主題;ナポレオンのドイツ侵攻

 

1.アメリカ独立:

   植民地アメリカの宗主国であったイギリスが1773年、茶条例を制定し,赤字に悩む東インド会社に植民地での茶の「独占販売権」を与えた。これに対し植民地の住人はボストン港に停泊中の船を襲い、積荷の茶を破棄して抗議した。
 1776年7月4日には北アメリカ諸州の住民が、宗主国イギリスからの独立を宣言した。植民地駐留軍と独立軍の戦いになったが、フランスはイギリスと敵対していたことからアメリカを支持した。

 1783年フランスの仲介によりベルサイユにて講和会議が開かれイギリスは、アメリカ独立を承認した。13州からなるアメリカ合衆国は、自由と平等、人間的権利の尊重という近代政治の基本である民主主義を実践することになったのである。

 自由と平等、人間的権利の尊重は白人だけのものであり、黒人の権利が名目的にせよ認められるのは、1863年のリンカーン奴隷解放宣言であった。しかし、実質的には1964年ケネデイ大統領の包括的公民権法の成立まで待たねばならなかった。

2.フランス革命:

   アメリカが独立した頃、フランスでは国王ルイ16世と貴族及びキリスト教会が封建的な特権を維持していた。皮肉にもアメリカ独立に手を貸したフランス自身に、アメリカの民主主義が影響を及ぼしはじめたのである。

 市民階級の要求により1798年7月初めには『立憲議会』が設立された。しかし、宮廷から憲法制定に反対の意向が示されるやいなや住民の暴動に発展する。

 1798年4月14日パリ『バステイーユ』監獄が住民に襲撃され、いわゆるフランス革命が勃発。8月、議会は「封建的特権の廃止」を宣言し、三色旗にこめられた自由・平等・博愛の人権宣言が採択された。キリスト教会財産は国有化され、1793年には国外逃亡を図った国王ルイ16世が処刑された。

 1791年皇帝(オーストリア・ハプスブルグ家)レオポルド2世は、プロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世と共同でフランス革命反対の宣言をし、革命を封じ込めるため対フランス同盟を結ぶ。

 1792年フランスは、オーストリアに宣戦し、志願兵による革命軍は、フランス国内へ侵入して来たプロイセン・ヘッセン軍及びオーストリー軍を破り、逆にその勢いでライン川沿岸及びフランクフルトなどに侵入した。

 ルイ16世処刑のあとロベスピエールによる恐怖政治からナポレオンの登場となる。 

 ナポレオンの改革は、法律の整備いわゆるナポレオン法典の制定により市民の権利尊重・結婚や家族の地位を保証したことにある。またキリスト教会の領地を没収聖職者は国家の公務員となった。高等師範学校・理工科学院の設立、メートル法の採用、国民軍創設、など近代国民国家の基礎を樹立した。

3.ナポレオン・ボナパルト:

   ナポレオンは1769年8月コルシカ島で生まれた。コルシカ島はナポレオンが生まれる1年前にジェノヴァ共和国からフランスに売却さればかりであった。
 フランス語がよくわからないにもかかわらず、9歳でフランス本土の陸軍幼年学校に入学後、士官学校に進み、1785年砲兵少尉に任官した。1792年23歳の時ニース砲兵連隊に配属された。

 ナポレオンは、軍隊でのリーダーシップは指揮官自身と考え、アレキサンダー・ハンニバル・シーザーなどに心酔していた。
1793年末、当時イギリスに占領されていたツーロン港奪回で名を挙げ、ロベスピエールの弟の推挙により少将に昇進する。1794年イタリア軍砲兵司令官となる。テルミドールのクーデターでロベスピエール派とみなされ、一時逮捕されたが、2週間で釈放される。

 1795年10月、議会が王党派の群集に包囲された際、特命により鎮圧に成功し、国内軍指令官に登用される。1796年にはイタリア遠征軍指令官としてオーストリア軍を破り、カンポ・フェルミオ条約を結んで凱旋した。ライン左岸、オランダ,北イタリアがフランス領となった。

 1798年、エジプトに遠征したが、99年にはイギリス艦隊のネルソンによってフランス艦隊が撃破され10月に帰国。11月にはクーデタを起こし、執政政府を樹立した。その後、第一執政となり軍事独裁へと進む。
 1804年に皇帝となり、第一帝政が始まる。同時にこれまでの革命戦争は侵略戦争に変わり戦火はヨーロッパ大陸全土へと広がった。

 1805年には神聖ローマ帝国の枠組みを壊し、バイエルン、ビュッテンブルグ、ザクセンを王国とした。1810年にはエルベ川以西からライン川までのハノーファーを含む北ドイツにヴェストファーレン王国を作り、弟を国王にしている。

 1812年、モスクワ遠征に失敗し、1814年退位。「エルパ島」に流される。翌年脱出して、「百日天下」を樹立したが、ワーテルローの戦いで敗れ、「セント・ヘレナ島」に流され、1821年5月5日、51歳でその生涯を終えた。


4.ルードビッヒ・ファン・ベートーベン:

   1770年ライン河畔の町ボンで生まれた。父は宮廷音楽家であった。1789年パリでの革命騒ぎがあったのはベートーベンが18歳の時であった。1792年ウィーンへ行き貴族の支援を受けて、作曲活動に従事するが、フランス革命の影響もあり、市民意識に目覚めていたのではないだろうか。

 旧体制の崩壊が進む中で、いままでのように貴族に対し卑屈になることはなかったのである。

 ナポレオンが皇帝になったことに激怒したベートーベンではあったものの交響曲第3番『英雄』はやはりナポレオンに捧げたものに違いない。

5.あとがき:

 

 パリ・アンバリッド(Invalides)は、傷病兵を収容するための施設であったが、現在は戦争博物館になっていて25年前に訪れたことがある。ここにはフランスが幕末の頃に薩摩・長州と戦った際の戦利品として、島津藩の『丸に十の字』の旗や広場には毛利藩の紋がついた大砲が飾られていた。
 またドームでは、セント・ヘレナ島で死んだナポレオンの遺骸が入った棺を見た。
 最近シラク・フランス大統領は、ナポレオンがイタリア戦役の際通過したスイスの村での迷惑料を支払うとのニュースを聞いたような気がする。ナポレオンは今尚、意外と身近な存在である。 


参考図書、資料

エロイカの世紀 講談社現代新書
素顔のリーダー 文春文庫
物語ドイツの歴史 中公新書