>の主眼は、農村人口の回復と荒地を開墾し年貢徴収の可能な耕地を増大させることにありました。離村や死潰れになった農家の相続人、あるいは他所への奉公人を引きもどした者、自力で用水を普請した者たちには、相応の手当を支給して励ました。 また、肥料は江戸から農民の手元へ直送する安売りの方法をとり、起こし返しの困難な田畑には桑・茶・漆・楮(こうぞ)の植林を奨励し、役人の廻村は、原則的に日帰り・手弁当として村費を節約するなど、諸策を施したのです。 更に、人口の増加を促すものとして、越後・越中・加賀からの北陸農民の移住策があります。この三国とも比較的人口が多く、農民たちは間引(産所で出生児を殺害すること)を罪悪視して厚い信仰(浄土真宗の熱心な門徒が多い)心をもち、勤労意欲も高かったのです。彼らは入百姓と呼ばれました。こうした入百姓策は、二富尊徳の仕法下でも導入され、下野国では幕末まで行われたのでです。居付百姓からの差別を受けながらも勤勉に働く入百姓は、財を貯え確固たる農家に成長し、農村の指導者として今に至ったものが多いといわれます。 |
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下野における二宮尊徳の仕法の端緒は、小田原藩大久保家の分家旗本宇津(うず)氏の知行所である桜町領<現在の芳賀郡二宮町と真岡市に属する物井・横田・東沼三カ村合せて四千石。物井村字桜町に陣屋が置かれた>の復興でした。 桜町領は、五行(ごぎょう)川と小貝(こかい)川の狭間に広がる沖積地に位置し、真岡木綿の産地として繁栄していました。しかし、宇津家の厳しい年貢取り立てや度々の天明期(1781~89)の飢饅、さらに五行川の氾濫による田畑の流出などが重なって、天明期以降、しだいに土地は荒廃し、領民の心も荒(すさ)んだものになっていきました。彼らは耕作を怠り、酒と博打に溺れて惰民と化し、文政期(1818~30)の家数・人口は、それぞれ156戸・730人、年貢納高も962俵で、ともに元禄期(1688~1704)の三分の一ほどに衰退していたのです。このため、宇津家は零落し幕府へ出仕もできず、本家大久保家に寄食する状態でした。 尊徳はまず、文政五年(1822)から10年間、宇津家の分度<この収入を限度として生活する>を年貢は米1005俵、畑方金は127両余として、これを超えた収穫・収益は尊徳の手元に置き復興金に充てることを条件に、桜町領仕法を受諾しました。翌年、尊徳は田畑を売却し妻子を連れて相模国小田原から桜町陣屋にやって来たのです。尊徳の目標は今後10年間に年貢を2倍の2309俵にすることでした。文政十年(1827)、尊徳は真岡の東郷(ひがしごう)<現、大前神社付近>を流れる五行川から取水する穴川用水(あながわようすい)の大改修を行い、結果、下流の荒町・田町・島・小林・鹿・高田・桑野川と、桜町領の東沼・物井を合せて9カ村の田が潤って生産を高めることになりました。 最初は行政官<名主格>として、規則や命令による領主側に立った仕法を行ったため、領民はこれを嫌い、また、陣屋の上役豊田正作(とよだしょうさく)の妨害もあって、成果は思うように上がりませんでした。尊徳は苦悩の末、文政十二年(1829)桜町を出奔すると成田山<現、千葉県成田市>に参籠し、断食するに至ったのです。指導者を失ってはじめて事の重大さに気づいた領民が、ふたたび尊徳を迎え入れてからは、農民の自発心を促す仕法へと転換を図り、農民も尊徳に協力し仕法は効果を上げていったのです。 尊徳は、廻村を徹底し領地と農民の生活状況を把握したうえ、精農者に賞を与え<農具・米穀などを供与>、怠慢な者を戒めるという仕法を取りました。また、荒地の開墾には年賦返済の無利息金を貸し付けて勤勉を勧め、領民の信仰する神社や寺院、家屋や廃小屋の築改造を援助したので、農民は安心して耕作に専念できました。さらに、農具と肥料は直接生産者から安価で一括購入し領民に配布したので、農政の光は貧農層まで行き渡ったのです。 夏茄子(なす)が秋茄子の味を思わせたことで凶作を予想した尊徳は、粟・稗(あわ・ひえ)の作付を奨励し、有穀者から穀物を供出させるなどきめ細かい施策を構じたため、天保四年(1833)の飢饉のときは、領内から餓死者を出さずに済みました。こうして、尊徳が赴住した文政六年から10年後、桜町領の戸数拾よび人口は164戸、826人にまで回復し、年貢納高は1894俵、分度外の積み立て高は8500俵におよび、宇津家の借金も大半は返済されていたのです。この後、仕法は5年延長され、天保八年(1837)、目標を達成して終了しましたが、宇津家の家政は旧に復し、桜町領も活気をとりもどすことになったのです。 天保十三年(1842)、幕臣に登用され真岡東郷陣屋に移った尊徳は、真岡代官山内総左衛門の配下で各地の代官領仕法に従事しました。そして、例えば、穴川用水(あながわようすい)の改修や、嘉永五年(1852)に行った田川の天領石那田堰(いしなだぜき)・徳次郎(とくじら)用水<ともに現、宇都宮市>の建設など一定の成果を上げたのです。 そして、嘉永七年(1854)、尊徳に日光御神領<今市・日光・藤原・足尾・鹿沼などに合せて二万石余>復興仕法の幕命が下りました。しかし、このとき尊徳は病床にあり、病を括して今市の役所に移ったが病状が悪化したため、仕法は子息の弥太郎と弟子たちが推進することになりました。尊徳は娘文子の葬儀のときも真岡へは帰らず籠に乗って廻村をくり返すほど、御神領復興に執念をもっていたのです。 現在、日光の大谷川から取水して今市高等学校の北側を流れる二宮堀は、今市平ヶ崎のほか五カ村の水田を潤しています。 村民の熱い要望に応えて尊徳は、千本木29戸、轟(とどろく)25戸に対して集中して仕法を施しました。そして、両村を模範村に仕上げると、随時ほかの村へ広めてゆくという一村式仕法を行ったのです。日光神領仕法の総成績は、荒地開発483町歩余、堰12カ所、橋梁30力所、潰家取立新家作9戸、出精奇特人褒美894人、無利息金貸付5128人というものでした。 |
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尊徳が影響を及ぼした地域は小さいものでした。しかし、その業績により尊徳は後世に名を留める農政家です。見方を変えれば、財政再建の指導者だったのです。この様な人が幕末に現れ、逼迫していた農民を救済したことを思うとき、わが国の奥深さを感じます。 |
参考図書
日本 大百科全書 | 小学館 |
図説 栃木県の歴史 | 河出書房新社 |