主題;「東照権現」について

 

 本紙#49では、「浅草東照宮」なるお話を書かせていただきました。今回は、その前説とでも位置付けられる「東照権現」について述べてみます。

 ご存じの如く、「東照大権現」とは江戸幕府の開祖・徳川家康の諡号(しごう)です。
 話は、前回の再掲となってしまいますが、その一代記からです。

1.徳川家康の一代記
 家康は、天文11(1542)年12月26日、三河国(愛知県)岡崎城で生まれました。 当時は、戦国時代と呼ばれる戦乱の世でした。幼少の頃から13年間今川義元に人質として辛酸をなめて育ち、桶狭間の戦いの後は、織田信長の片腕として戦国乱世を戦い、信長亡き後は、破竹の勢いで天下をなびかせて行く豊臣秀吉の後塵を拝し続けていました。
 「海道一の弓取り」として余人を瞠目されながらも、天下人ではありませんでした。そんな家康でしたが、慶長3(1598)年太閤秀吉が死んで、雄飛の時が来たのです。慶長5(1600)年9月、関が原の合戦で勝利を得て、慶長8(1603)年2月12日、朝廷より征夷代将軍に補任せられ、江戸に幕府を開くことを認められたのです。時に62歳でした。
 以来、今年がその400年目とのことで、東京の各地では記念行事が開催されています。
 ちなみに東京・両国の江戸東京博物館では、7月19日より8月31日まで「徳川将軍家展」が開催されています。
 ところが、その2年後の慶長10(1605)年4月には、将軍職を秀忠に譲り、駿河国駿府に引退したのです。引退したと言っても、「将軍職は徳川家が世襲する」ということを天下万民に公示するための手段でした。
 家康は、大御所と呼ばれ大坂冬の陣・夏の陣では総大将として戦って豊臣氏を滅亡させてしまいます。その後、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度等の諸制度を整えるなどして、徳川幕府の礎を築いたのです。
 本朝・異朝を問わず、創業者の業績は偉大なものです。そんな家康も元和2(1616)年4月17日(75歳)、駿府で亡くなりました。
2.家康の遺言
 元和2(1616)年、正月下旬の発病以来一進一退の病状にあった家康は、4月に入ると死を覚悟したのでしょう、2日に側近中の側近本多正純と金地院崇伝(こんちいんすうでん)、それに南光坊天海(なんこうぼうてんかい)の三人を病床に呼び、遺言をしました。当日の崇伝の日記によると、その内容は次のようなものです。
 「自分が死んだら、遺骸は久能山へ埋葬し、葬儀を増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺(だいじゅじ)に祀れ。一周忌が過ぎたら、日光山に小さなお堂を建て、神としての自分の分霊を祀れ(勧請せよ)、関八州の鎮守となろう。」

 こうして、4月17日の午前10時過ぎ、家康はその75年の波瀾に満ちた生涯を閉じたのです。
 遺骸は当日の深夜、駿府城から久能山に移され、明を消し、御幣を奉じ、鈴が振られ、祝詞が読み上げられ、内々陣には鏡が納めるという、唯一神道の「閑々之儀式」で、久能山に埋葬されました。そして、秀忠は久能山上の社殿を大明神造りで建てよと命じたのです。この段階まで、すべては唯一神道によって行われ、従って家康は問違いなく『○○大明神』として祀られるはずでした。
3.明神から権現へ
 家康の埋葬が終り、駿府城に帰った秀忠の面前で、崇伝と天海の間に大論争が起こりました。天海は、家康の真意は天台宗の山王一実(さんのういちじつ)神道による権現号での祭祀であると主張したのです。
当初は全く耳をかさなかった秀忠も、結局は天海に一任すると決断したのです。
 天海は京都に赴き、朝廷から、東照、東光、威霊、日本という四つの神号案を受け取ります。東照大権現の神号は、天海がその中から選んだものだったのです。

 この明神から権現への大転換の背景には、幕府にとって、どうしても家康が類まれなる偉大な神であらねばならないという絶対的な条件が必要でした。ですが、『明神』は、家康がその死の前年に白ら破却を命じた豊国廟の秀吉につけられた神号でした。天海の進言の中で、「大明神となった豊臣家は、すぐに没落したではないか。そんな神号は、偉大な家康公にはふさわしくない」という天海のという一言が、秀忠の心を動かし、東照大権現の誕生に繋がったのです。
 ところで、「権現」という言葉の意味は「仮(かり=権)に現れる」と言うことです。家康という実存の英雄がその死後、彼自身の本地仏(ほんちぶつ)である薬師如来のはからいによって東照という名の神の姿を持って、再びこの世に仮(権)に現れたのです。これは天台宗の教義に基づく本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想(この場合は、山王一実神道という仏教神道)によるものと言われています。
4.日光山への改葬と神君という呼称
 元和3年2月8日、天海は自ら鍬をとって家康の遺骸を掘り起こし、日光への移送は、ゆっくりと、華麗に、偉大な神・東照大権現となった家康の神威を広く伝えるための一大デモンストレーションでした。
 こうして、遺骸は、4月8日には無事日光山の奥社に埋葬されました。それは言うまでもなく、4月17日の一周忌を計算に入れての処置でした。
 余談ですが、久能山から日光山へ遷座した当時の東照宮の正式名称は、東照(大権現)でした。今日のように東照宮と呼ばれるようになったのは、正保2(1645)年家光の奏請(そうせい)によって「宮号」を得てから後のことになります。
 こうして、その死から一年もたたない間に、四か条の遺言の内の三か条までもが反故にされてしまいす。なぜ遺言に反してまで、一周忌以前に、しかも全く指示のなかった遺骸の移送や本廟の変更までもが強行されたのでしょう。

 その理由は、東照大権現の存在そのものにあったと思われます。実在の英雄家康が、その死と同時に類い希なる偉大な神に昇華したというのが根本的な考えであるが故に、東照大権現という神と、実在の君主家康とは、あくまでも同一の関係でなくてはならないと考えられたからでしょう。江戸時代を通じて使われた神君という呼称は、この両者の一体化を強烈に印象づけるために造られた言葉だと考えられます。

 そして、関八州の鎮守となるためには、本廟が久能にあっては都合が悪いし、神と君との一体化も不可能です。家康の墓参は久能で、神としては日光だというのでは、両者は明らかに分離し、神君の呼称は成り立ちません。とすれば、一周忌を久能で行うことも極力避けねばならないことになります。

 明神号と権現号をめぐる激しい論争と日光への強引とも思われる遷座(せんざ)によって構築した、家康の神格化が、その後二百五十年余にわたる徳川家による単独政権、即ち、幕藩体制の精神的な支柱を与えたのです。
 以来、この日本から戦乱がなくなり、上は将軍家を始めとする幕府の支配層、全国各地の大名家、そして長屋に住む八っさん、熊さんの下々までが太平の世を満喫したのです。
5.ペリー来航から終焉
 東照大権現が日光へ遷座されてから236年後の嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリーが国交の国書を携え、軍艦4艘を引き連れて江戸湾沖の浦賀に来航したのです。この頃になると、創建当時の人知を集めて構築した幕藩体制にも綻びやや歪みが出ていました。そのような時期の来航です。綻びやや歪みが一度に吹き出しました。そのことを敏感に感じたのは庶民です。そんな庶民が作った狂歌や川柳が今に残っています。

 有名なものとして、
「太平のねむりを覚ます蒸気船(上喜撰) たった四はいで夜も寝られず」
があります。

 そして、
「あめりかの米の願をもちにつき  御備(おそな)へ計(ばか)りたんと出来ます」

 ペリーが来たのは日本の米を求めたのだ、と言う流言をふまえ、餅に搗いて備え餅を作るのを表に出し、その裏で幕府が大慌てで諸大名に命じて江戸湾岸の各所に海岸防御の「御備台場(おそなえだいば)」を作っていることを皮肉っているのです。

 川柳では、次のようなものがあります。
「ぶぐ(武具)馬ぐし(馬具師)あめりかぶね(船)にたすけられ」

 ペリー来航は、スワ戦争かといった緊張感をみなぎらせることになり、武具屋や馬具師に注文が殺到したこと を読み込んだものです。

 結果的に見ればペリー来航は、幕藩体制の崩壊の切っ掛けを与えました。来航から13年後の慶応3(1867)年10月21日、十五代将軍・徳川慶喜は大政を奉還し、江戸幕府はその幕を閉じたのです。
 東照大権現の「御遺訓」と言われるものがあります。これを記して今回のお話はお終いといたします。
人の一生は重荷を負て、遠き道をゆくが如し。
いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。
勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる。
おのれを貴て人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

参考図書

徳川三代 二木謙一(監修)  NHK出版
[縮刷版]江戸学事典   弘文社
落書というメディア
  江戸民衆の怒りとユーモア
吉原健一郎 教育出版