主題;「浅草東照宮」について

 

 「浅草にも、東照宮があった」という話を聞いたのです。
 上野の山に東照宮があること(現存しています)は、知っていましたが、「それ、本当なの?」と思ったのです。

 江戸幕府の開祖・徳川家康が崩御して、東照大権現(とうしようだいごんげん)となり、その御霊を祭った廟が東照宮、その本廟が下野国日光にあることは、ご存知の通りです。

 そこで、今回は「浅草東照宮」に纏わる話を少々。

 

 
 江戸幕府を開いた徳川氏は、三河国を出発点として勢力を拡大して行きました。天正10(1582)年以降、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国領有時代を経て、関東の雄小田原北条氏の滅亡に伴い、天正18(1590)年8月1日、関東六カ国の領主として江戸に入り、豊臣政権下の最大の大名として領国経営を展開したのです。

 家康が入国した頃の江戸は、西に細長い谷間が木の枝のように刻まれた武蔵野台地が海に落ち込み、東は隅田川、利根川が流れる低地が広がり、現在の東京駅の南から有楽町駅方面は日比谷入江と呼ばれる海の中でした。この入江の東の日本橋・京橋辺りは南に突き出した半島状の中洲になっていて、江戸前島と呼ばれていました。この当時、江戸は江戸湾海運の中心ではあったものの、上方の流通や都市の先進地からすれば、草深い田舎に過ぎなかったといえます。

 しかし、そのような江戸でしたが、浅草には関東屈指の古刹浅草寺がありました。
 『浅草寺縁起』によれば浅草寺は、推古天皇三六(628)年、檜前浜成、竹成(ひのくまのはまなり、たけなり)が隅田川の駒形辺りで網に掛った一寸八分の観音像を引き上げ、これを土師直中知(はじのあたいなかとも)の邸に奉安して信仰したのが始まりとあります。

 以後、浅草寺には、
 天安元(857)年、慈覚大師円仁が、浅草寺に逗留した際に秘仏に変わる観音像を彫刻(秘仏の前に安置されている高さ63.6㎝の像で、お前立の本尊の称がある、江戸以降の開帳は、この観音像を開帳している。この時から、天台宗となり慈覚大師を中興の開基者とする。
 治承四(1182)年、源頼朝は平氏追討のため、下総から武蔵に入り浅草寺に参詣、田圃三十六町歩を寄進。
 承久三(1221)年、北条政子は白檀の観音像を奉納。
 正平七(1353)年、足利尊氏が武蔵原の合戦に勝ち、浅草寺に参詣して寺領として五十町を寄進。
 天文八(1539)年、小田原城主北条氏康による本堂の再建。
 元亀三(1572)年、炎上。天正九(1581)年、再建。

 などの記録があります。

 浅草寺は、子院十二坊を抱える大寺院でしたが、創建以来、焼失・荒廃を数回重ねて、当時の堂宇は荒れていました。入国後家康は、天海僧正の進言を入れて、浅草寺の寺領を五〇〇石を寄進し、徳川家の祈祷所として保護しました。
 ですから、徳川将軍家と浅草寺の関係には深いものがあったと言うことが出来ます。

 

 ここで、私見(余談です)を、書かせていただくと、・・・
 入国した頃の徳川家は、関東では無名の大名であったに違いありません。一方、浅草寺は縁起による記録の全てが正しいものではないとしても、その由緒の正しさから言えば、はるかに格上でした。ですから、寺領を寄進し、祈祷所として保護したといっていますが、むしろ関東の古刹として隠然たる勢力を有していたであろう浅草寺にその存在を認めていただいたというのが正しいのではないか、と思うのです。

 如何でしょうか。
 


 江戸入国から10年後の慶長5(1600)年9月、関が原の合戦で勝利を得て、慶長8(1603)年2月12日、家康は朝廷より征夷代将軍に補任せられ、江戸に幕府を開くことを認められました。
 (以来、今年がその400年目とのことで、東京を中心とする世間は、盛り上がっています)。

 そして、慶長10(1605)年4月には、将軍職を秀忠に譲り、駿河国駿府に引退し、大御所と呼ばれ大坂冬の陣・夏の陣では総大将として戦って豊臣氏を滅ぼし、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度等の諸制度を整えるなどして、徳川幕府の礎を築き、元和2(1616)年4月17日(75歳)、駿府で崩御します。

 その本廟・東照宮が下野国「日光」に建立されますが、元和四(1618)年四月、二代将軍秀忠により浅草東照宮が浅草寺境内に勧請され造営されます。
 これは、日光では遠いので、江戸在府の大名や旗本、庶民が身近なところで神君を拝めるようにと、その造営を命じたものと言われています。

 しかし、この浅草東照宮は寛永19(1642)年二月の火災により焼失しまいます。以後は再建されずに、東照宮は江戸城の紅葉山へ移されました。その東照宮は浅草寺境内の何処に立てられていたか、はっきりした記録は残っていないようですが、現在の淡島堂近辺ではないかと言われています。

 そして、図録#20:2003/02/10付にて掲示させていただいた「浅草寺二天門」は、この浅草東照宮の随身門(将軍の参詣門)だったのです。(掲載当時は、このことを全く知りませんでした)。
 「二天門」は国重要文化財で、現存する唯一の「浅草東照宮」の建築物です。

 と言うことで、確かに「浅草東照宮」は、存在したのです。

 蛇足ですが、「浅草神社」についてです。
 隅田川から観音像を引き上げた、檜前浜成、竹成、そして土師直中知の三人は浅草寺にとっては、重要な人物です。後世この三人を浅草寺の開拓者として祭ったのが「浅草神社」です。古くは三社神社と言われ、浅草寺の守護神でした。
 浅草東照宮焼失後、東照宮大権現を合祀するようになってから、「三社権現」と呼ばれていましたが、明治元(1868)年、三社明神、同六(1874)年には「浅草神社」と改称しています。しかし、現在でもここは「三社さま」と呼ばれています。
 ここのお祭り(三社祭り)は、浅草っ子を狂騒にかきたてるものの一つとなっています。

 話は変わります。

『あらたふと青葉若葉の日の光』

 芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、同行の門人曾良と共に日光東照宮を参詣したのは元録2(1689)年4月1日です。鹿沼に泊った翌日、雨にけぶる杉並木鹿沼街道(例幣使街道?)の文挟、今市を通り、日光へ着きました。
 到着後、芭蕉は先ず養源院と言う寺を訪ねています。ここに浅草・清水寺ノ書(=紹介状)を届けて拝観の便宜を図ってもらい、養源院の使僧と共に東照宮別所(社務所)・大楽院に行き拝観を願い出ています。しかし、折り悪く来客中で2時間以上も待たされたと、曾良が記しています。

 現在では、拝観券を求めれば自由に東照宮を見学出来ますが、この当時、家康の霊廟である東照宮は一般には公開されていません。ですから、紹介状を携えて拝観を願い出ているのです。
 しかし、芭蕉が訪れた元録2年4月は、日光山の大改修の準備がたけなわとなっていた時期で、山内には多くの作業関係者でごった返していたはずです。
 「あらたふと・・・」の句を読み、日光山の威光を称えた芭蕉ですが、山内をゆっくりと拝見することは出来なかったかも知れませんし、また、ひょっとしたら金色に輝く陽明門を見ることはなかったかも知れません。

 曾良の随行日記
「四月朔日、前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。大楽院ヘ使僧ヲ被添、折節大楽院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四」。

 翌日、裏見の滝、含満ガ淵を見て、大谷川を渡り、瀬尾、川室から大渡に出て、鬼怒川を渡って那須黒羽に向ったのです。現在、黒羽町の芭蕉記念館にある「芭蕉と曾良」の像は、図録#31:2003/04/28付にてご紹介させていただきました。
 

 「浅草東照宮」と云いながら、話は「浅草から日光東照宮」となってしまいました。これでは、東武鉄道の観光案内となってしまいます。

 今回は、この辺りで失礼を。

 次回は、何故「東照大権現」か、について語ります。

参考図書

徳川三代 二木謙一(監修)  NHK出版
[縮刷版]江戸学事典   弘文社
台東区の歴史 小森隆吉 名著出版