主題;「おくのほそ道・芭蕉のこと (一)」

1.芭蕉出生:
 芭蕉は寛永21年・正正保元年(1644年)伊賀上野にて生まれた。
 家族は、父・与左衛門、母、長兄・半左衛門、ほかに一姉三妹。
 父・与左衛門は上柘植村の無足人(準武士待遇の農民)松尾氏の出。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられる。
2.「天正伊賀の乱」:
 天正9年(1581年)9月に起きた「天正伊賀の乱」は一大殺戮戦として名高い。
 永禄12年(1569年)信長は伊勢進攻後、次男信雄を伊勢国司北畠具房の養子として押込み和睦した。天正3年(1575年)には、養父を追放し信雄は伊勢国司となった。
 天正6年(1578年)北畠信雄は伊賀を侵攻し始めたが、伊賀の地侍・百田藤兵衛らがこれに先制攻撃をかけ、信雄は 敗退した。
 これに激怒した信雄は報復の機会を伺っていたが、十分な根回しや準備もせず功を焦る余り天正7年(1579年)9月、伊賀を攻めた。
 結果は惨憺たるもので、山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受け、大半の部下を亡くしてしまう。
 当時、京にいてこの事を知らなかった父信長は「言語道断曲事の次第に候」 (信長公記)と激怒した。これを第一次天正伊賀の乱という。
 そして2年後の天正9年(1581年)9月、信長は伊賀を徹底的に殲滅させる戦術に出た。信雄を総大将として六万もの大軍(一説には三万余とも)を周囲六道から一斉に攻め込ませたのである。
 迎え撃つ伊賀勢は約九千、兵力差は如何ともしがたく、あっという間に四十九院をはじめとする神社仏閣・城砦は焼き払われた。このとき松尾家の所領が失われ没落したと思われる。
3.芭蕉出仕:
 寛文2年(1662年)芭蕉19歳の時、藤堂藩伊賀付侍大将藤堂良精(五千石)の嫡子良忠(俳号蝉吟)の近習役として仕える。蝉吟主催の句会(俳号宗房)に加わり、北村季吟(1624~1705)の指導を受ける様になった。
 しかし、寛文6年(1666年)主君蝉吟の死去により職を失う。
  寛文12年(1671年)は菅原道真の770年忌にあたり1月、伊賀上野天満宮に自判三十番句合「貝おほひ」を奉納する(俳号 宗房)。
4.芭蕉江戸下向:
 延宝4年(1676年)7月江戸へ下り、日本橋本舟町の名主卜尺方に世話になる。(または小田原町の杉風方などの説がある。)
 芭蕉は江戸へ出て来てから、李白にあやかり「桃青」の号を用いる様になった。
 すでに延宝8年(1680年)には江戸俳壇で一流の地位を得ていた。延宝9年春、門人の李下から芭蕉をおくられ庵の号とした。天和2年(1682年)より俳号を「芭蕉」に変えている。
 江戸時代初期は言葉遊びや滑稽などを主体とした談林派が流行っていたが、芭蕉は李白・杜甫・西行の風雅の道を追う新風を宣言する。
5.「おくのほそ道」の旅:
 元禄2年(1689年)3月27日、曾良を同伴し「おくのほそ道」の旅に出る。 当初芭蕉は旅なれた乞食坊主の「路通」を伴うつもりであったが、門人等の反対で鹿島詣にも同行した「曾良」になった。しかし路通は敦賀まで芭蕉を向えに出向き大垣まで同行している。
 芭蕉が旅した陸奥・出羽・三越(旧古志の国)には数々の歌枕があり、古人(能因・西行・義経主従など)に会う旅であった。
 元禄2年は西行の500年忌にあたる。又、義経が高館で死んだ年が文治5年(1189年)で500年目でもあった。
 深川を此岸とし隅田川を三途の川そして千住を彼岸としてあの世への旅に見立てた。
 元禄2年3月27日江戸深川を旅立ち、同年9月6日に美濃大垣に到着している。芭蕉は旅の紀行文をまとめ推敲を重ねた後、元禄7年浅草在住の能書家柏木素龍に清書を託し題箋のみ自筆の 「おくのほそ道」を伊賀上野で家を守っている兄半左衛門への都度(つと=土産)として渡した。
 芭蕉の死後、この「おくのほそ道」は芭蕉の遺言により、兄半左衛門から去来に贈られた。去来からその縁者へと伝わり、敦賀在住の西村家に伝えられて来たという 「おくのほそ道」が昭和18年芭蕉250回忌の年に、潁原退蔵博士によってその原本であることが確認されたのである。これを西村本と呼ぶ。
 一方、芭蕉の紀行文「奥の細道」は芭蕉の死(元禄7年)の8年後、元禄15年に出版されている。
 これは去来の持っていた原本を透き写し、板刻にて版行されたものである。  平成8年11月に芭蕉の自筆稿本が出て来た。これは阪神・淡路大地震の時神戸の蔵の中に保管されていたが無事であった。大阪在住の中尾氏所有であるが、この機会に世に出す決心をされたものと思われる。74箇所にわたって貼紙や書入れによる訂正がなされている。

 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 で従来、尿は「尿前の関」から「しと」とよませていた。 芭蕉の自筆稿本では尿>に「バリ」と傍訓されている。
 芭蕉は死ぬまで推敲を重ねていた。 
6. 句について:
6.1 「あらとうと青葉若葉の日の光」
     梵語の”Potaraka”は観世音菩薩の住む世界で、海の彼方、インドの海岸にあるとされた。この補陀落をめざして小舟で海を渡ろうと足摺岬、室戸岬、那智、熊野(和歌山県)など補陀落(ふだらく信仰の場所から船で 補陀落をめざした。
 補陀落が二荒になり音よみ「にこう」を「日光」に弘法大師が変えたとのこと。
 当初「あなとう」だったことから、「あらとう」は「改め給ふ」の意ではないかと思うのだが。
6.2 「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」
   柳に関しては、万葉集を含め以降の歌集には数多く歌われている。
 特に、
 西行の「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」が知られ、芭蕉も本文に引いている。

漢詩に詠われた柳でみると

◇ 王維(701~761)の「送元二使安西」【元二安西に使するを送る】という詩

渭城朝雨潤軽塵
客舎青青柳色新
勸君更盡一杯酒
西出陽関無故人
渭城の朝雨 軽塵をうるおす
客舎 青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん
 http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/classics/poem/ohi.html

◇ 王安石(1021~1086)の「即事」という詩

河流南苑岸西斜
風有晶光露有華
門柳故人陶令宅
井桐前日總持家
河は南苑を流れ岸は西に斜めなり
風に晶光(しょうこう)有り露に華有
門柳(もんりゅう)は故人陶令が宅
井桐(せいどう)は前日(ぜんじつ)総持が家
 http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/classics/poem/ohi.html

◇ 「蘇東波詩選」(1036~1101)(岩波文庫:小川環樹・山本和義選訳)に「柳」という詩があり、「立ちる」をこの漢詩に出典を求めたとの事例を紹介する。

今年手自栽 
問我何年
多年我復来 
揺落傷人意
(今年 手自ら栽え)
(我に問う 何れの年にか去ると)
(多年 我 復た来たらば)
(揺落して人意を傷ましめん)
この地に任官し記念に柳の木を自ら植えた。
自分はいつこの地を去ることになるのだろう。
この地を離れいつの年かまた来ることがあるならば
秋風に葉を散らさせ自らを慰めよう。
 http://homepage2.nifty.com/melkappa/classic-cover.htm
6.3 「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」 曾良
   芭蕉一行は新旧の関所(跡)を訪ね待望の陸奥入りをはたした。古人は関所を越える時、衣冠を改めたとのことで卯の花で代用。
 芭蕉は白河の関を越え、松島・平泉・尾花沢・山寺・最上川・「出羽三山・象潟・越後・越中・金沢・越前・敦賀・をまわって大垣から伊勢神宮への船に乗るところで旅を終えている。

参考図書、資料

http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm#t01
http://www.zimo-p.com/iga/iga_rekishi5.html
他3件本文に記載
松尾芭蕉「おくのほそ道」の旅 梅津 保一氏 セミナー予稿
新版 「おくのほそ道」 角川文庫(平成15年3月 初版)