話 題;  
1. 「進化論」について
2. 「江戸」について


1.「進化論」について

本紙、第三五号の記事に関し、池端主幹から質問がありました。

『ダーウィンは、リンネが行った種の分類・整理から進化した理由を述べているか』 です。
 
 今回は、このことに関し、調べたことを記してみます。(その回答になっているかは疑問ですが)

 進化論の論点には色々ありますが、その一つに進化の単位は、「個体」か「種」か、というものがあります。この「種」というものの概念を示した一人がリンネです。

 カール・フォン・リンネ<Carl von Linne>( 1707~1778)
 スウェーデンの博物学者(植物)。植物において種の概念を用い、生物の分類体系を創始した。リンネは自然物を整理し、1735年に動物・植物・鉱物の世界を扱い「自然の体系」を出版し、1737年に「植物の属」、1753年には「植物の種」を出版した。リンネは、当時知られていた植物を分類した。
 ここで用いた方法は、属と種名の二つを列記する方法である。これを二名法という。
 この二名法は、その後の生物の命名法の出発点となり、国際植物命名規約の基準とされ現在に引き継がれている。これにより、生物の種に関する知識を人類が共有することが可能になった。 

 リンネは、自然は神による設計と考えていました。種が秩序だった体系の分類可能であるという事実そのものが、合理的造物主の存在を示すものである。種相互の類似性は、共通の祖先から進化してきたことを示すものと、現在はみなしていますが、リンネはそれを神の計画における基本形態と考えました。そこで、その計画がどのような構造を持っているかを理解し、それを記述することにしたのです。
 自然な出発点は、類似性を持ている種どうしを一つにまとめ、それを「属」と呼ぶ高次のグループにしました。次により基本的な類似性に基づいて属どうしを一つにまとめるといったことが続けられます。しかし、類似性の程度がどの位であるかは、どの様に判定するかが問題なります。造物主の計画は、相互関係がすべて何らかの意味を持っているものと考えなければなりませんので、真の自然分類体系は、どの生物種についてもそれが持っているあらゆる形質を説明しなければなりませんでした。

 リンネは、最初の段階で自然の体系を構築する際に扱わなければならないデータの量が膨大であることに圧倒されたのです。そこでリンネは、その手続きとして一つの形質における類似性だけを基にして分類を行う「人為的体系」を作ることにしました。これでは完全な分類にはならないが、それでも創造の計画の概略を示すことは出来るし、さらに研究が進んだ段階で、必要があればそれを修正していけば良いと考えたのです。この結果が、「二名法」と呼ばれるものになったのです。

 リンネは、神は最初の創造の際には、一つの属に一つの種を創造しただけであり、それが元になって、属の中の色々な種が自然界の交雑を経て形成されてきたといっています。時間の経過の中で種の数が増えていく理由を考えるに当たって、雑種形成の現象に注目したことは、18世紀に生物の可変性の問題に取り組んだ人々が、非常に広い範囲の事実を利用することが可能だったことを示しています。
 しかし、リンネの考えは、神の計画がない細部は、自然界における雑種形成の過程を通してもたらされ、そこには神の介入は不要であるとしました。少なくとも自然において一定範囲内の形態の変化は可能であり、分類体系は、神の計画に形式的な関係でなく、自然界の実際の関係を記述するものとしたのです。

 このような次第で、ダーウィンの進化論に結び付くようなことには、なっていませんでした。

 ダーウィンは、「種の起源」の中で、「種」について明確に定義していません。また、生物が変化して生じた変種に自然淘汰が働き続けることによって、変種が新しい種になるとしていますが、しかし、生物がどのくらい変化すれば「変種」となり、更に、これが新しい「種」となるためにはどの程度の変化が必要かといった点についても全くふれていません。ですから、「種の起源」は題名の通りの本ではないと言われることがあるようです。
 ということで、リンネの分類・整理の思想を認識していたと思いますが、進化に関する考え方の直接的な認識はないと思われます。

 一方、ダーウィンは、個体の変化が如何に種の変化までに広がるのかについて、「種の起源」の中で、多くのエネルギーを費やして説明しています。

 進化の単位を「個体」とするか、「種」とするかの考え方があります。ダーウィンは、個体派です。「種」を単位とする派には、今西進化論があります。今西先生は、「種は変わるべき時がきたら変わる」といっています。科学の話の中に哲学的な言葉を持ち込んでいるような気もしますが、多くの人はこの説を一つの進化論として受け入れているようです。
 現代では、この両者(「個体」、「種」)は、進化を引き起こす単位は、遺伝子であると認めています。問題は、遺伝子の変化が広がって固定するのが、種なのか個体なのかということです。ここが進化論の一つの論点といわれる点です。


2.「江戸」について

 

 今回は、江戸というよりは、現在の東京についてです。
 現在、下町という言葉を聞いて東京のどの辺りを思い浮かべるかといった調査の結果です。
 その前に辞書で「下町」を調べてみました。

下町: 都市の市街地のうち、低地にある地区。主に商工業者などが多く住んでいる町。
 東京では東京湾に近い下谷・浅草・神田・日本橋・深川などの地域をいう。 ⇔山の手。  大辞林(三省堂)
となっていました。

 調査結果は、下表のようになっています。

地  名 票数 比率(%)
1 浅 草 台東区 2,290 23.43
2 柴 又 葛飾区 875 6.86
3 上 野 台東区 802 6.29
4 深 川 江東区 620 4.86
5 亀 有 葛飾区 586 4.59
6 月 島 中央区 552 4.33
7 人形町 中央区 550 4.31
8 巣 鴨 豊島区 534 4.18
9 両 国 墨田区 507 3.97
10 亀 戸 江東区 451 3.53
11 神 田 千代田区 448 3.51
12 日本橋 中央区 415 3.25
13 北千住 足立区 325 2.55
14 錦糸町 墨田区 306 2.40
15 佃 島 中央区 293 2.30
16 築 地 中央区 283 2.21
17 根 津 文京区 281 2.20
18 谷 中 台東区 270 2.16
19 日暮里 荒川区 236 1.85
20 根 岸 台東区 191 1.50
21 向 島 墨田区 175 1.37
22 入 谷 台東区 172 1.35
23 町 屋 荒川区 159 1.25
24 本所吾妻橋 墨田区 131 1.03
25 神楽坂 新宿区 123 0.94
26 湯 島 文京区 107 0.84
27 新木場 江東区 104 0.82
28 鳥 越 台東区 99 0.78
29 神保町 千代田区 94 0.74
30 浅草橋 台東区 82 0.64
12,760 100.00
 

 この調査の出典が判らないので、調査目的、調査方法も不明ですが、数字だけを見てみますと、現在での下町は、他の地域を大きく離して『浅草』ということになります。2位以下では、僅差ですが『柴又』となっています。ここが入っているのは、「男はつらいよの寅さん」の影響でしょうか。

 

 話は変わりますが、この映画で気になっていたことが一つあります。
寅さんの妹、さくらのご主人が、寅さんの実家「とらや」の地続きの印刷屋に勤めていました。寅さんの喧嘩相手のタコ社長が経営する中小印刷会社です。
 気になっていたこととは、この会社で使っている「印刷機は何か」ということです。中小印刷会社ですから、大型機のハイデルベルグやローランドではなく、軽オフだろうと推測します。ですから、リョービ、ハマダ、それとも我がトーコーなのかと気になっている次第です。ご存じの方が居られましたらご教授下さい。

 

 話はもどります。
この結果から下町は、東京の外環へと広がっていることになります。初めは、隅田川の下流地域であったのが、何時の間にか荒川を越え江戸川までと広がっていることを示しています。
 私の見解を言えば、巣鴨、北千住、根津、谷中を、下町といえばそこの住人は何を言っているのだという顔をするのではないかと思います。
 しかし、28位に「鳥越」の地名があることに驚きます。地域的には蔵前と浅草に囲まれた地域ですが、あまり認知度が高い地域とは思われないからです。

 この号もどうでもいい話になってしまいました。恐縮です。

 

参考図書

進化論が変わる 中原英臣/佐川 峻 講談社Blue Backs
図解雑学 進化論 中原英臣 ナツメ社
講演会資料 江戸東京博物館