主題;プロイセンについて

 プロイセンについては、30号にて若干ふれたが、その成立から滅亡までを追ってみたい。

1.十字軍

 東ローマ(ビザンチン)帝国は11世紀後半からセルジュークトルコにその領土を纂蝕され、ついにはコンスタンチノープル対岸まで迫られた。
 東ローマ皇帝アレクシウス1世は1095年ローマ法王ウルバン2世に救援を求めた。ウルバン2世がフランス出身であったこと、神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝ハインリッヒ4世と聖職者皇帝叙任権で争っていたため、ローマ法王はフランスのクレルモンで『聖地を奪われたキリスト教徒が悲惨な目にあっている、聖地奪還と聖戦に倒れた者の天国への保証』などとの大演説を行った。
 第一回(1096~99)十字軍は、フランスとノルマン(シチリア)騎士が中心となつてエルサレムを占領した。道中及ぴエルサレム市内では殺戮・賂奪・婦女暴行はすさまじいかぎりであった。

 第2回十字軍   1147~49
 第3回十字軍   1189~92 
 第4回十字軍   1202~04
 第5回十字軍   1228~39
 第6回十字軍   1248~54
 第7回十字軍   1270

 第一回十字軍の時聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団が結成され聖地防衛に当たり、第三回からドイツ騎士団が加わり聖地守護3大騎士団となった。
 聖ヨハネ騎士団は回教徒によりエルサレムから追出された後、ロードス島とその周辺の島を統治していたが(1310~)、1522年トルコに攻められて1530年マルタ島へ移住した。
 その後マルタは1798年ナポレオンによりフランス領、1800年にはイギリス領となり、1964年に独立1974年に共和国となった。米ソ首脳レーガンとゴルバチョフがマルタで会談し冷戦に終止符を打っ場所としては何か因縁深いものがある。
 テンプル騎士団の顛末については詳らかではない。


2.北への十字軍

 ドイツの東側に位置するポーランド、チェコ、ハンガリーなどは10世紀にはキリスト教化されていた。従って「遅れた地域のキリスト教による文明化」というドイツの殖民から逃れられた。
 キリスト教修道士と十字軍からの騎士団とを合せたドイツ騎士修道会は1226年~1237 年にかけて非キリスト教徒であるバルト海沿岸のプルッツエン(プロイセン)、現在のリトワニア、ラトビア、エストニアヘと向かうこととなったのである。
 プルッツエン人は文字を持たず、時間的概念も知らず、一夫多妻や捨子などキリスト教徒から見て野蛮と思われる風習があり、ドイツ語・ポーランド語とも違う言語で進歩の遅れた親戚ではなく未開人と看傲された。
 ドイツ騎士修道会は剣を携えたキリスト教会であり、洗礼を受けない者は即座に殺された。十年間にわたって大虐殺が行われプルッツエン人は絶滅の危機に陥り、その後100年間で植民して来たドイツ人、ポーランド人、その他近隣のスラブ系と完全に混じりあったためその言語・歴史は全く残っていない。
 しかしながら、征服者が自らを被征服者の名前プロイセン人と名乗った。


3.修道会国家

 騎士修道会は残虐行為の後、植民と国家建設により繁栄して行く。選挙により修道会総長が選ぱれる宗教共和国であり、騎士修道会の騎士は官吏であった。14世紀、プロイセンは他の植民地(ポメルン、シュレジエンなど)よりはるかに裕福となった。
 ダンツィッヒ(現在はポーランド領グダニスク)、ケーニックスベルグ(ロシヤ飛地カリーニングラード)などの都市が建設され、農場経営者の貴族や自由で裕福な農民がいる国家となった。
しかしながら、政治は修遺会がが行い、修遺会の後継者は神聖ローマ帝国から補充された。
 1466年西プロイセンはポーランド領となり、東プロイセンはポーランドの宗主権のもとでの修道会国家となったが、帝国及び皇帝はなにもしなかった。


4.プロイセン公国

 1525年修道会国家最後の総長ホーヘンツオレルン家の一員であつたアルブレヒトが修道会国家を解散し、自らポーランドの宗主権下において世俗の「プロイセン公」となっ た。


5.ブランデンブルグ

 ザクセン エルベ川の東からオーデル川までの地域にノルトマルクが設定されたされたのが937年~982年、スラブ人が住んでいる土地であった。
 ベルリンあたりはブランデンブルグ辺境領と呼ぱれ12世紀からアスカーニア侯家が支配していた。13世紀には皇帝を選出する選帝侯として帝国内の一大強国になったがしぱらくして没落した。
 ニュールンベルグ城伯であったホーヘンツオレルン家のフリードリッヒ6世が1415年にブランデンブルグ辺境伯に叙任されたが、貴族との抗争で領内を制圧するまで200年の歳月を必要とした。
 1618年、ブランデンブルグのホーヘンツオレルン家がプロイセンを相続。


6.プロイセン王国

 プロイセンが長い間神聖ローマ帝国領でなかったこと、ポーランドとスエーデンとの戦争中に努力してポーランドの宗主権から切離されていたことから、ブランデンブルグ選帝侯フリードリッヒ3世は、1701年プロイセンのケーニクスベルクに於いて、プロイセン王フリードリッヒ1世として即位した。
 この時ホーヘンツオレルン家が領有していた「ブランデンブルク」、「ボメルン」、「アンスバッハ」、「バイロイト」、「クレーヴ」などの全領土が「プロイセン王国」となっていった。
 フリードリッヒ大王は、1742年オーストリアからシュレジエンをて1772年ポーランドから西プロイセンを略奪、、1756年~オーストリア、フランス、ロシア、スエーデン、神聖ローマ帝国との7年戦争を戦いぬいた。
 1793~95年にかけプロイセン、ロシア、オーストリアの3ヶ国によってポーランドは分割された。1918年、ポーランドは独立するが1938年ナチスドイツにより占領される。


7.ドイツ帝国
 

 プロイセン王国はフランスとの戦いに勝利し、て871年プロイセン国王がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。プロイセン人はプロイセン国籍とドイヅ国籍の二重国籍を持っていた。
 プロイセン王国はドイヅ帝国の中で生き続け、連合国によって1947年プロイセン国家の解体が宣言されその歴史を閉じた。ロシア、ポーランド領となった旧プロイセン(東西プロイセン、ポメルン、シュレジエン)からは700年の間、自分たちの土地であった場所からドイツ人のみならず、混血したスラブ人の子孫であるプロイセン人が追放されたのである。
 デュッセルドルフ市内から空港へ向かう道路脇に「ダンヅイッヒ」の文字だけが刻まれた大きな石碑が立っている。


8.あとがき

 1979年、ライプチッヒでの展示会に「複写機RX1200」を出品、アテンドで彼の地を訪れた時、巨大な対ナポレオン戦勝記念碑を見た事、又東ベルリンでウンター・デム・リンデン通りに続くブランデンブルグ門を見た事を思い出す。
 何れもプロイセンが作った建造物であろうか。

 1871年にドイツが統一されたのに父親がプロイセンのパスポートを持っていたというドイツ人の話を1980年に聞いたが、今回プロイセンについての本を読んで納得した。

 現在パレスチナでは紛争が起こっているが、十字軍退却の後、1920年までは回教徒が支配していた土地である。ローマ帝国によって追放されたユダヤ人が2000年前ここは我々が住んでいた土地だと言ってそこに国を作る凄さには圧倒されてしまう。

 十字軍以降回教徒とキリスト教徒との戦いに関しては、塩野七生薯「ロードス島攻防記」、「コンスタンチノープルの陥落」、「レパントの海戦」等がある。

 

参考図書

図説プロイセンの歴史 東洋書林
世界の歴史中世編 中公文庫
国民の歴史 産経新聞杜
Grosser Atlas zur Weltge㏄hichte(世界歴史地図) Westermann