主題;アルザス(エルザス)について

 アルザスは、現在フランス領で、その中心ストラースブール(ストラスブルグ)には欧州議会が置かれている。
 同地域は、ドイツ領・フランス領・ドイツ領・フランス領と変遷を重ねて来た経緯がありその歴史を追ってみたい。


1.アレマーニア

 『ドイツ』のことをドイツと云うのはドイツ人と、日本人他東アジアだけかもしれない。
 イギリス人は『GERMANY』と言う。これはローマ人がゲルマニアと言ったことからであろうと思われる。
 一方ベルギー、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルでは『ドイツ』のことを『アレマーニア』と言う。これはアレマン人から来ている。
 ドイツでは、フランスを律義にもFRANKREICH(フランク帝国)と呼んでいる。


2.ゲルマン民族大移動

 

 紀元375年フン族の移動によりゲルマン諸族が移動を開始、国境であるライン・ドナウ川を越えてローマ帝国領へなだれこんでいった。


3.アルザスの位置

 ライン川はスイスアルプスに源を発し、ボーデン湖に流れこむ。ボーデン湖からラインフォールとなって再び流れだした川は、真西に向かいバーゼルで北へ流れを変える。
 北へ向かうライン川に沿って東はシュバルツバルト(黒い森)、西側がアルザスである。
 マイン川上流にいたゲルマンの部族が南下し一部がライン川を渡りアルザスに進入したのがアレマン人である。
 スイスの大部分、ドイツバーデン・ヴュテンブルグ州フランスアルザス地方で話されているドイツ語方言ををAlemannisch と言う。


4.フランク王国の発展と分裂

 紀元496年アレマン人はフランク国王クロヴィスと戦って敗れ、フランク王国の支配下に入った。フランク王国は、ブルグンド、チューリンゲン、バイエルンなどを支配下に置きカール大帝(シャルマニュー)[786~814]はザクセン、現在のオーストリア、ハンガリーを含む西ヨーロッパ全域にその領土を拡大した。
 カール大帝が死ぬと王国はヴェルダン条約、メルセン条約によって『西フランク王国』、『東フランク』、『イタリア王国』に分裂しアルザスは、東フランク王国こ帰属することになった。
 842年『西フランク国王シャルル』と『東フランク国ルードヴィヒ』は「ストラスブールの誓約」をそれぞれの相手の言葉、即ちフランク語(ドイツ)とロマンス語(フランス)で行った。ドイツ・フランス語双方にとって最古の歴史的文書である。


5.神聖ローマ帝国

 東フランク国王オット一世は、962年にローマにて教皇ヨハネ二世より皇帝冠を与えられた。
 これによりドイツ、イタリアにまたがる神聖ローマ帝国が成立した。


6.30年戦

 1617年ハプスブルク家のフェルディナントがボヘミアの王位につきプロテスタントの弾圧を始めた。1618年5月プロテスタント貴族が皇帝の代官らをプラハ城の窓から17㍍下の堀へ投げ入れ、武装蜂起を起こした。
ボヘミア・ドイツ国内では皇帝派(カトリック)、反皇帝派(ブロテスタント)にそれぞれの宗教的応援の他、国家間の利害がからみ30年間戦争が続いた。1648年ドイツ西北部ミュンスターとオスナブリュックで調印された講和条終はウェストファリア条約と呼ばれ、この時フランスはアルザスとロレーヌを手に人れた。


7.アルザスの帰趨

 普仏戦争  1871年  ドイツヘ割譲
 第1次大戦  1918年  フランスヘ復帰
 第2次大戦  1940年  ドイツ第3帝旧へ併合
 1945年  連合軍、アルザス解放


8.オラドゥール大虐殺

 1944年6月9日夜フランス中南部、オラドゥールという小さな村の近郊でドイツ軍車両部隊 がパルチザンに襲われた。ドイツ軍兵士が殺害されドイツ帝国銀行刻印の金塊半トンが奪われた。
 翌10日にはナチス武装SS部隊がオラドゥール村に派遣され、住民642名が虐殺された。このSS部隊には、アルザス人が少なからずいてSS将校が若い徴集兵たちに、
「これから血の海を見る事になる。おまえらアルザス人の根性を見せてもらうぞ!」
と言い放っていた。

 1952年の終わりに、フランス市民となっていた元SS兵士アルザス人12人がフランス当局に逮捕され、ドイツ人と共に法廷に立ち、1953年2月判決が下された。志願したアルザス人軍曹とドイツ人1名が死刑、残りは5~1O年の懲役であった。
 判決に対してオラドゥールは激昂し、近くのリモージュでは5万人が抗議の行進して不満を表した。一方アルザスでは、すべての市長村長がストラスブールに集まり戦争記念碑前を行進し、又、全ての庁舎に喪章が掲げられ、掲示板には「判決は受入られない。」と書き込まれた。

 アルザスは1940年のフランス敗北の犠牲者であり、フランスはドイツがアルザスを併合するのを手をこまねいて眺めていた。アルザスの若者はナチスの教育を受けさせられ、戦争が激しくなると徴集されドイツ軍に入れられたのであった。

 判決1週間後フランス国民議会は大赦法を成立させアルザス志願兵だった1名を除きアルザス人全員が釈放された。オラドゥールは激昂し、国家と全ての関係を断絶すると宣言した。数年前に授与された軍功章とレジョン・ドヌール勲章を国家に突き返した。
 大赦法に賛成した国民会議議員319名の名前を刻んだ碑と罪を犯したアルザス人SS兵士の名前と住所が刻まれた碑を立てた。

1966年国家と和解し両方の碑は徹去された。


9.あとがき

 15年位前に「アルザスの青い空」というテレビドラマが放映されたの思い出す。
 山下真司と荻野目慶子が出ていた。アルザスには日本企業が多数進出していて日本人学校の話だったような気がする。アルザスには行ったことがないが、テレビで見る家は外壁が白く、その壁に黒に塗った柱木を斜に埋め込んでいてドイツとそっくりであった。
 現在アルザスでは80~90%の人がフランス語を話す。

 ライン川全部が滝となって流れ落ちるラインフォールは迫力があり、滝の近くシャフハウゼンは美しい町で、スイス・ドイツの国境を渡りシュバルツバルトとを1日で見ることが出来る。


参考図書

アルザス文化史 人文書院
物語ドイツの歴史 中公文庫
フランス三昧 中公文庫
Grosser Atlas zur Weltgeschichte (世界歴史地図) Westermam
オラドゥール人虐殺の謎 小学館文庫


追記(9/23付)

 9/20(金)付、朝日新聞朝刊国際面(9頁)に特派員(国末憲人氏)が、オラドウールの虐殺について記事を載せていました。
 その記事では、アルザスについて一言も語っていません。若者の狂気が虐殺を生んだとの認識です。アルザスの州都ストラスブールになぜ欧州議会が設置されているかの意味(フランスとドイツの和解)が判っていないのでしょう。