主題;スイスの独立

 

1.ウイリアム・テル
 戯曲「ヴィルヘルム・テル(ウィリアム・テル)」は、1804年Friedrich von Schiller (シラー) によって書かれた。

 ウイリアム・テルが息子の頭にのっているリンゴを弓矢で射落とす話しは子供の頃に聞いたことがある。
 わが国では、テルは架空の人物と思われているがスイスでは実在の人と信じられている。

 森林3州(Uri,Schwyz,Unterwalden)が協同して、ハプスブルグ家の支配をのがれるため1291年8月1日に同盟
を結んだ。13世紀末から14世紀初頭にかけてオーストリアの軍隊と戦い森林3州は帝国(神聖ローマ)に直属することを認めさせた。
 この時ウイリアム・テルが活躍したのである。

 8月1日は、スイスの独立記念日でウイリアム・テルは建国の英雄となっている。

2.ローマ時代
 紀元前1000年くらいからヨーロッパ中部・西部の大部分にはケルト人が住んでいた。
 紀元前58年ごろケルト人のヘルヴェテイ族がより豊かな土地を求めてガリア(現フランス)へ移動しようとしたが、ガリア遠征を行ったシーザーによって現在のスイスに押し込められてしまった。

 ブリタニア同様スイスは、ローマの植民地となりローマ人によって現ジュネーヴ、ローザンヌ、バーゼル、ベルン、チューリッヒなどの多くの町が作られた。
また、アルプスを越えるグラン・サン・ベルナール峠、ブレンナー峠などのが開かれスイスはローマ化して行った。

3.ゲルマン人諸部族の侵入
 紀元476年西ローマ帝国が滅んだ後、スイスの大部分にはブルグンド人が侵入定住し、ブルグンド王国を作る。

 一部北西地域は東ゴート人が支配した。 紀元526年に東ゴート国王テオドリックが亡くなると王国は衰退し、アレマン人がスイスへ侵入しにていった。

 ゲルマン諸部族の中でもっとも強力なフランク族が496年にフランク王国を建て、ブルグンド、アレマン両部族ともフランク王国に支配される。

4.神聖ローマ帝国
 フランク王国は、カール大帝の時絶頂に達した。
西はフランスからハンガリー、北はドイツからイタリアまでまでの広大な地域を支配した。

 843年ヴェルダン条約によりフランク王国は西フランク、ロートリンゲン・イタリアと東フランクに分裂した。

 スイスはロートリンゲンと東フランクに属したが、ロートリンゲンの北は東フランクに吸収され、南部はブルグンド王国となる。したがってスイス西側はブルグンドが、東側はアレマンが支配することとなった。

 東フランクザクセン王朝2代オットー1世がイタリアの支配権を獲得したことによって962年にオットーは神聖ローマ皇帝となった。

 ブルグンド王国は1032年から34年にかけ武力で神聖ローマ帝国皇帝コンラート2世(ザリエル朝)によて帝国に併合される。この結果スイス全域が神聖ローマ帝国の支配下に入った。

5.ハプスブルグ
 ハプスブルグ家はバーゼルとチューリッヒの中間位置するアールガウ地方の小領主であったが、ホーエンシュタウヘン王家と密接な関係からスイス最大の封建君主となった。

 1254年以降20年間の「大空位時代」を経てハプスブルグ家のルドルフが1273年ドイツ国王(自動的に神聖ローマ帝国皇帝)に選出される。

 【この経緯は、Seinhaeger Tribune #42 オーストリア概略史)で述べた】

 ルドルフが皇帝になる前から森林3州(Uri,Schwyz,Unterwalden)では「帝国自由都市」あるいは帝国都市並みの「自由と自治」を享受していた。

 これは前皇帝フリートリッヒ2世がローマ教皇から破門をうけたためイタリアで戦う皇帝に軍隊を送った見返りとして「皇帝と帝国のみに従う自由民にかなう」として「帝国自由」の特権が認められたからであった。

 ルドルフが皇帝となった後、オーストリア一帯をハプスブルグ家のものとした。ハプスブルグ家が強大になったため皇帝ルドルフが死ぬと、ルドルフの息子はドイツ国王に選ばれなかった。

 

6.誓約同盟 (Eidgenossenschsft)
 1291年7月15日、皇帝ルドルフの死わずか2週間後の8月1日に 森林3州(Uri,Schwyz,Unterwalden)は誓約同盟(Eidgenossen-schsft)を結び、ハプスブルグ家からの独立運動が展開される。

 ルクセンブルグ家の皇帝ハインリッヒはイタリアへのルート確保のため1309年に3州に対して「自由特許状」と帝国直轄を認め域外の世俗裁判権からの自由を保障した。

 皇帝ハインリッヒの死後、ハプスブルグ家とビッテルスバッハ家が皇帝位を争った際、Schwyz(シュヴィーツ)がビッテルスバッハを支持したこと、Schwyzがハプスブルグ家管轄の修道院領の開墾を行ったなどで1315年にはハプスブルグ家の騎士とSchwyzの農民兵士が戦いハプスブルグが敗れた。

 その後1353年までにこの3州にルツエルン、チューリッヒ、ベルンなど5州が参加計8州となりスイス国家の基礎となった。
旧領を回復すべく1386年から1499年までの間数度に渡ってハプスブルグは軍隊を送るがその都度破れた。

 30年戦争の後のウエストファリア条約にて1648年スイスは神聖ローマ帝国からの独立を承認された。

7.あとがき
 スイスの代理店がチューリッヒにあり、幾度となくチューリッヒを訪問している。空港にて帰りの飛行機の時間待ちで土産物の中にウイリアム・テルが弓矢を持って子供と一緒の人形があり、それを見ていたら女の店員からそれを買う様に勧められた。

 "The story of William Tell was a legend "と言ったら、その店員から "It was real thing "と大真面目な顔をして言われたことを覚えている。

 ドイツ語でスイスをSchweizというのはSchwyz州がスイス独立の中心を担ったからと思われる。
 スイス国籍を示す ”CH” はスイスのラテン語表記 ”Confoederatio Helvetica”による。

 古代ケルト人ヘルヴェテイア族が生きています。

参考図書

物語スイスの歴史 中公新書
スイス・オーストリア (ブルーガイド海外版) 実業之日本社
Grosser Atlas Zur Weltgeschichte Westermann