主題;英国王室ハノーヴァー(ドイツ人)王家
ドイツ・ハノーヴァー選帝候からイギリス王家になった |
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前書き: |
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現イギリス王家は、ウィンザー(Windsor)王家と称している。 イギリス王室は、ノルマンデイー公ウィリアムⅠ世が開いた、
と王朝名は変わってはいるが血統は続いている。 |
1.ノルマン王家: |
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イギリスでは、5世紀にローマの支配が終わって北ドイツからアングル、サクソン人が、デンマークからはジュート人がイギリスに入っていった。 原住民であるブリトン(ケルト)人は、ウエールズやスコットランドへ追いやられ、侵入した上記ゲルマン人は、それぞれイースト・アングリア、東部ミッドランド、ノーサンブリア及びエセックス、サセックス、ミドル・セックス、ウエセックスそしてケント、ハンプシャーなどに住み着いた。 8世紀終わりから9世紀にかけてバイキング(ノールウエイ)とデーン人が侵入したが、10世紀半ば前までにサクソン系のウエセックス王家によっていったんは駆逐される。しかしながら11世紀はじめにはデンマーク王にのっとられる。 1042年デンマーク王の系統が死んで、ウエスト=サクソン系旧王家のエドワード(懺悔王)が王位についた。 1066年エドワードが死ぬと、フランス・ノルマンデイー公ウィリアムがイギリスに侵攻し、イングランドの王位(ウイリアム1世)についた。これをノルマン・コンケストと言う。 ウイリアム1世は2頭のライオンを王の紋章に用いた。王朝がウィリアム1世・ウィリアム2世・ヘンリー1世・ステイーヴン王(ウィリアム1世の娘の子)と続き、ヘンリー2世(ヘンリー1世の娘の子/プランタジニエット朝)に引き継がれた時、ライオンは3頭になり、現エリザベス2世の紋章にもこのライオンが残っている。 |
2.プランタジニエット王家: |
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ヘンリー2世(1154~1189、以下在位期間)は、フランス国内に母マチルダ(ヘンリー1世の娘)からノルマンデイー公領、父ジョファリーからアンジュー伯領他2箇所・妻エリーナの相続領アキテーヌ公領他3箇所の領地を所有することになり、フランス領土の2/3を支配した。 プランタジニエット王家は代々男系が相続して来た。エドワード3世(1327~1377)の母はフランス王の娘であったことから、フランス王位継承権を主張し始めた。 フランス王家がカペー王家からバロワ王家に変わり、1337年フランス国王フィリップ6世はアキテーヌ領の没収を宣言したため、いわゆる「百年戦争」が始まった。 このエドワード3世以来イギリス王家の紋章にフランス王家の「ゆりの花」が書き加えられた。 |
3.ランカスター&ヨーク王家: |
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エドワード3世の死後、王太子(The Black Prince)の子リチャード2世(1377~99)が即位する。 リチャード2世は、祖父エドワード3世の3男である叔父のジョン(ランカスター公)が死亡すると、その領地を没収したため、その子に反乱を起こされ王位を簒奪される。 これがランカスター王家の始まりでヘンリー4世(1399~1413)からヘンリー6世(1422~61、70~71)までの3代続いたが、ヨーク家との間で王位継承をめぐって争いが起こる(バラ戦争)。ヘンリー6世を破って登場したのがエドワード3世の5男(ヨーク公)の曾孫でエドワード4世(1461~70、71~83)として即位する。 ヨーク王家はエドワード4世、5世、リチャード3世(1483~85)と25年で幕を閉じる。 リチャード3世はエドワード4世の弟であるが王位を簒奪した。シエクスピアーの「リチャード3世」では悪王として描かれている。両王家ともプランタジニエット王家の分家である。 |
4.チューダー王家: |
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リチャード3世を破って王位についたのが、リッチモンド伯ヘンリー・チューダーでヘンリー7世(1485~1509)として即位し、ヨーク王家初代エドワード4世の娘エリザベスと結婚した。 ヘンリー・チューダーの母はランカスター公ジョンの曾孫にあたる。王位は7世の子ヘンリー8世、その子エドワード6世、6世の異母姉メアリー1世、エリザベス1世(1558~1603)と続くが王位継承者が途絶えてしまう。 |
5.ステュアート王家: |
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エリザベス1世は、父ヘンリー8世の姉マーガレットの曾孫であるスコットランド王ジェームス6世にイングランド王位を継承させた。ジェームスの母はスコットランド女王メアリーでエリザベスはこのメアリーを処刑している。ジェームス6世はイングランド国王ジェームス1世(1603~25)として即位した。この時からイングランドとスコットランドは連合王国となり現在に至っている。 ジェームス1世の後チャールズ1世(1625~49)が即位したが、王と議会が対立し市民革命(The Civil War)が起こり、王は議会によって死刑宣告を受け処刑される。11年間の共和政治の後、王政復古しチャールズ2世(1660~85)が国王に即位する。 チャールズ2世の後を継いだのは、カトリック教徒で弟のジェームス2世(1685~88)であった。 ジェームス2世に男子が生まれ、今後カトリック教徒の王が続くことを恐れたイギリス国内から、ジェームス2世の娘メアリーと結婚していたオランダのオレンジ公ウイリアム3世に対してイングランド侵攻の要請がなされた。オレンジ公ウィリアム3世はチャールズ1世の娘メアリーの子供でもあり、ジェームス2世の甥にあたる。 1888年ウィリアムがイングランドに侵攻すると、国王ジェームス2世はフランスに亡命した。 ウィリアム3世(1688~1702)とその妻にしてジェームス2世の娘メアリー2世(1688~94)は共同君主として即位した。これを名誉革命(Glorious Revolution)と呼ぶ。 ウィリアム3世は王位継承令(The Act of Settlement)を発布し「イングランド王位はスチュアート王家の血を引く、プロテスタントにかぎる」とした。 ウィリアム3世の死後、メアリー2世の妹アン女王(1702~14)があとを継いだ。 アン女王に跡継ぎがなかったためスチュアート王家はその幕を閉じた。 |
6.ハノーヴァー王家: |
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イングランド王位継承権第一位は、スチュアート王家初代ジェームス1世の孫ハノーヴァー選帝候及びブラウンシュヴァイク・リューネブルグ公妃であるゾフィアであったがアン女王に先立つ3ヶ月前に死亡してしまった。 したがって、ゾフィアの長男ジョージがハノーヴァー王家初代ジョージ1世(1714~27)として即位した。 ジョージ1世のあとジョージ2世(1727~60)、2世の孫のジョージ3世(1760~1820)と続くが、3代目にしてやっと英国生まれの王になった。ハノーヴァー選帝候領はナポレオン失脚後のウィーン会議(1814年)にてハノーヴァー王国となったのでジョージ3世はハノーバー王国国王を兼ねた。ハノーヴァー王国は1866年プロイセン王国に併合される。 ジョージ3世のあとジョージ4世(1820~30)、4世の弟ウィリアム4世(1830~37)、その弟ケント公エドワードの娘ヴィクトリア女王(1834~1901)と続く。 ジョージ1世以下ハノヴァー王家各王の王妃は全てドイツ人であった。ヴィクトリア女王の夫もドイツ人で母方のいとこザクセン・コーブルグ・ゴータ家プリンス・アルバートであった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫にあたる。 ヴィクトリア女王のあと59歳のPrince of Wales エドワード7世(1901~10)、現エリザベス女王の祖父ジョージ5世(1910~36)と続く。 |
7.ウィンザー王家: |
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ジョージ5世の家名は、祖父プリンス・アルバートの家名であるSaxe-Coburg-Gothaであった。 第1次世界大戦が始まり、敵対するドイツへの国民感情に王室家名が合わないため1917年になってその家名を王室の居城に因んで「Winndsor」に変更したのである。 ジョージ5世のあとエドワード8世(1936)が国王になったが、シンプソン婦人との結婚を望み退位した。 エドワード8世の弟ジョージ6世(1936~52)が継ぎ、ジョージ6世の娘である現女王エリザベス2世(1952~)に継承されている。 |
8.図録 |
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Annglo-saxon人のイングランド |
ヘンリーⅡ世の支配地域: |
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ノルマン王朝 初代ウィリアムⅠ世の紋章 |
ヘンリーⅡ世の紋章 |
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エドワードⅢ世の紋章 |
ジェームスⅠ世の紋章 |
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ジョージ1世の紋章 |
ヴィクトリア女王の紋章 |
参考図書、資料
英国王室史話 上/下 | 中公文庫 |
シェイクスピアを楽しむために | 新潮文庫 |
イギリス歴史地図 | 東京書籍 |
The Kings & Queens of England & Scotland | Dorling Kindersley Limited |