主題;オーストリア概略史

1.ローマ帝国時代

 現在のオーストリアは、古代ローマ帝国時代、ドナウ川の南側は[ノリクム・パンノニア]と呼ばれローマ帝国の属州であった。
 紀元2世紀には、ローマの軍団基地がWine(当時Vindobonna)に置かれていた。
 紀元4世紀には、西ゴート族、ヴァンダル族、東ゴート族などのゲルマン人が次々とドナウ川を渡ってローマ領になだれ込んだ。
 最終的には、5世紀の終わりから6世紀初めにかけて、バイバレン(バイエルン)族がドナウ川を渡って住みついたと思われる。

2.フランク王国時代
 8世紀後半には、フランク王国 (カロリング王国) が現在のフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、イタリアを支配した。
 9世紀には、オーストリアの東部にはスラブ人が進出したが、アジア系と言われているマジャール人がハンガリーを根拠にして、オーストリアを占拠していた。
 東フランク王国のオットー1世(ザクセン公)が、955年にアウグスブルグ郊外レッヒフェルトにてマジャール軍を撃破し、976年にオストマルクを置いた。
それ以降、オストマルクは東フランク王国下にあった。
 マジャール人は、キリスト教を受け入れ1001年にはハンガリー王国を建てる。

3.神聖ローマ帝国
 このオットー1世が、962年初代神聖ローマ皇帝に即位する。
 神聖ローマ帝国は、1806年フランツ2世(ハプスブルグ家)が神聖ローマ帝国皇帝を退位するまで830年間続いたことになる。

 1156年、皇帝フリードリッヒ1世(ホエンシュタウヘン家)は、バーベンベルグ家にエースターライヒ公国を与えるが1246年にバーベンベルグ家は断絶する。
神聖ローマ皇帝はオットーのザクセン家、ザリエル家、ホーエンシュタウヘン家と伝えられたが、1254年ホーエンシュタウヘン家はコンラート四世で断絶する。

 20年間、皇帝不在(大空位時代)の後、1273年スイスの小領主であったハプスブルグ家のルドルフを、選帝候会議によって皇帝に選出した。
 これは力のない皇帝を選ぶことで諸侯には都合が良いと考えたからであった。大空位時代ベーメン(ボヘミヤ)王オタカル2世はウィーン一帯を領有していた。

 ルドルフは、オタカル2世が臣従しないことを理由に、1278年にウィーン郊外マルヒフェルトでベーメン軍を破りオタカル2世は戦死した。
ルドルフは1282年エースターライヒ公国、シュタイアーマルク公国をハプスブルグの物とした。
 1335年にケルンテン、クライン(現スロヴェニア)を1363年にはインスブリュック一帯のチロル地方を手に入れる。

4.ハプスブルグ帝国
 ハプスブルグ家としては初代神聖ローマ皇帝に就いたルドルフが1291年に死んだ後、神聖ローマ皇帝はハプスブルグから離れたり、戻ったりしていた。
 16世紀になるとハプスブルグ家は、ベーメン(チェコ)、マーレン(スロバキア)、シュレージエン(現ポーランド領)ブルゴーニュ公国、フランドル、ニーダーラントや神聖ローマ帝国の境界を超えハンガリー、クロアチア、スペイン等をその領土とした。
 16世紀初頭帝国内各地での農民一揆、ルターが起こした宗教改革、オスマントルコのウィーン包囲、17世紀初頭から半ばまでの30年にわたる宗教戦争などはオーストリアハプスブルグ家に対抗する外国(フランス、スエーデン)や帝国内諸領邦との戦いであった。
 その結果、スイスとオランダは独立し、アルザス・ロートリンゲンはフランスに奪われる。

 神聖ローマ帝国皇帝カール6世の長女マリア・テレジアが1740年に後を継いで即位した。しかしながらプロイセン、ザクセン、バイエルン、フランスがこれに異を唱え、バイエルン選帝候を神聖ローマ帝国皇帝に擁立しようとし、またプロイセンはシュレジエンに軍隊を派遣した。
 1748年講和が成立し、マリア・テレジアはオーストリアを継承し、夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝継承が認められたが、シュレジエンはプロイセンのものになる。

5.オーストリア・ハンガリー帝国
 1859年には、ロンバルデイア、1866年にはヴェネテイアをイタリアに返還する。
 1866年、オーストリアはプロイセンとの戦いに破れ、プロイセンはハノーファー、クアーヘッセン、フランクフルトを手に入れた。ドイツ連邦は解体され、オーストリアはドイツから排除されることになる。
 1881年、プロイセン主導のもとにドイツ帝国が成立しプロイセン国王がドイツ帝国皇帝となる。

 オーストリアは1867年にハンガリーに自治を与え、ハンガリー王国を認めることとしオーストリア・ハンガリー2重(連合)帝国となった。

 トルコがロシアとの戦争で負けたのを機に、1878年には、ボスニア・ヘルツエゴビナを占領する。そして、1909年にはボスニア・ヘルツエゴビナを併合してしまう。

 ちなみに、日本は1895年に日清戦争に勝ち台湾を獲得、1910年には日韓併合条約にて韓国を併合した。

 1914年ボスニア・ヘルツエゴビナの首都サラエボにてオーストリア・ハンガリー帝国 皇太子フランツ・フエルデイナント(及び皇太子妃)がセルビア人によって暗殺された。
 オーストリアは、セルビアに宣戦布告し、ドイツ、トルコ、イタリア対ベルギー、フランス、ロシア、イギリス、アメリカとの世界大戦になった。

 ドイツ、オーストリア、トルコが破れ、1918年11月10日にドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位しオランダに亡命した。ブランデンブルグ・プロイセンと続いたホーエン・ツオレルン朝は断絶した。
 翌日ウィーンで暴動が起き、ハプスブルグ王朝最後の皇帝カール1世が退位しその幕を閉じる。

6.オーストリア共和国
 1818年、オーストリア共和国となる。チェコスロバキア、ハンガリーが独立、チロルはイタリアへ、クライン(スロヴェニア)とボスニア・ヘルツエゴビナはセルビアとともにユーゴスラビアとなる。

 1938年、オーストリアはヒットラーによってドイツに併合されオストマルクとなる。第2次世界大戦終了後、連合国によって統治されるが1955年に独立。

 1995年EUに加盟する。

7.あとがき
 ヨーロッパはEUに統合されつつあるが、チェコ・スロバキアはチェコとスロバキアにまたユーゴスラビアはスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、セルビア、モンテネグロと分離して行く。
 これはそれぞれの民族自決意識と過去の歴史的背景によるものと思われる。

 本概略史では、掘り下げ不足で民族問題に触れていない。

 2004年、EUに加盟するバルト3国は過去ドイツ騎士修道会の支配地域であったところであり、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロヴェニアはオーストリア帝国に所属していた。
 トルコは、2007年以降EUに加盟すると思われるが、セルビアが加盟するのは100年後かもしれない。
 

モーツアルト生誕の地ザルツブルグがオーストリア領となったのが、200年前であったとは意外であった。
ともあれ、モーツアルト作 「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」をNET(下記URL)にて聞きながらこれを書いている。
http://www.yung-web.com


参考図書

ハプスブルグ1千年 新潮文庫
物語 ドイツの歴史 中公新書
Grosser Atlas Zur Weltgeschichte Westermann