話 題;  
1. 「進化」という言葉
2. 「江戸将軍」について
3. 「茶 杓」について

 言い古された言葉ですが、月目の経つのは早いもので、今年も早「皐月の5月」です。
ご無沙汰しています。諸兄には、如何がお過ごしでしょうか。お元気のことと拝察します。

 本紙の主幹 池端さんに刺激されて、この号を発行してみました。私の場合は例によって例の如く、暇人の戯言(たわごと)です。紙くず箱へ投げ捨てる前に、ご一読を頂ければ幸甚です。


1.「進化」という言葉

 この言葉は、物事が徐々に発達、発展していくという意味です。現存する動植物の種の起源と密接に関連して使われるものです。しかし、現在「進化、もしくは進化論」は生物に関する分野にとどまらず、多くの分野で使われています。
 例えぱ、
 *情報革命で人間は、「情報空間内存在」になり、インクーネットで人類は一つの「グローバル・ブレイン」に進化し、かくて世界に革命がもたらされる。
 立花隆「インターネット探検」「インターネットはグローハ“ル・ブレイン」
 *「~ディズニー進化諭へようこそ~」というホームページもあります。
参考までにこのアドレスは:<<http://www.disnism.com>>

 はたまた、進化という言葉をつけた経済学の学会もあります。
 *進化経済学会 Japan Association for Evolution Economics

 これらはこの言葉の使用例のほんの一部です。これほど広く受け入れられている言葉、つまりその考え方、もしくは概念の歴史を概観してみます。

 この地球上の生命は、誕生以来数十億年にわたって途切れることなく連綿と続いてきています。生物は、実にさまざまな種からなり、変化に富んでいます。その中には恐竜のように既に死に絶えた種も多くあり、また、今後絶滅する種もあることが予測されています。しかし、現在まで生き延びてきた生命は、激烈な変遷を経験してきたことも事実です。

 このような生物の多様性を理解するためには、種の変遷のダイナミックスを考えなくてはならないとの要請が19世紀になって出てきました。
 この頃、器官の形成というミクロな視点と、マクロな生存競争の視点から、生物の進化(evolution)の学説が論じられるようになったのです。
 進化論によれば、種は固定されたものでなく、初め一つの起源から出発し、時間経過に従って多様な生物の世界が展開して行くものだということです。
 実証性のある進化論を提唱したのが、イギリスの博物学者チャールス・ダーウィンだったのです。
 人間の手による品種改良と似た働きが、自然界にもあるに違いない。生命が持続して来た現実を見れば、生命は白然界を生き抜く力を自ら備えているように思える。そのための有効な働きが「変異」ではないか。
 ダーウィンは、このように考えて『種の起源』(1859)を刊行し、環境に適した種が自然に選択されるという「自然選択説」を世に間うたのです。

 以下は、次号とさせて頂きます。

 なお、『種の起源』の正式な書名は、『自然選択による種の起源-生存競争における有利な品種の保存-』 (On the Origin of Species by Means Natural Selections or Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life)
 という長いものです。


2.「江戸将軍」について

 将軍は、正式には<征夷大将軍>といいます。古代(平安初期)においては東北地方の蝦夷を征伐するために朝廷が臨時に派遣する軍隊の総指揮官を指しましたが、後には征夷の意味がなくなり、鎌倉時代以降、幕府政権の長たる者の称となりました。
 徳川家康は、源頼朝、足利尊氏にならって征夷大将軍の職を望み、1603年(慶長8)就任が認められ、江戸に幕府を開設しました。そして、家康は二年後の1605年(慶長10)、将軍職を三男家忠に譲り、世襲により徳川氏が政権を担当することを示したのです。
 (この時期、大阪城には豊臣秀頼が健在でしたし、家康は秀頼が成人のあかつきには、天下の仕置きをさせるとの誓紙を故太閤秀吉と取り交わしていたのです。従って、このことは政権の纂奪を明確にしたことになります)

 以来、将軍職は1867年(慶応3)の王政復古によってこれが廃止されるまで十五代、足掛け265年に亘って継承されました。
 なお、将軍就任者は、源氏長者、奨学院・淳和院別当などの名目を兼ねることが仕来りとなっていました。

 ここで、話を変えましょう。
 今年のNHKの大河ドラマ「利家とまつ」にまつわる話を少々。

 ご存知のように、金沢藩主「前田家」は、織田信長の家臣前田利家を家祖とする家系ですが、金沢藩主として、加賀国金沢に賦せられたのは、三代目の前閏利常(家系では利家の次男)の時代だったのです。利家は、関が原の合戦の前年に死亡していますし、その長男利長は、幕府から謀反の疑いありとの嫌疑を懸けられた(家康は出兵を命じました)ため、早々に引退して前田討伐の回避をしました。(この嫌疑を晴らすために「利家の妻まつ」が自ら江戸へ赴き幕府の人質になったのです。)
 そのようなことで、金沢藩百万石の実質的な開祖は、利常とするのが北陸加賀の人達の常識とのことです。利常は文武両道に優れ、朝廷や貴族、京都の文化人との交際もあり、金沢が文化的に先進の城下町となったのは、その功績といわれています。

 数年前、地方の活性化のため石川県の関係者が地元では著名の「前田利常」を主人公とするドラマを作って欲しいとの依頼をしたのですが、全国的に見れば、「利常」は無名の人でした。
 この時代の前田家の物語として視聴率を期待できるのは、信長、秀吉を絡めた「利家」でなくてはなりません。また、この時代のスペクタクルシーンとしては、関が原の戦いとなるのですが、利家は既に死亡していたのですから利家だけではこのシーンを作れないということになり「利家の妻まつ」を引っ張ってきて、物語を構成しているという次第です。そんなことからすれば、このドラマは苦心の作といえます。
 更に付け加えれば、「おまつさん」の事跡が記録として見られるのは、関が原の合戦以降とのことです。ですから、松鳴菜々子演ずる若き目の「まつ」が、十四歳で初陣し、数々の武功を誇る利家を励ますなどのことは、バーチャルな世界で、非常に楽しみなことです。
 この番組についての詳細は、《http://www.nhk.or.jp/taiga/》をご覧になっては如何でしょうか。

 将軍様の話は、少なくなってしまいました。次号では、15人の江戸将軍の在位年数、就任年齢、崩御の年齢などをお話したいと思います。  


3.「茶杓」について

 小生の現時点の作業の中の一つに竹材による「茶杓」の製作があります。
「茶杓。それ、なあに?」でしょうか。

 茶の湯で茶入れから、お茶を掬い取る「匙」のことです。もともと竹の茶杓は、茶人が一会のもてなしのために、自ら削って作るものと、云われています。
とはいえ、お茶の世界には全く無縁の小生がこれを作っているのは、ただ単に竹細工の世界を楽しんでいるといったところです。

では、小生の最新作をご覧下さい。
 銘は「日永(ヒナガ)」としました。???如f可です。ボケた写真でよく分からない。でしょうか。

 茶杓に纏わるお話としては、ご存知かもしれませんが、次のようなものがあります。
 この世界では巨星である千利休にちなむものです。

 利休が秀吉から切腹を命ぜられ、堺に下るときに淀川べりで利休を見送ったのは、弟子のうち、古田織部、細川三斎の二人だったのです。そして、利休はこの二人に形見の品として、茶杓を贈っています。
 遺品として、茶碗でもなく、棗でもなく、二人に贈ったのが茶杓であったということは、茶人自らであると当時の人々の気概を伝えるものだと云われています。
 古田織部は、表面を真黒塗り(内側も真黒)、窓を付けて、杓を取り出さずとも中身が見られるようにした筒を作り、これに遺品の茶杓を納め、「泪」と迫銘し、朝夕拝したとも言われています。
 そんな茶杓をお茶の世界に無縁の小生が作るなどとは、世の中、間違っているのではないのと、云われそうです。ですが、まあ、堅いことをいわずに、暇人の手慰みと思い何とか作っているのですが、作り始めてみると、これが思う様にはならないものです。

 苦労話は、次号で!!!

ところで、今晩、何にする? やはり、よく冷えたシュタインヘーガーですか・・・…