主題;「江戸時代の初等教育」について
いつもの例にも増して大袈裟な題名ですが、ひらったく言えば「寺子屋」の話です。
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1.寺子屋の呼称 |
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寺子屋という呼び方は、中世の寺院における世俗的な教育の名残と言われています。 中世の寺院は、僧侶養成のための教育以外に武士や庶民の子弟の初等教育を行いました。これを世俗教育といいますが、寺院での教育は師弟が起居を共にしての修行で、子弟は入学から卒業するまで寺院に泊まり込みました。そこで入学することを「寺入」とか「登山」といい、修行を終えて寺から出ることを「下山」といいました。寺院には山号がありますので「山」と言ったのです。そして寺入りして教育を受ける子供たちを「寺子」といいました。 この呼び方が江戸時代まで伝えられて、「寺子」が学ぶところ、若しくは、家屋を「寺子屋」と呼ばれるようになったのです。 |
2.発生と発展、及びその要因 |
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寺子屋に出現がいつ頃なのか、はっきりしませんが、慶長年間(1596~1615)の末頃ではないかと言われています。 そして、それから約100年後の享保六(1721)年頃の江戸には、約800人の教師がいたと言われています。文化・文政年間(1804~30)以降、庶民の就学熱は更に高まり、幕末から明治時代の初めの段階では、全国では15,560、江戸では約1,100の寺子屋があったとのことです。 就学熱の高まりの背景には、物品の流通機構が整備されて経済活動が発展し、農民・商人・職人などの庶民にも読み書きや算術の基本的な知識の習得とその能力が必要になってきたことが挙げられます。 |
3.教師(師匠)と堂号 |
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寺子屋では、教師を師匠と呼んでいました。教師は、農村ではその地域の有力者、学識者、僧侶、神官などが地元への奉仕としてなることが多くあったようです。一方、江戸ではそれを専業とする人たちでした。その人たちは武士と町人とが半々で、僧侶、神官はあまりいませんでした。 武士は、御家人、あるいはその隠居、江戸屋敷に住む諸藩の藩士でした。 町人の中には魚屋や八百屋の親爺がにわかに転職したため、指導力や知識が覚束ない師匠がいたこともあったようです。 また、一般的には男の教師が男の子を、女の子は女性の教師が指導したとのことです。ですから、寺子屋には女性の教師がいたことになります。 寺子屋は、それぞれ「○○堂」「○○塾」といった堂号を持っていました。そして、その評判を維持するために、優秀な弟子(生徒)を教師の養子にして、その後継者とすることも行われました。 |
4.教科書と学習課程 |
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江戸の寺子屋での教科書と学習課程は、大よそ、次のようでした。 「いろは」の手習本から始めて「往来物*1」に入り、商売に関する知識や手紙の書き方を学び、さらに「江戸方角*2」や「国尽し*3」などで地理を修め、「塵刧記(じんこうき)*4」で算術を学びました。 女の子は「庭訓往来(ていきんおうらい)*5」などで手紙の書き方はを習いましたが、習字の初歩の手本は、教師自らが書いたものを使っていました。 武士が少なく商人や職人が多く住んでいた日本橋、浅草、深川などの下町では「商売往来」が必ず使われ、更に職人の子供には「番匠往来(ばんしょうおうらい)*6」が使われました。また、この地域の子供たちは商店に奉公するため、そろばんを学ぶことは必須でしたから寺子屋では、必ずこれを教えていました。 これに対して、商人や職人が少なく武士が多く住んでいた赤坂、牛込、四谷近辺では、「商売往来」はあまり使われず、「唐詩選*7」や「千字文(せんじもん)*8」など、教養的な内容のものが多くもちいられていました。 幕府の関与は、正徳元(1711)年正月、町奉行所に江戸の寺子屋の師匠を集め、家族の親睦、賭博や喧嘩の禁止などの庶民教育の目安となる「九ヵ条の触れ*9」を発しています。そして、その翌年教科書用に「正徳御条目」として刊行され、全国で使われました。江戸中期以降、幕府は寺子屋を庶民教育の機関として認めていたことが分ります。 |
注; | |||||||||||||||||||
*1 | 往来物; | ||||||||||||||||||
平安後期から明治初期まで広く用いられた初等教科書の総称。往来とは、手紙とくに往復書簡のことで、往復書簡文例を教科書としたことからこの名称が始まったが、後に書簡集の形をとらず、語彙や短文を集めたものも往来を呼ばれ、往来初等教科書(読本で、同時に手習の手本)の代名詞となった。 江戸期には教育の普及と共に、多種多様の往来物が作られ、知られているだけでも約7000種と言われる。 |
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*2 | 江戸方角; | ||||||||||||||||||
手紙文の中に、江戸城を中心に各方角にある地名や有名な社寺の名を150ほど羅列したもの。 | |||||||||||||||||||
*3 | 国尽し; | ||||||||||||||||||
日本諸国の国名を書き連ねて、声に出して暗唱しやすい様に綴ったもの。 | |||||||||||||||||||
*4 | 塵刧記; | ||||||||||||||||||
吉田光由が著わした算術書。中国の数学をわが国の事情にあわせて、日常生活に関係の深い事柄から自然に数学を理解するように組み込んだ入門書。 寛永四(1627)年の刊行。 |
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*5 | 庭訓往来; | ||||||||||||||||||
初学者の手紙用の模範として一年間の消息文を集めたもの。室町前期の学僧、玄恵(げんえ)の作と言われる。 | |||||||||||||||||||
*6 | 番匠往来; | ||||||||||||||||||
大工などの職人用の文字や言葉を集めたもの。 | |||||||||||||||||||
*7 | 唐詩選; | ||||||||||||||||||
中国、唐代の詩人127人の詩選集。明の李攀竜(りはんりょう)の選といわれるが確かではない。わが国には江戸初期に渡来し、漢詩の入門書として広く使われた。 | |||||||||||||||||||
*8 | 千字文; | ||||||||||||||||||
中国梁の周興嗣(しゅうこうし)が文字を習得する教材として千字を集めた初級の教科書。 | |||||||||||||||||||
*9 | 九ヵ条の触れ;(口語訳) | ||||||||||||||||||
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5.学習日数 |
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江戸では、年間300日程度、農村ではそれよりやや少ないというのが一般的でした。つまり、休みの日は、毎月の定休日、五節句、年末年始の休暇、及び臨時のそれを合わせて50日~60日ぐらい。地方の農村では、これらの他に農繁期の休みが入っていたからです。 |
6.学習時間 |
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毎日6、7時間で、朝は7時半から始まり、昼食は家に帰ってとり、戻ってから再び学び午後2時半頃に終了しました。しかし、午後には2、3割の子供がいなくなるのが普通でした。小さい子供は手習に飽きていまうこと、そして大きい子供は家の手伝いをする場合があったからです。 また、土用の間は「朝習い」といって、日が昇る頃に登校して学習し、朝食を帰ってとり、また登校して学習を続け、午前中に終わるということもありました。 |
7.学習方法 |
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師匠が寺子の全員に一斉に授業をすると言うことはなく、自分の前に3~6人の子供を座らせて代る代るに文字の筆法と読み方を教えました。その際、子供の能力・学力や興味の度合を考えながら次第に難しい教科書や字体に移っていきました。この間、他の子供たちは、与えられた手本を写したり、兄弟子の指導を受けることもありました。 ところで、子供たちが学んだ漢字は、初めから行書体で覚えました。江戸時代の公文書は日本風の行書体の一つである「御家流(おいえりゅう)」の書体で記すことになっていたからです。ですから、手習い(文字の筆法と読み方)は、江戸、農村に関わらず寺子屋へ入門した子供たちが学んだ必須の事項でした。 |
8.学習期間 |
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寺子屋に入門する年齢と時期ははっきりと決まっていませんでした。江戸では、5歳から8歳の間に、そして二月の初午の日(はつうまのひ;二月になって最初の午の日)または、六月六日に入門というのが一般的でした。 この時、必要なものは、硯箱、筆、紙、墨、天神机(勉強机)、盲絣の上着、そして、先輩たちに配るお菓子などでした。 学業の終了は、男の子の場合は11歳です。これはこの年齢になると奉公に出るのが一般的だったからです。しかし、女の子の場合は、12~13歳だったと言われています。 |
9.謝礼 |
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師匠への謝礼としては、定められたものはなく、次のようなものがありました。
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これらは、父兄の経済状態に合わせて、金納が中心でしたが物品などによる物納もあったようです。どちらにしても父兄の負担は、小さなものではないと考えられます。 |
10.上級学校への進級 |
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寺子屋での学業を終了し、更に上級の知識や技術を習得したいと望む子供たちは「私塾」へ通いました。全国的に見て私塾の数は、寺子屋の十分の一でしたから、寺子屋を終えた子供の1/10が進学したことになります。私塾での教育も、寺子屋と同様に生徒の個性を尊重して行われました。 寺子屋や私塾は、現在の学校に比べれば施設や指導方法などが十分に整備されていたとは言えず、教科書もまちまちでした。しかし、教師の生徒に対する権威や愛情は、制度に基づくものでなく、自然に生じた家族的なものであり、特に権威はその人の人格や実力に根ざしたものだったのです。 |
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以上が江戸期の「寺子屋」の概要です。 残念ながら、ここで調べた限りで寺子屋を終了した子供たちの「学力」(この言葉の定義を明確にせず使います)が、どの程度であったかは分りません。しかし、子供たちの90%は、そのまま流通や生産活動の成熟した社会構成の中に組み入れられて日常生活を営むことが出来たのですから、いわゆる「読み書きそろばん」の基礎は、しっかり身につけたことと思われます。 上述したように、教師の中には「師匠」とは呼ぶに耐えない人がいたり、儲け主義のいい加減な寺子屋も在ったと想像されます。しかし、当時のこの世界(教育制度?)には、規制もない自由競争でしたから、そんな教師や寺子屋・塾は淘汰されたに違いありません。 子供たちの向学心や向上心を満たすため、自然発生的に成立した民間の教育機関であった寺子屋が、世界最高水準の教育普及度を維持し、文明開化を推進する原動力となる人材を提供したことは、間違いのない事実です。 |
話は変わります。現在の初等教育の現状です。 |
義務教育課程の学習内容の3割削減を伴う「新学習指導要領」が、平成14(2002)年度から実施されました。その結果、更に学童の学力を低下させると危惧する世論(一部には、既に一朝一夕には挽回できないほどに低下しているとの指摘もあります)を考慮したのでしょう、文部科学省はこれを見直すことにしたとの報道がありました。 ご存じのように、学習指導要領は現代日本の有識者(勿論、教育学者、教育者と言われる人も含みます)で構成される「中央教育審議会」の答申に従って作られます。その学習指導要領は、現代の子供たちを「アホやバカ」ばかりでしか教育できないとすれば、「何をやってんだ!」、「どうしてくれるのだ!」と言いたくもなります。 江戸時代の寺子屋・私塾の存立からすれば、教育制度の規制緩和などと生優しいことを言わず、規制廃止とすべきではありませんか。子供たちの教育は、国家の責任でなく、親と子供の自己責任にしなければ、この国は滅びます。公僕と称していながら、国家を思わず、自らの益を主体に考え、実行することしか出来ない人たちに、将来を担う子供たちの教育を任せることなぞ、恐ろしくって心配で、夜も眠れなくなります。 |
何やら、辛く、寂しい話になってきました。今回は、この辺りで。 |
参考図書
大江戸万華鏡 |
牧野 昇 他 (監修) |
(社)農山漁村 文化協会 |
江戸の寺子屋入門 算術を中心として | 佐藤健一編 | 研成社 |
[縮刷版]江戸学事典 | ![]() |
弘文社 |
学力があぶない | 大野 晋 上野健爾 | 岩波新書 |