話 題;  
1. 「進化論」について
2. 「江戸」について
3. 「お酒」について


1.「進化論」について

 第34号で報告しましたように、数年後の日本の学校教育では「進化論」は教えられなくなりますが、私の時代は「生物」がその科目でした。
 ですから、私にとっての進化論は、動植物に関する理論であると考えていました。それ故、第34号でのような話が、この理論の展開の中に含まれるとは、意外なことでした。

ダーウィンの進化論(非常に簡単化しています)は、
生物は一般に数多くの子供をつくる。 ・・・・という事実
数が多いから、その間にきびしい生存競争が起こる。 ・・・・という観察及び考察
これらの中に変異の伴ったものがいて、その変異は 生存競争に有利に働く場合がある。 ・・・・という推察若しくは仮定
有利な変異を起こした変種は、生き残る可能性が極わずかだが高くなる。 ・・・・という推察若しくは仮定
このようなプロセスが長い間繰り返され、数千数万世代と続いた結果、その変種はついにその種の中の多数派になるだろう。 これはとりもなおさず新しい種の誕生、即ち、種の進化にほかならない。 ・・・・という結論


 実に明快な理論構成です。
 ダーウィン以前にも「進化」についての説明は幾つかはあったのですが、この理論の自然淘汰説ほど圧倒的な説得力を持ったものはなかったのです。

 このような理論の展開は、自然科学分野での演繹的な体系を形成しています。ですから、「進化論」は自然科学のみの論理であると、私は誤解していたのです。 しかし、注意深く、あるいは思慮深く考察してみれば、生物の進化には「思考・思索」の進化も含まれることが判ってきます。進化論は、人文科学の中でも使われる理論なのです。

 このことから、次の様な話は如何でしょうか。人間の生死が関係すると、形式的には同じものでも受取り方に相違が起こるという例です。

あなたは医者で、ある病気に罹った患者100人を抱えています。今、処置Aをと るとそのうち20人が死亡します。処置Bなら、全ての人が死亡する確率は、20%です。あなたはどちらを選択しますか。

あなたは医者で、ある病気に罹った患者100人を抱えています。今、処置Aをとるとそのうち80人が生き延びます。処置Bなら、全ての人が生き延びる確率は80%です。あなたはどちらを選択しますか。


 一寸考えてみれば、1と2は全く同じことをあらわしています。しかし多くの人は、1では処置Bを、2では処置Aを、直感的に選ぶとのことです。
 これは、確率的な表現の方が実際の数字による表現よりも効果的に小さく感じられるからだ、と解釈されるそうです。「20人が死亡する」よりも「100人の20%が死亡する」方が損失感が小さく感じられ、「80人が助かる」方が「100人の80%が助かる」より効果が高いと判断するためだそうです。
 人間がこのような認識を持つに至った進化的な背景を実験とコンピュータ・シュミレーションを使って研究されている心理学者がおられるそうです。

 人にはこのような心理があることをもう少し早く知っていれば、良かったのにと思いました。
 例えば、会議での報告は良い話は実数を挙げて説明し、聞き難い話は確率的な数字で説明すれば、聞いている人はわかり易く、会議はもっと踊りましたね。残念です。


2.「江戸」について

 今回は、将軍様のお膝元、「江戸=御府内(ごふない)」についてです。

「御府内」という言葉は、『大辞林』(三省堂)によれば、
「江戸時代、江戸の市域とされた地域。支配向きごとに境域は一定しなかった   が、1818年寺社勘化場と塗高札掲示の範囲をもってその境域とし、朱線をもって示した。大体、東は中川、北は荒川・石神井川下流、西は神田上水、南は目黒川を境とする」とあります。
  しかし、1818年(文政元)は、明治維新よりわずか50年前です。家康が江戸に入ったのが1590年(天正18)、幕府が創立されたのが1603年(慶長8)ですから、200年以上もその範囲は曖昧だったのです。
また、一口に「江戸八百八町」といいますが、1641年(寛永18)には三百余町、20年後の1662年(寛文2)には六百七十四町、1713年(正徳3)には本所、深川、山の手地帯を併せて九百三十三町となり、この段階ですでに八百八町を大幅に上回っています。そして、その30年後に寺社門前町を編入して、実に千六百七十八町(1、678)。これまた、いい加減な話です。ですが、この数字は、山東京伝や蜀山人が言うが如く、「大江戸」といえるものです。

 御府内の象徴は、江戸城です。当初、本丸、二の丸、西の丸と次々に築造され、五層の天守閣と二十一の櫓(やぐら)が立ち並び、金の鯱が眩いほどに輝いていたのでしょう。
 江戸城前面の低地は埋め立てて譜代の大名屋敷とし、背後の番町、駿河台を旗本下屋敷、四谷・市谷方面には下層武士の御家人の組屋敷を置いて、その守備を万全なものにし、神田山を崩した土で神田、日本橋、京橋を造成して、ここに商人や職人の町を作ったのです。
 しかし、大名は御府内に上屋敷のほかに、中・下屋敷を持っていました。また、一万石以下の旗本でも、土地を拝領していたので、その69%が武家地、残りの31%の内15%が寺社地でした。ですから、一般庶民の住む土地は16%。ここに凡そ江戸人口の半分を占める50万人が済んでいたのですから、住宅事情は現代よりはるかに良くなかったと言えそうです。

 ところで、山の手と下町という区分があります。この言葉が資料の上に始めて見えるのが1662年(寛文2)だそうです。この当時の下町とは、上述の神田、日本橋、京橋の辺りを指していました。
 当時、浅草は田舎であり、この付近に住んでいた人が神田、日本橋に所用があって出ることを江戸へ行くといったそうです。ですから、現在下町といえば、その筆頭に浅草という統計がありますが、下町の地域概念が時代とともに拡大しているということになります。

 次回では、現在の下町範囲を考えて見ます。


3.「お酒」について

 江戸時代のことを調べていたら、「江戸川柳 飲食辞典」という本がありました。
 この本からの抜書きを少々。

 以前、池端主幹が本紙に「剣菱」にまつわる話を記事にしていました。そこで、これにまつわる川柳です。
* すき腹へ剣菱ゑぐるやうに利き (剣を利かしています)
* 鰹はさしみ酒はけんびし    (酒はささと読みます)
* 剣菱が利いて米噛片頭痛    (二日酔いです)
* 剣菱をかぶって寝る橋の上   (酒樽の菰をふとんにしている)
* 剣菱で出来た喧嘩がすみだ川  (隅田川も酒の銘。喧嘩の手打ちに)

 江戸時代でも『剣菱』は著名だったようです。本来は伊丹の酒でしたが今は灘で作っています。江戸期には、昌平橋の外神田「内田屋」で売り出していて、一升280文であったとのこと。

 上記最後の句に出ている「隅田川」は、江戸の地酒として有名だったとのこと。
 浅草並木町の「山屋半三郎」店の酒で、寛永年間に隅田川の水で作り、伝法院公英僧正に献上したところ、賞味して銘を賜ったと伝えられています。
* 隅田川樽の中迄浪の音        (本来お酒は樽詰めです)
* 隅田川ありやととはん安酒屋
* ありやなしやとふってみる隅田川
* まだありややしやと樽のすみだ川
* いざこと問はん一升はいくらする
(この四句はいずれも、伊勢物語の 
「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえています)

  江戸川柳には、古典を踏まえて作られているものが多くあり、難しいものです。

 

参考図書

進化論が変わる 中原英臣/佐川 峻 講談社Blue Backs
進化論という考え方 佐倉 統 講談社現代新書
江戸に学ぶ 今野信雄 サンドケー出版局
江戸川柳 飲食辞典 渡邊信一郎 東京堂出版