主題;『国手』『山』『藪』『筍』について

 
 毎日を健康で過ごしている時には、特に意識することもないのですが、ひとたび病気に罹ったり、怪我をしたときなどに頼りにするのが、お医者様です。

 余談です。現在、様付で呼ばれる職業は「医者」だけでしょうか。これ以外の人たちを「様付」で呼ぶ場合には、やや皮肉を込めたからかいの気分がわずかに混じります。 曰く、「代議士様」、そして「運転手様(バブル絶頂期の頃、深夜の盛り場でタクシードライバは、こう呼ばれたそうです。あの頃は良かった、と先日乗ったタクシーの運転手が言ってました)」。


 このお医者様のほとんどは、この仕事を天職と自覚され、人類の健康を守るべく、日夜様々な場所、場面で奮闘されています。しかし、ごく最近、一部のお医者様の不都合な出来事が報道されました。残念なことです。どんな世界・職業でもそうなのですが、著しい功績があっても滅多にほめられることは少なく、ほんの些細な不祥事でも針小棒大に伝えられることが多いものです。
 しかしです。気を付けて見てみると、お医者様についての不祥事の報道は、他の職業の人々に比べてやや多い様に思います。

 そこで江戸時代の医師たちが、どんな具合であったかを調べてみました。

 先ずは、その分類からです。 

1.国手(こくしゅ)

 名医のことです。
 晋の平公が病んだとき、治療に当たった医師に対し、「上医は国を救う」と言ったことから、この語が生まれました。国を医する名手の意味で絶大な尊敬を受ける医師は、この様に呼ばれます。例えば、佐藤国手、斉藤国手という様に用いられました。

 「医は仁術」と言いますが、全ての医師は誇りを持って、国手と呼ばれるよう精進していただきたいものです。

 そして、9月9日付の読売新聞には、次のようにありました。
 『内には10年に及ぶデフレが巣くい、外には核を弄ぶ隣人がいる。今ほど切実に、国を医する名手の待たれる時代もない。政権与党、自民党の総裁選は「国手」選びでもある』

 結果は、ご存じの通りです。
 本当に「小泉国手」と呼べるのでしょうか。期待したいものです。
 

2.山医者

 医は仁術の「仁」を「算」と心得る医師を「山医者」と言いました。「山」は、山師の山から来ているようです。
 薬の副作用を考慮することもなく、即効の奇薬を与える医者。お灸をところ構わずに施して、一時的な効果はあるが決して病気が治ることにはならない医者、などをこの様に呼びました。
 

3.藪医者

 この呼び方は、室町時代からの言葉と言われます。
 語源については諸説があります。その一つは、流行らない医者は高価な薬が使えず、藪に入っていい加減な草根木皮を採って病人に飲ませた。それ故、病人の信用は「零」、「藪井竹庵」などと言われ、ここからきたとするものです。
 一方、江戸時代のある随筆には、「世俗未熟の医をさして藪医といふ。本源、野巫医(ヤブイ)にて、薬功に呪い(まじまい)加持等を加えて病を療する医なり。そまつの医にかぎるべからず」とあります。加持祈祷を合わせて行う医者だと言っています。
 いずれにしても、未熟な医者を指していることには、違いありません。
 

4.筍医者

 ここまで来れば、もうこの分類は自明です。藪医者、藪医と呼んだ医者を単に「藪」とだけ言うこともあります。そして、その藪にもなれないのですから、「筍」です。
 筍医者とは、いみじくも言ったものです。
 
 こうして見ると、この分類は現代でも変わっていないことが分ります。

 江戸時代には医者への志願者が多くいました。当時の身分制度を破って世に出るには学者か医者になるかでした。そして、医者には資格試験もなく、収入も多かったことも一つの要因です。

 当時の人々が病気になると、軽い場合には先ず身近で得られる売薬や民間薬に頼りました。しかし、心配な病気ともなればやはり医者に駆けつけ、診察を受けるか、往診を頼んだのです。

 庶民が駆け込むことの出来た医者には「国手」は少なく、どうしても「藪」「筍」に頼らざるを得なかったのです。となると、江戸の川柳子は、自らの悲運を嘆くことなく、これを三枚目と扱い、こき下ろします。

 「殺すのも上手の女郎下手の医者」
 藪、筍は簡単に病人を殺してしまうのでしょう、男殺しの女郎と同列です。

 その他には、
 「藪医者の入った家に殺気立ち」
 「半殺しにして余人へと薮医言い」
 「一(ひと)思案ござると薮医こわいこと」  などなどです。
  しかし、悲運を笑い飛ばすだけではなく、医師の有り様を厳しく評する人もいました。

 江戸時代の黄金期は、文化・文政期(1804~30)です。ですが、この時期になると、幕府役人の堕落や富の偏在など、封建制度の矛盾が抜き差しならない状態に達していました。この文化13(1816)年に武陽隠士(匿名)が書いた「世事見聞録(せじけんもんろく)」があります。この中に当時の医者への評があり、やや長いのですが、これを引用してみます。
 

 官医以下、町医師・国々の医師も驕慢に構へ、療治の道に鍛錬を尽さず、只形姿を立派にのみ拵へ、利欲を稼ぐに精根を尽すなり。
 右体(みぎてい)、権式と名聞と利欲にのみ頓著して、人を助くる心を失ひ、いささかも病人の為を弁(わきま)へず、兎角療治の功を争ひ、譬(たと)へば何某に療治行き屈かずして、誰々は死にたると世間に謗り(そし)を受けん事を厭ひて、いまださほどにむづかしからぬ病人にも臆病を起し、病の先途をも見屈けずして中途にて断り、または私療治の過失にて仕損じたるも、本(もと)へ取り直さず、そのままに見捨てて他の医者へ譲り、大切の場に臨み、私過を隠して身遁れをいたし、または他の医師の丹誠にて直る前になりたるも、奪ひ取りて我功になし、又はおのれが欲情に心くらみて、大切に及ぶべきをも知らで、帰らざる事になし、兎角病人の為を専一とせず、我が為を専一とする故、種々の間違ひ出来るなり。

 また病家を撰ぶこと薄情至極にして、これまた富有にして謝礼の厚き向へは幾度も見廻り、上手の振りを売り、貧家は断りて参らず、或は弟子任せにして配剤の可否にも念を入れず。また弟子どもも同じく薄情にして、療治修行の為とて病人を種々取り悩まして余計の苦痛を懸け、或は診察未熟なる故、不相当の薬など与へて仕損ずる事ども多く、その弟子どもの仕損じも心に懸けず、一体弟子どもの教育の道も古来とは違ひ、甚だ疎略なり。病人の傍へ自身に手を引きて、容体を見せ聞かせ、納得させねば覚え難し。当時さまでに教育する師匠なく、病を救う親切もなく、眼前の利欲にのみ心を入れしものなり。そのほか軽き末々の医師に至りては、誠に売薬か贋薬同様の事にて不埒至極なり。当世は一体身カを労せず、遊楽に暮すを好む人情なるに、先づ医師は身楽なるもの故、都鄙に医業のもの追々沢山に出来、著り、飾り、人を詑かし、利欲を働くなり。

 
  まだ続くのですが、以下は略させていただきます。

 武陽隠士は、本当に怒っています。そして、この怒り方は現在にも通じます。
 遺伝子の解明ができて、医学は確実に進歩したにもかかわらず、お医者様の考えというのは、江戸時代とあんまり変わらないように思います。
 「医学」と「医術」は、異なる分野に違いありません。
 
  最後に、山東京伝作の『新版落語太郎花』にある一口話をご覧いただきましょう。
 

医者の家来が不届をしたといふて、医者大きに腹をたてこぶしをあげて打うとするを、家来手を合せて、どうぞ足蹴になされて下さりませ。あなたの手にかかって、これまで生きたものはござりませぬ。

 
 今回は、この辺りで失礼を!!。 
  

参考図書

続・時代考証事典 稲垣史生著 新人物往来社
[縮刷版]江戸学事典   弘文社