主題;ナポレオン戦争の余波について
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2005/10/03 |
本誌の第54号は、池端主幹によるナポレオンを中心とした18世紀後半から19世紀初頭の欧米の事情と出来事について述べたものでした。 今回は、この出来事が東の果ての我が国に及んだ事件についてです。 ご存知のように江戸幕府は、鎖国政策をとっていました。外国との交易を禁じていたのです。しかし、わずかにオランダと中国(清朝)のみは、長崎でこれを許していました。そして、これらの国の人々の居住は、長崎の出島(オランダ人)と長崎市内の唐人町(中国人)に限定されていました。 話は、第54号の時代です。 引用させていただくと、
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時は、文化5(1808)年8月15日のことです。 当日の正午ごろ、帆船一隻が長崎港に向けて進行しているのが認められました。恒例によって、長崎奉行配下の検使4人、旗合わせのためオランダ人2人と通詞2人が、3隻の小舟に分乗して港外に出ました。遠見番もまた船を出してこれに加わりました。 この時期、本国の戦乱の影響で蘭船が来港することはなかったのです。そのため蘭船以外の異国船と思われ、万一の場合は沖両番所に知らせ、入港を阻止するよう、彼らは命じられました。当初、その船は国旗を掲げず、伊王島近海にきてから、はじめてオランダ国旗を掲げました。やがて港口まで進み、オランダ人が小舟で近づくのを見ると、彼らはボートを降しましたが、14~15人の武装兵はたちまちその商館員2人を本船に拉致したのです。 検使らはこれをみて舟を前進させ、取り戻そうとしましたが、水夫らは恐れ、海に飛び込んで逃げてしまいました。来航の船は、港口の高鉾島(たかぼこじま)に停泊してしまいました。 その船は、イギリスの海軍大佐ベリューを艦長とする同国軍艦フエートン号でした。イギリス政府の命で、長崎港のオランダ船を捕獲するため来港したのでした。 このことはすぐさま長崎奉行所へ報告されました。ときの長崎奉行松平図書頭康英(づしょのかみやすひで)は、拉致された者がオランダ人であるとはいえ、わが国に在留中の者であるから、全力でこれを取り返せ、と厳命しました。そこで検使はイギリス船に近付き、オランダ人拘留の理由を尋ねたところ、水と食料を届ければ返すと答えたのです。そして夜に入り、ボート3隻でオランダ船を捜すため港内徘徊しはじめました。やがてオランダ商館を襲撃するとの噂が流れ、身の危険を感じた商館長ドーフらは、出島をでて西役所に逃れたのです。 翌16日になると、彼らは堂々とイギリス国旗を帆柱に掲げていました。図書頭は、このとき沖両番所を警備する佐賀藩兵の不足していることを知り、戦闘は不能とみて、彼らの要求するまま水と食料を届けさせたのです。やがて、彼らは人質のオランダ人1人に手紙を持たせて返し、更に、牛・豚・鶏などの食料や、薪などを求められるままに届けたところ、残りの人質を返したのです。 港内に蘭船が停泊していないことを知った彼らは、当初の目的を果すことはできませんでしたが、日本に対しては敵意がないこと、食料や水などが不足したため、やむなくこれを要求したが、願いを聞き届けられたので、速やかに出航する、配慮については感謝する、などの意向を伝えてきました。 こえて17日正午過ぎ、フェートン号は帆をあげ、長崎を立ち去りました。 三日間に及んだイギリス軍艦フェートン号の長崎不法入港は、泰平を謳歌していたこの地に強い衡撃を与えました。そして、翌8月18日早朝、長崎奉行松平図書頭は、出来事の責任をとって割腹自害をとげたのです。そして、遺書があり、そこには大要つぎのように記されていました。 |
一 | 旗合わせの際、オランダ人2人を彼らに奪われたのを、検使が放置して西役所に引き返したのは、家来の臆病とはいえ、自分の不行届で、まことに弱腰、かつ国辱もので、幕府の威光をけがし、申し訳なし。 |
一 | さる15日夜、イギリス船が港内を徘徊したのは意外であった。かねて陸上に比し、海上警備に手抜かりがあった点悔まれる。沖両番所に対する佐賀藩の警備がもし十分であったら、彼らの勝手な振舞いはなかったかも知れず、この間、格別の指示をしなかったのは油断の至りであった。 |
一 | 同じく15日は晴夜であったが、そこを彼らはボートで佐賀藩兵の警備する沖両番所の前を通過した。藩兵はこれを拱手傍観するだけであった。これは本来800余人で警備すべきところ、泰平の世に慣れ、規定を下まわる140~150人で警備していたことからきた不調法である。しかし、これも結局は自分の不行届であって、まことに無念至極である。 |
一 | イギリス人から法外の要求があったことに対し、佐賀・福岡両藩に船の焼打ちを命じた。しかしその兵が到着せず、また商館長が穏便な対応を求めたので、やむなく食料や水、燃料を届げ、彼らと敢然と対決しなかったが、これまた不調法であった。 |
一 | 大村藩・諌早領の兵の到着が遅かったため、この不始末となった。今後長崎奉行には、自分よりも、もっと多くの部下の兵をもつ大身の者を宛てられるようお願い申しあげる。 |
右のような五か条の不調法の処置は、まったく自分の浅慮から出たもので、これは自身だけでなく国辱をも外国人にさらげ出し申し訳ない。そのため引責切腹いたすこととする。 |
後世の歴史家は、これをフェートン号事件と呼びます。 この事件がナポレオン戦争の余波です。しかし、余波と言うには、たった三日間の出来事でしたが、長崎奉行が切腹自害して、責任を取るということになってしまいました。 江戸期の文化・文政と言えば、文化的には最盛期でした。しかし、その藩幕体制に綻び目が立ち始めてきた時代でもありました。太平の世に慣れきった旗本・御家人は、武術より芸事に精を出し、「野暮」を嫌い、「粋」を最上のものと考える時代だったのです。そんな中にあって、この責任の取り方は、特筆すべきことと言えます。 |
そこで、この長崎奉行とは如何なる職責なのかを調べてみました。 長崎奉行は、江戸幕府の職制上では、老中直属の遠国奉行(おんごく)の一つです。 遠国奉行とは、江戸以外の幕府直轄地の支配にあたる役職の総称でした。具体的には、京都・大坂・伏見・駿府などの町奉行のほかに、奈良・山田・日光・佐渡などの要地、さらに長崎をはじめ、浦賀・神奈川・箱館・堺・新潟・下田・兵庫などの重要港湾などの奉行がこれにあたります。 江戸幕府は、長崎奉行を重視し、元禄2年(1689)以後これを諸大夫(五位)とし、江戸城では芙蓉間(ふようのま)詰に昇進させています。さらに元禄12(1699)年以後は、京都町奉行や大坂町奉行を含め、遠国奉行の筆頭、町奉行としては江戸町奉行につぐものとして位置づけていました。 そして、長崎奉行には、旗本が任ぜられるのが通例でした。幕末に大村藩主が任ぜられたことがありましたが、これは例外的なことです。長崎奉行は、その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁のうえ、これに任ずる旨の命を受けます。その長崎下着、あるいは長崎発駕に際しては、町年寄以下の主だった地役人が、町はずれまで送迎をしたのです。しかも、その江戸への往来については、ほぼ十万石程度の大名の行列をすることとされていました。 |
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この様な、長崎奉行は、これら多くの遠国奉行の中でも、やや特異な存在でした。たとえば、
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つまり長崎奉行の任務は、幕府の直轄都市長崎の支配ではあるが、その実務は、町年寄以下のいわゆる地役人(じやくにん)に委ね、むしろ唐蘭貿易を管理することに重点があるというのです。また、長崎奉行は、宣教師・キリシタン取締りに辣腕を振るいましたが、その取締りは、単に長崎だけでなく、西国一般の広範囲に及びました。 これらをまとめると、長崎奉行は、長崎の町の行政官・司法官であるとともに、外敵の侵入およびキリスト教に対する警備司令官であり、また貿易を管轄する商務官でもありました。さらに幕末、開国を要求して来崎する外国人の迎接をするなど外交官としての側面もありました。そして、そのキリスト教対策が西国一般に及んだところからすると、単に長崎を管轄する奉行というより、長崎にあって西国一般に眼を光らし、その権限を及ぼしていた奉行という存在でした。 これほどの大任であった長崎奉行が自害して責任を取った事件は、幕府に大きな影響を与え、文政8(1825)年、沿海諸大名に対し、二念なく異国船を打払うよう「無二念打払令」を命じて、外国船の不法侵入に対処させています。 |
以上が、ナポレオン戦争の余波についてです。しかし、江戸時代の長崎と言えば「出島」を連想します。 |
出島; 鎖国時代におけるわが国唯一のオランダ人居留地。 市内に雑居するポルトガル人からキリシタンの宗門の広がるのを恐れた幕府は、これを隔離するため、寛永13(1636)年、二年の歳月を費やして中島川の河口に扇形の埋立地を完成させた。島の総面積は13,098m2、周囲は石垣で固められ、西側に荷揚場が造られていた。また、島の北岸中央と江戸町の間に出島橋が掛けられていたが、これが市街に通じる唯一の出入り口になっていた。 島内の倉庫、住宅などは、町内の有力者25人に命じて造らせ、市内に散宿するポルトガル人をそこに住まわせて使用料を取り、その25人に分配した。 のち、鎖国令<寛永16(1639)年>によりポルトガル人が退去させられると、同18年、オランダ人を平戸のオランダ商館からここに移住させた。 日本人は役人、遊女などのほかの出入りは禁じられいた。オランダ人も無断で島から出ることを禁じられていた。当時の風俗・生活様式などは、南蛮屏風に描かれている。 商取引は、出島内に奉行所役人・町年寄・取引商人などが出かけて行なわれた。輸入品は、中国および東南アジア各地の生糸を筆頭に絹織物、錦織物、砂糖、皮革、鉱産物、木材など。輸出品は、小判、金細工、銀貨、銅、銅産物などが多かったという。 開国後三方が、また、明治26(1893)年には全面が埋立てられ往事の姿を失ったが、現在では当時を偲ばせる石倉、庭園などが復元されている。 |
フェートン号事件から45年後の嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊のペリーが浦賀に来航するのです。 そして、素面ではいられません。シュタインヘーガーでもグッとやり(飲み)ますか。 |
参考図書
読める年表 日本史 | 自由国民社 | |
長崎奉行 江戸幕府の耳と目 | 外山幹夫 | 中公新書 |
ふるさとの文化遺産 郷土資料事典#42 長崎県 |
人文社 |