主題;ドイツとユダヤ

1.中東和平ロード・マップ
 ブッシュ大統領はエビアン・サミットを途中で抜出しイスラエルのシャロン、パレスチナのアッパス両首相との3者会談で、イスラエルとパレスチナの相互共存の道を築いていくことに同意させた。

 しかしながらイスレエル軍は「ガザ」でパレスチナ強行派ハマス幹部へのヘリコプターからのミサイル攻撃を実施、これに対抗しハマスは「テルアビブ」にて路線バス内で自爆テロを行った。

 1993年クリントン大統領が音頭をとってイスラエル・ラビン首相とパレスチナ・アラファト議長とがホワイト・ハウスの中庭で手を握った映像を思い出す。今回の和平合意も反古になってしまうのだろうか?

2.旧約聖書
 ユダヤ人は、神の存在を考え出し(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教共通の神となる)、その神によって天地を初めとして人類の祖先アダムとイヴを含めた万物を創世させた。
 アダムから10代目ノアには3人の息子がいて、それぞれセムはアジア人の;ハムはアフリカ人の;ヤペテはヨーロッパ人の祖先となった。

 大洪水はノアが600歳の時で天地創造から1656年後のことであった。
ちなみに5/15放送のTV クイズ・ミリオネアで「ノアの箱舟に乗ったのは何人か?」の問題が出た。正解は8人とのことである。ノアと3人の息子及びその妻たちで計8人となる。

 セムから11代目アブラムが神と契約を結びアブラハムと呼ばれる。
 その契約では神が、アブラハムの子孫にカナン全地(現イスラエル・パレスチナ)を永久に与えるとなっているのである(創世記第17章)。

 アブラハムの子はイサク、その子ヤコブがヤボクの渡しで神と組打ちし勝ったことから「イスラエル」の名を与えられる。
 ヤコブの子ヨセフが騙されてエジプトに売られたが、そこで宰相となり裕福に過ごす。一方カナンでは飢饉が酷くなり、イスラエル(ヤコブ)一族がエジプトへ移住し繁栄していった。

 エジプトでイスラエルの民が強力になっていくのを見た新しい王は、イスラエル人に労役を科した。モーゼに率いられてエジプトを脱出し「約束の地」カナンに入る。
 ヨシュア記、士師記によるとカナンでは神がイスラエル人に約束した土地なのだからといって他民族をことごとく滅ぼす。

 ダヴィデ、ソロモン王の全盛時代となる(BC1000)。その後「ユダヤ」王国と「イスラエル」王国に分裂し、アッシリアによってユダヤ人(イスラエル人)はバビロンへ連行(BC586)されるが、ペルシャによってユダヤ人は帰還することが出来た(BC538)。

3.アレキサンダー大王
 ギリシャ文明は紀元前2000年頃クレタ島で始まった。
 その後ギリシャ本土南のミケーネが栄えたが、トロイ戦役(BC1250)を終えた半世紀後滅ぶ。
 紀元前8世紀には、アテネ・スパルタ・コリント・テーベなどの都市国家が」形成された。

 ペルシャは紀元前5世紀にはエジプトを含むオリエント全域を支配した。紀元前490年ペルシャ王ダレイオスはギリシャ本土に侵攻したが、マラトンでアテネ軍に敗北し引き揚げた。
 紀元前480年ペルシャ王クセルクセスはトラキア(現ルーマニア)・マケドニアを通って北からギリシャ本土に攻込む。
 ギリシャ国土の三分の二はペルシャに征服されたが海上でのアテネ主力の艦隊と、陸上でのスパルタ戦士の活躍によりギリシャからペルシャを駆逐した。

ギリシャの主導権は、都市国家アテネ、スパルタ、テーベと移ったが紀元前362年マケドニア王国が握ることになる。

 紀元前336年アレキサンダーが22歳でマケドニア王となる。紀元前333年、イッソスの戦いでペルシャ王ダリウスⅢ世を破り、シリア・エジプト・エルサレム・メソポタミア・ペルシャ・インダス河畔までを征服した。

4.ローマによる支配
 ローマ帝国興亡については、後のテーマとし、詳細を省く。
 アレキサンダー大王の死後オリエントはギリシャ人の諸国家に分裂する。

 ローマはカルタゴを滅亡させ、ギリシャ及びオリエントを属州とした。ユダヤの地はギリシャ人支配からローマに移った。(BC63)

 ユダヤ人の特殊性は彼らの宗教にある。唯一絶対の神がどうすべきかを命じ、それに反すると罰を下すのである。かれらの政体は一神教が故の宗教が政治に介入してくる神権政治なのである。
 ローマ人は政教分離をユダヤ人に要求したがユダヤ人はこれを拒絶し反ローマの暴動はユダヤ全土に広がった。ローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊され死海沿岸のマサダの要塞が陥落し反乱は鎮圧された(ユダヤ戦役 AD66~73)。

 皇帝ハドリアヌスは
  ①ユダヤ人が行っている割礼の禁止
  ②エルサレムのそばに軍事基地を置き
 その名をローマの神々を祭った丘の名「アエリア・カピタリーナ」をつけた。
 これに対し紀元131年にユダヤの反ローマ反乱(ユダヤ戦争)が起き136年に終結する。

 エルサレムからユダヤ教徒の全面追放及びユダヤ教の祭儀実践は死刑とされた。ユダヤ戦争で捕虜となったユダヤ人は、全ローマ帝国に奴隷として売られていった。

 これがユダヤ人の「離散=Diaspora・デイアスポラ 」であり、1948年イスラエル建国まで祖国無き民として、しかし他の国家や宗教と同化することなく生き続けたのである。

 この間歴史上 カエザル、アントニウス、クレオパトラ、アウグストス、ヘロデ王、イエス、ペテロ、ネロなどの人物が登場するが、ここで記述すると長くなるので割愛する。

5.ドイツへの移住
 カエザル(シーザー)のガリア遠征(BC58~51)以降、西ヨーロッパはドナウ川以南・ライン川以西はローマの支配地域となった。
 ライン川沿いのバーゼル、シュトラスブルグ、シュパイエル、ヴォルムス、マインツ、ボン、ケルン、ノイスなどはローマ軍団の基地や植民地から発達した都市である。
 ユダヤ人はライン、マイン、モーゼル、ドナウ川やその支流沿いの町へローマ軍と供に奴隷・商工業・農民として住み着いていった。ゲルマン人がこの地域に移住するはるか以前のことである。

 ローマ帝国初代皇帝アウグストス(在位BC27~AD14)の時代にイエス・キリストが生まれ、第2代テイベリウス(在位AD14~37)の時キリスト教が成立した。ローマ帝国はキリスト教を迫害したが、紀元313年コンスタンテイヌス帝(在位312~337)の時キリスト教を公認し、皇帝テオドシウスによって392年には国教化される。

 ゲルマン民族の侵入によるローマ帝国の東西分裂(395)、西ローマ帝国滅亡(476)、フランク王国建国(486)と分裂(870)、神聖ローマ帝国成立(962)と歴史は動いていった。
 ちなみに東西分裂後の東ローマ帝国はビザンチン帝国とも呼ばれるが、トルコの攻撃によるコンスタンティノープル陥落(1452)をもって幕を閉じた。

 フランク王国カール大帝(在位768~814)は各地に修道院を作りキリスト教の普及に努めたが、ユダヤ人に対してはその信仰の自由と祭儀を許した。また東方(小アジア、ペルシャ、インドなど)との通商を彼らに委ね保護した。ユダヤ人はその能力を発揮し、武器の調達なども行いユダヤ人=商人とみなされる様になった。

6.Yiddish(イデイッシュ)語
 9世紀から12世紀初頭にかけライン、モーゼル、マイン川流域に住んでいたユダヤ人がドイツ語をベースに彼らの生活習慣に関連したヘブライ語やアラム語の単語や表現を交え、移り住んだポーランド(チェコを含む東欧語など)やロシア語の要素が入った言語でヘブライ文字を使う。

 第2次世界大戦前には1100万人いたYiddish語の話し手のうち500万人~600万人が所謂ホロコーストの犠牲となったと言われている。
 下記表は、Yiddish語の一例でアルファベット表記したものの一例である。
Deutsch Yiddish Deutsch Yiddish
ich bin gegangen ikh bin gegangn Keller kile
bauen bouen Kopf kop
Brueder brider lang lang/lank
Blut blit Stadt stot
Haus hous sagen zongn
kaufen fleisch kafn flash Weg veyg

7.十字軍
  パレスチナはローマ帝国分裂後,東ローマ(ビザンチン)帝国が支配していたがモハメッド死の4年後には回教徒(アラブ)が支配(636~1092)することとなった。

 東ローマ帝国の領土がセルジュークトルコに侵食されていくのを防ぐため、東ローマ帝国はローマ教皇に援助要請を行った。

 一方、ヨーロッパでは神聖ローマ(ドイツ)皇帝とローマ教皇との間で教会聖職者の叙任権をめぐって争っていた時、東ローマの援助要請を受けた教皇ウルバヌス2世は、ローマ・カトリック教会と教皇の権威を高めるのに絶好の機会と思ったに違いない。

 第一回十字軍(1096~99)が起こり、回教徒からの聖地奪還を標榜するが、身近にいた異教徒であるユダヤ人への憎悪をつのらせ、東方へ行く前にライン川沿いの町のユダヤ人を襲い、略奪と殺戮を重ね、資金や物資の調達をしたのである。第2回、第3回十字軍の時もユダヤ人は繰り返し迫害を受けた。

キリスト教会側がユダヤ人のキリスト教への改宗を試みても、ユダヤ人はかたくなに彼らの宗教を変えようとはしなかったこともあり、キリスト教会はユダヤ人への分離・隔離政策を推し進めていったのである。

 宗教改革を行ったルターは、ユダヤ人を自分の教えに帰依させようとしたが旨くいかず、ユダヤ人を徹底して憎むようになった。そして、ユダヤ教会の破壊や放火、ユダヤ人の住居や財産の没収、集団強制居住、人権の剥奪、強制労働などを提案している。これはまさにナチスが行った政策ではなかったか。

8.第一次世界大戦
 ドイツ、オーストリア側についたオスマン・トルコが当時支配していた現パレスチナ・シリア・ヨルダン・イラクなどに領土的野心を持っていたイギリスは、アラブ人に対しトルコへの反乱を起こさせ見返りとして彼らに独立を約束した。(アラビアのロレンス:ロレンスは英国人)
 一方、ユダヤ人に対しては財政支援と引き換えにユダヤ人国家をパレスチナに建設することに同意する約束をしていた。

 戦後フランスがシリア(レバノンを含む)取り、パレスチナ・ヨルダン・イラクはイギリスが支配することになったのである。イラクは1932年に独立する。

9.ナチス政権
 1933年ヒットラーが首相に就任後直ちに反ユダヤ政策が実施される。
 あらゆる職業への禁止、、貴金属拠出令、放送機器所有禁止、・拠出令、カメラや自転車の拠出令、新聞・雑誌の購入禁止、公共交通機関利用禁止、一切の法的保護の廃止、強制収容と大量虐殺 アウシュヴィッツ収容所の鉄製ゲートには「ARBEIT MCHT FREI」と透かし文字が掲げられた写真を見たことがある。
 辞書によると”Frei”の原義は、奴隷・捕虜ではない自由の身であるとなっている。
 働くことが自由につながると信じ、毒ガスで殺され・処理されていったユダヤ人は、この収容所で400万人とのことである。400万人という数字あるいはガスによる殺害の有無などには異論もあるがドイツでは、ナチスが犯した謀殺罪は永久訴追される。

10.パレスチナ分割決議(国連)
 1947年米ソ・他の賛成(アラブ諸国は反対、英国は棄権)にてパレスチナ分割案が議決された。
 すなわちアラブ人が住んでいる土地を削って、ユダヤ人に分け与えるということである。

 1948年イスラエル建国以来イスラエルとアラブ諸国は第一次から4次までの4回中東戦争が行なわれたが、エジプトのサダト大統領は1979年突然イスラエルと平和条約を結んだ。
 このためイスラム原理主義者によってサダト大統領は1981年に暗殺されている。
またパレスチナとの和平合意したイスラエルのラビン首相がユダヤ国粋主義者によって1995年に暗殺されたのは記憶に新しいところである。

 アメリカはナチスによるユダヤ人虐殺を手をこまねいて見過ごしたことからか、ユダヤ贔屓が強すぎたきらいがあった。アラブの反感を買い9・11同時多発テロへ繋がったと言えるのではないだろうか。

 このところブッシュ大統領も多少アラブ寄りの姿勢を見せたせいか、パレスチナ強行派「ハマス」が停戦に合意して和平の兆しが見えて来たが楽観は出来ない。

11.あとがき
 もう20年も前になるがフレデリック・フォーサイスの「オデッサ・ファイル」を読んだのを思い出した。本棚を探したが見つからず、文庫本を購入し読み直した。

 ラトビアのリガで収容所(8万人が殺害される)に入れられていたユダヤ人が生き延び、戦争が終わって生まれ故郷のハンブルグへ戻り一人で暮らしていた。

 リガ収容所の所長を偶然ハンブルグオペラ・ハウスの前で見かける。なんの罰も受けずのうのうと生きている姿を見て絶望し自殺する。

 ドイツには元ナチスSS(突撃隊)の組織があり、これをODESSA(オデッサ)と呼ぶ。連合軍がドイツを占領したときには大量虐殺の張本人はこの組織を使って、海外へ逃亡していた。また国内に留まって、偽名を使いあらゆる社会階層に入り込んでいた。

 海外へ逃亡したナチス幹部は南米(ブラジル・アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ)が主であるが、エジプトも多数保護した。またエジプトのミサイル開発にドイツ人科学者が協力していたのである。

 同時多発テロの実行犯のひとりモハマッド・アタはエジプト人でハンブルグ工科大学に留学していたのは単なる偶然であったのか。アラブ-ドイツ-ユダヤの関係が見えるような気がするのはこじつけであろうか。

参考図書

旧約聖書  日本聖書教会
聖書 VS.世界史 講談社現代新書
ローマ人の物語 新潮社
ユダヤ人とドイツ 講談社現代新書
ドイツのことばと文化事典 講談社学術文庫
イデイッシュ語 大学書林/他
The Wall Chart Of World History Studio Edition Ltd.
Grosser Atlas Zur Weltgeschichte Westermann