話 題;  
1. 生物の分類について
2. 忠臣蔵について
3. 今年の出来事


1.生物の分類について

 11月次の編集会議において、話題となった「生物の分類」について調べてみました。

 その前に、前号(#37)に間違ったことを書いてしまいましたので、この点を訂正させていただきます。

「ダーウィンはリンネから影響を受けていない」に関してです。
 リンネは非常に多くの著作を残しています。これらはいずれも植物学史上に画期的な意味を持つものが殆どです。その著作の中に論文集『学問の喜び』全7巻(1749~1769)があり、この中の「自然の経済(economy of natuar )」(1749)という論文は、ダーウィンに影響を与えたのです。
 当時「 Economy 」という語は、現在と同じ「経済」という意味のほかに、「神の摂理」という意味でも用いられていて、この題名の経済は、後者の意味でした。この論文では、自然三界が神によって秩序正しく保たれているとしています。
 即ち、『全ての生物には神が夫々独自の生育条件を与えている。これが「自然の経済における場所」であり、全ての生物は相互に関連し、一つとして不要なものがない。草食動物が多産なのも、肉食動物に捕食されるからで、このことにより自然の平衡は保たれている。全ては神の英知による』としています。

 ダーウィンは、この論文を1841年に読んでいます。「種の起源」の中で繰り返し登場する「自然の経済における場所」という言葉は、ここに由来します。ですから、ダーウィンは、リンネからの影響を 受けているということになります。
 なお、「自然の経済における場所」という言葉は、現在の生態学では、「ニッチ=生態的地位」という言葉に相当しているそうです。

 
 さて、「生物の分類」についてです。
現代の分類階級の一つは、次のようになっています。
kingdom
植物 division
動物 phylum
class
目  order
科  family
genus
species

 これで足りない時には、門の下に亜門、綱の下に亜綱が設定されます。さらに、もっと詳しく21階級にも分類するものもありますが省略させていただきます。
  ちなみにリンネの採用した分類階級は、5階級として分類しています。即ち、『界、綱、目、属、種』です。

 ここで、「カンサイタンポポ」と「ニホンイタチ」の例がありましたので紹介します。
1.  界  植物界
2.   門  種子植物門
3.    亜門  被子植物亜門
4.      綱  双子葉植物綱
5.       亜綱  合弁花亜綱
6.         目  キク目
7.          科  キク科
8.           属  タンポポ属
9.            種  カンサイタンポポ

1.  界  動物界
2.   門  脊椎動物門
3.      綱  哺乳綱
4.         目  食肉目
5.          科  イタチ科
6.           属  イタチ属
7.            種  ニホンイタチ

 更に、「分類」について生物学辞典(岩波書店、第四版)を調べてみると、
 古くは分類の基準に理論的な認識がなく、自然的類縁が反映されたものとして、種や群の整理・配列と生物界の把握に表現上でも便利なように識別しやすい形質・特徴を任意に選んで分類することが多かった。このような分類を人為分類(artificail classification)といい、リンネにより巧妙に整備された。

 同時に人為分類方式への反省がうまれ、分類の基準を統一し、それを生物の生活にとって重要な特徴から選び、いわば自然に即して分類すること、即ち自然分類(natural classification,natural system)の必要性が唱えられるようになった。このことが進化論の成立を促す一つの動機となった。

 進化論の成立後には、生物の分類は、その系統的な類縁に基づいた分類、即ち系統分類でなければならないとされ、真の自然分類は、同時に系統分類であることが認識された。とはいえ、系統進化の過程の解明は、生物科学の究極の目標であり、種分化の過程が追跡されたごく少数を除けば、直接的な観察による実証は不可能である。

 従って、現実にはほとんどの生物分類は、対象とする生物群について選び出した形質とその特徴が、その生物群の系統的な類縁関係を示していると考えられることを前提にして描かれたもの、という限界を出るものではない。

***
 リンネの分類方式が進化論に結びついているといっていますが、その後の分類方式からは、進化論をはっきりと説明できないと言うことでしょうか。凄いことを言っていますね。

2.忠臣蔵について

 今年は、元播州赤穂浅野家の家老、大石内蔵助を始めとする家臣47人が、本所の吉良邸に討入りし、亡君の遺恨を晴らしてから300年(記念の年?)です。
 そこで、この話題でお時間を少々拝借。
 事件:その1 松の廊下刃傷事件
 元禄14(1701)年3月14日、江戸城中の松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)は、 高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に切りかかり傷を負わせた出来事です。
 浅野長矩は、即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易(かいえき)、吉良義央は、お咎めなしの処分でした。
 事件:その2 吉良邸討入り事件
 その1年10ヵ月後の元禄15(1702)年12月15日の未明、元赤穂藩家老の大石内蔵助良雄ら赤穂浪士47名が、本所(墨田区)の吉良邸に討入り、義央の首を討って芝の泉岳寺(港区)にある亡君の墓前に捧げた出来事です。
 幕府は、翌元禄16(1703)年2月14日、浪士46名全員に切腹を命じ、吉良家は領地没収、吉良左兵衛は、信濃高島藩諏訪家にお預けとして事件に決着をつけました。
 これが、「赤穂事件」の全容です。

 そこで細かい話を二つ三つ。
 ① 「討入りの時47名、切腹時46名」 
 吉良邸に討入り後に、浪士の一人寺坂吉右衛門は泉岳寺に引き揚げるまでに抜け出した行方不明となってしまったのです。ですから、この数字は正しいのです。
 寺坂吉右衛門が、抜け出した理由については、逃亡説と弁護説があります。現在でも、そのいずれともはっきりしていないようです。
 ② 「その1年10ヵ月後の・・・」
 現在のこよみでは、3月から翌年の12月までとなりますと1年9ヶ月です。しかし、当時は今と違うこよみでした。元禄15年は、8月の次に閏8月が入っていているので1ヶ月多くなるのです。
 今ともなれば、閏月などというのは何とも想像できない事柄です。
 しかし、今年の夏の暑さは本当に堪えました。ですから、今年の9月を閏の8月、10月を閏の9月なんって言えば、閏月を想像出来ますが、全く違うことですよね。
 ③ 「元禄15(1702)年12月15日の未明」
 当時の史料の多くが事件の発生は、「12月14日の夜」と記録しています。当時は子の刻(午前零時前後)を過ぎたら日が変わって翌日になるという考え方はなかったのです。ですから、今でいう翌日の暁近くまでが、前日の深夜と認識していたのです。
 実際に討ち入った時刻は、15日の午前4時頃、引き揚げたのが午前6時頃だったといわれています。
2) 忠臣蔵
 この赤穂事件を素材にした人形浄瑠璃や歌舞伎の演目が第一の事件発生から次々と上演されていました。これらを集大成した形で、事件から丁度47年後の寛延元年(1748)に竹田出雲、三好松洛、並木宗輔によって作られた「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として大阪武本座で上演されたのです。

 この芝居は、実際の出来事を主題にしていますが、随所に事件とは無関係の創作や男女の色恋沙汰などが織り込まれた波乱万丈の物語となっているのです。この面白さが初演から現在に至るまで劇壇の独参湯(どくじんとう)=「いつでも、何処でもお客さんを集めてくれる妙薬」といわれる所以でしょう。

 そして、これに引きずられて、史実としての「赤穂事件」と芝居としての「忠臣蔵」とがゴチャ交ぜになって我々に記憶されているのです。
 ですから、今では、赤穂事件といっても「それ何のこと」となり、忠臣蔵といえば「それで」ということになってしまうのです。
3) 幕府の処置
 第一事件で、幕府(柳沢吉保の独断との評がありますが)の裁決は浅野「切腹」、吉良「お咎めなし」です。
 幕府の大名統制の基本法は、武家諸法度です。これは慶長20(1615)年にはじまり、その後、改められていて、当時のものは天和3(1683)年7月に、五代将軍綱吉が発したものでした。ここでは、武士の喧嘩は両成敗が原則です。
 しかし、この事件では、浅野が一方的に切りつけ、吉良は逃げ回っていたのですから「喧嘩」とは認識されていたのです。幕府は、この処置は当然と考えていました。
 ただ、浅野の切腹が事件当日であり、しかも切腹の場所が身柄を預けられら奥州一ノ関三万石の田村右京太夫建顕(たてあき)の屋敷の庭先であったということが、大名に対する処遇かとの批判はあったようです。  
 これを「喧嘩」としていれば、第二の事件は起こらなかったでしょう。歴史に「もし」はないのですが。
4) 内匠頭、無念!
 江戸時代の江戸城内で起こった刃傷事件は、この事件を含めて10件あります。その内、赤穂事件以前は、3つの例がありますが、加害者の家は全て改易・断絶の処分です。
 このようなことを知ってたはずの内匠頭が、なぜ上野介を仕留められなかったのでしょう。それは切りかかったからです。殿中では、大刀は預けていますので小刀しか帯びていません。小刀で成功するには、切りつけるより突くしかないと言われます。他の刃傷事件のいずれの結果を見ると、突いた場合は成功しているのです。

 乃木将軍は内匠頭が採った行動を評して次の様に言っています。
 「武人の心がけなし、なぜ突かなかったのだ。切るというのは愚劣・・」
 浅野内匠頭長矩は、「この間の遺恨覚えたるか!」と叫び、吉良上野介義央に切りかかりましたが、額と腰に傷を負わせただけで、旗本梶川与惣兵衛に取り押さえられてしまいました。その後、何のいい訳もせず切腹してしまうですから全ては不明です。

 乃木将軍にこんなことまで言われて、内匠頭は辛いことです。


3.今年の出来事

 今年も12月に入って「今年の十大ニュースは?」などと新聞各社は言っています。
ここでは、これには選ばれないような「今年の出来事」の一つを書いてみます。

 それは「新庄剛志 日本人初のメジャーリーグ・ワールドシリーズの出場選手となる」です。
 2002年10月19日の第一戦に9番DHで出場し、5回第二打席でセンター前にヒットを打ち、ワールドシリーズ 126年(第一回は、1876年に開催)の歴史に日本人として初めて記録を残したのです。
 日本人のプロ野球選手がNBLに参加するようになってかなりの時間が経ちますが、新庄までその記録はなかったのです。そして、その最初の選手がイチローや野茂や伊良部でなかったことが、「今年の出来事」の一つであり、愉快なことでした。
 10年、あるいはもう少し経った後のクイズに「日本人で最初にメジャーリーグ・ワールドシリーズに出た選手は誰?」といった問題が出され、正解は「新庄剛志選手」というと、みんなが「えっ」と驚き、「新庄剛志ってどんな選手だった」などと想像するのは、変ですかね。

 ちなみに、今シーズンの新庄とイチローの成績を調べてみると、次の様でした。
試 合 打 点 本塁打 打 率
イチロー  157  51   8  .321
新 庄  118  37   9  .238

 イチローは、本塁打数を除けば、圧倒的な成績でした。しかし、この部門の記録では新庄にかないませんでした。
 とはいえ、新庄の力がSF・ジャイアンツをW/Sに導いたと言うことでなく、チームとしての力があったのでリーグのプレーオフに優勝し、W/Sに出場となったことは分かっております。なぜなら、シーズン後の11/15には、自由契約となってしまったからです。

 この様な出来事からすると、個人の幸運とか不運とかは、その個人が属する国家、社会、地域、団体、企業、などなどの組織体の状況によって色々に変わるものだということになります。
 がしかし、「色々あるから、良いじゃあないか、人生は 」なのでしょう。

 話は愚痴っぽくなってきました。 今回は、これにて失礼を!!!。

参考図書

博物学の欲望(リンネと時代精神) 松永 俊男 講談社現代新書
分類という思想 池田 清彦 新潮選書
元禄人間模様(変動の時代を生きる) 竹内  誠 角川選書
古文書で読み解く 忠臣蔵 吉田 豊、佐藤 孔亮 柏 書房
NBL Web Page インターネット