主題;みちのく旅行
     (平成14年10月12日~13日)


1.白河の関跡

 白河の関の松ケ根野の花に 吹く秋風に昔を偲ぶ         則夫
 

 10/12(土)は三連休初日のことか、午前10時少し前東京駅東北新幹線発着#21~#22ホームは溢れんばかりの人であった。先発列・次発列の次の3列目に並び、なんとか発仙台行き列車に座席を確保した。 新白河で下車し、出迎えの車に乗り込み白河関へ向かった。
 雲一つない秋晴れの西の空に那須の山々が見え、白煙を上げていたのは茶臼岳。

 白河の関は、白河の町中10km 程南、街道の脇にこんもりとした小山があり、白河関跡が公園になっている。階段を奥へと向って上がって行くと、左手に矢立ての松(*1) 右手に白河藩主松平定信が寛政12年(1800年)に立てた「古関跡」碑がある。さらに上がると、お社 (*2) があり、神社の左手には古歌碑(*3)が立っていた。

 江戸時代以前(天正)から奥州街道は、旧道の西寄りに新道が開かれていて、芭蕉は元禄2年 (1689年)白河の関を越える際、当時の官道となっていた関所へ行った後、 旧関所を通って白河へ入ったとのことである。

 卯の花をかざしに関の晴着かな           曽良
注:
*1 義経が鎌倉へ向かう時戦勝を祈願する際、弓矢を立てかけたとされる松。今は根株 のみが残っている。
*2 白河神社(明神神社)
*3 平兼盛、能因法師、梶原景季が詠んだ和歌
 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関     能因法師


2.米沢

 手ぬぐいを湯船にぬらし友がいて            則夫

 白河から東北自動車道を北に進み、西に安達太良山を見て福島飯坂で降りる。国道#13にて米沢を目指す。昔に比べ道幅が広くなり、 カーブも緩やかである。栗子トンネルを抜けると米沢の町が見えて来た。
 米沢は上杉藩の城下町である。関ヶ原の戦いで、 上杉景勝が西軍に組みしたため会津120万石から米沢へ移封され30万石となった。
 さらに元禄の頃か藩主死亡、吉良家から養子跡継ぎで15万石に減封された。 城跡は、公園になっていて、石垣の周囲は堀、公園中央は、上杉謙信と上杉鷹山を奉る上杉神社になっている。

 鷹山は、上杉藩中興の祖と呼ばれる。日向高鍋藩秋月家から上杉家に 入り藩主となって藩財政を立て直した。
鷹山が残した伝国の辞「国家は藩主の私すべきものではない、 人民は国家に属し藩主の私すべきものではない」などは、封建時代の人の言葉とは思えない。

 上杉謙信を始めとして藩主代々の墓所のある御廟町を通って小野川温泉のホテルに到着。

 当日は大学時代の寮の同窓会が8年振りで行われた。遠くは那覇や和歌山からの参加者がいる。 夕刻から宴会・2次会と夜遅くまで飲み、食い、語り、また湯に浸かり楽しい時を過ごした。
 10/13(日)朝食後同窓会は次回の日取りを決めぬまま現地解散となった。 昨日と同様空は快晴にて土産として農家でりんごを、また市内で米沢牛などを買い、 国の重要文化財となった山形大学工学部(旧米沢高等工業学校)本館を見ながら山形/福島県 境白布峠を目指す。


3.会津磐梯山

 白布峠は標高1800Mで、近くの西吾妻山を含む山々は紅葉し、遠くに蔵王が霞んで見えた。 峠を下ると桧原湖である。木々の間から光る湖面を見ながら磐梯高原を走る。 桧原湖から猪苗代湖へ向かう峠にて見る磐梯山は、先端が尖った双子山である。 下り道路脇には停めた車が4~5百メートルに渡って並び、下からも次々と登って来る。 登山か、紅葉狩りか、きのこ狩りか判断がつかない。

 山を下った磐梯町で「手打ち会津そば」の旗を見つけ店に入る。品書きに 「高遠そば」があり注文するそばたれとして、からみ大根のおろし汁とそばつゆの 二つが出てきた。店主に尋ねると通常はおろし汁につけて食べるのが作法であるが、 食べにくいと言う人のためにそばつゆも出しているとのことであった。

 信州上田でからみそばを食べたことがある。からみ大根汁をそばつゆに入れていた。

 会津藩初代藩主保科正之は二代将軍秀忠の庶子で、信州高遠藩保科家の養子から 藩主となっていたが三代将軍家光から出羽最上(山形)20万石へ移封、さらに 会津23万石への転封を命じられた。

 正之は会津保科家(3代目から松平家)の家訓として徳川宗家の藩屏に徹することを 代々伝えよと言い残した。
幕末に会津藩主松平容保が京都守護職を受けたのは、家訓によるものと思われる。

 会津からは磐越自動車道、東北自動車道を乗り継ぎ東京へと帰路についた。

参考図書

奥の細道事典 講談社α文庫
松平容保は朝敵にあらず 中公文庫
みちのく旅行 後記
2002.10.27
 主幹  池端 則夫
 

会社勤め30数年での一番の役得は、技術部所属の時であった。 事務機械工業会技術委員会の分科会「新材料研究会」に入り、月1回の会合に出席して 事務機に使われる今後の新材料について勉強したことである。メンバーは、「MT」、 「RH」、「SY」、「XX」、「TK」など7~8社であった。

 分科会長であったMTの人が歴史好きで、古代大和の物部氏や石切神社の関係について 自費出版したくらいであった。役得とは、この人が世話役で年に1~2回は地方の大学や企業の 研究所を見学し、温泉に泊る旅行をしたことである。見学先で思い出すのは、 「東北大学金属材料研究所」、「信越化学武生工場」、「鳥取大学農学部」などである。

 「東北大学金属材料研究所」では銅のアモルファス金属形成工程や 超伝導材料などを使った実験を見学した。この時は花巻温泉に泊り、平泉で金色堂や毛越寺跡、山寺 (立石寺)などを見てまわった。平泉には3回行っている。1回目1964年夏大学3年の時(さや堂は茅ぶきであったような気がする)、2回目1987年事務機械工業会、3回目1989年「カナデン」の招待で「関東自動車工業北上工場」見学の折である。

白河の関の松ケ根野の花に吹く秋風に昔を偲ぶ

 平泉には芭蕉の句碑「五月雨を降りのこしてや光堂」、 「夏草や兵どもが夢のあと」がある。「奥の細道」では義経を思い「国破れて山河あり、 城春にして草青みたり」と杜甫を引用している。白河関跡で「義経が戦勝祈願の際、 弓矢を立てかけた松」の説明書きを見た。「矢立ての松」は根株が残っているだけであった。

 何としても、義経にいかねばと思い、松の根株脇に野の花を置き、秋風を吹かせた。

手ぬぐいを湯船にぬらし友がいて

 同窓会では小野川温泉にて宴会前、後、 翌朝も昔の友と湯に浸った。帰ってからひざの痛さは、ただ如ではなかったが、 句を作るにも七転八倒した。

 芭蕉が出羽三山を登った時、曽良が「 語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠んでいる。
 意味は理解出来ないが、 Das ist das.(これだよ、これだよ。)