図書名

茶経 

図書番号;

011

     付 喫茶養生記    

著 者 名     林 左馬衛
 安居 香山
発 行 者     
出 版 社     株式会社 明徳出版社
初版発行年月日     昭和49年5月30日
(1974)
定  価     1.300.-
購入価格;1.300.-
神田神保町/風月洞書店
購入年月日     2008/11/01
ハードカバー、紙ケース入り
 


中国古典新書 
「茶経」 付喫茶養生記

凡 例
一、茶経には通釈のあとに、大典禅師の茶経詳説の全文を併記した。茶経詳説が茶経以上に古来茶人た
  ちに心読されてきたいわば古典でもあり、今日では容易に入手できなくなっているためでもある。
二、茶経に続いて栄西禅師の喫茶養生記の全文を併せ収めた。
三、読者の便を考えて、巻末に茶具参考図、茶史年表、抹茶・煎茶の各流派の一覧表を付した。

 解 説

一、『茶経』『茶経詳説』    林 左馬衛

 『茶経』は、唐の陸羽が著わした茶の専門書である。専門書ではあるが、それは茶と人間とが始めて文化的に対話した記録なのでもあった。その意味で『茶経』は、中国文化の良識を代表する書物の一つという事ができるであろう。この書物が著わされるに及んで、茶と融和して暮して行く人間のあり方が、始めて本格的に率直に問いただされたのである。『茶経』が、専門書ことに実用図書であったにもかかわらず、中国文化史上の古典として迎え入れられた理由がそこにある。

 書物の古典性は永遠であり、人間の良識もまた永遠である。しかしながら、傾向的に永遠性を追い求めて行けば容易に古典が誕生するというわけではない。古典には前後時代と隔絶した個性があり、また古典は、その古典を生んだ時代の人間の心を代表する。『茶経』は唐人が生むべくして生んだ、もっとも唐人の所産であるにふさわしい、代表的な古典の一つである。その意味で『茶経』は、通時的な中国人の良識に対する、唐代人の良識の対話の記録でもあった。『茶経』が、唐代人の教養をよく具体化した書物として珍重された理由がそこにある。

 永遠なる良識つまり文化は、私たちに古典性を感じさせるし、同時代での実用性つまり教養は、私たちに時代性を感じさせる。しかしながら、古典性と時代性を打って一丸として魅力を感じさせるものは、著者の個性であって、古典性や時代性の側の問題ではない。その意味で『茶経』は、可及的に文化的でありたいと願う同時代人の良識に対する、陸羽自身の良識の、対話の記録なのでもあった。『茶経』が前後の時代に隔絶した孤独な著作として後世に残された理由がそこにある。

  『茶経』に特有な良識が、根本的にいかなるものであったかという難問に迫ることは、容易なことではない。別の表現を借りるならば、これは『茶経』のどこに注目して読み直す必要かおるのかということにもなるだろう。ぼく自身はまだ、この努力を試み始めたばかりだから、声を大にして警告するほどの成果は持っていない。しかし『茶経』が他に隔絶している属性の一つに、あるいは”働らく者”の本という性格があるのではないかという疑念を、代りに披露しておきたい。この疑念がぼくにささやかな註釈書を書き続けさせた原動力だったからである。

  『茶経』にあって他書にない魅力は、労働の喜こびを大らかに謳い上げてあますところがないという点にあるのではないだろうか。もとより今日から見るならば、やや姑息な分類癖や、学術論文じみた完全癖がちらついて、若干なまぐささえ感じさせる趣きもあるし、農産物に関する専門書でありながら、栽培よりはこの農産物の利用の方面にばかり重点が置かれているということもあろう。しかしだから価値かおるのではなく、やはり労働する者と共に考え、これから労働に加わろうとする人々のために親切に説明して行こうとする態度それ自体に、陸羽のそして『茶経』の、もっともきわたった良識が潜んでいるのではないだろうか。

 陸羽の生前、つまり陸・羽が『茶経』をまだ書き改められる時代に、茶はすでに税の対象になっていた。つまり安定した農産物へと向っていたのである。しかし陸羽は、それよりももっと古風な茶について語るうとする姿勢をくずしていない。栽培に触れることが少いのは、時の流れに便乗することをもって能としない匣羽の人柄に、いくばくかの原因があるような気がしないでもない。

 『茶経』の著者陸羽について、詳細に述べられる紙巾がここにはない。それでただ陸羽における伝記類と作品との接点に関する所見だけを述べておこうと思う。文人としての陸羽は、その本性が何処においても所を得ない人物、つまり中国の古典語を借りるならば狂人であったかも知れないが、文人社会の中で生きられない人物、つまり私たちの用語においての変人・奇人ではない。その意味で陸羽は良識人である。問題は彼の人間性が、何故に『茶経』という、他の文人に果し得なかった古典をものし得たかという謎にかかっている。彼自身の個性を駆って、他の文人が果しえなかった業績を可能にする方向へと導いて行ったものを、もし彼の経歴の中に見出そうとするならば、それは一つしかないが、一つだけは確実にある。それは彼が、若い時に俳優としての訓練を受け、その道の人として人々から認められるような存在になっていた、という一事である。ぼくは彼が、終世俳優として暮したのでなくて、一日この社会から飛び出して、文人社会の人として再編成された人間であったことに、注目したいのだ。『茶経』における記述の具体性と説明の迫真力を味わっていると、古典をなしえた彼の偉大な個性の中で、最終的には、俳優としての訓練によって鍛え上げられ若い時代に身についたものが、たるみなく息づくようになったのだと感じないわけには行かない。これが中核であると思うがもちろんそれだけではない。第二に李季郷という至って古典主義的な人物に出遭ったことが考えられなければならない。この、顔真郷の後を追って湖州の刺史になった陸羽の直接の上司は、陸羽とはおよそ正反対に人間性の構造が異っていたから、それだけ過不足があり過ぎて間尺に合わなかった野人陸羽と唐代文化の間をつなぐ媒介者たり得たと考えられる。第三に皮日休という友人である。このいつも影のように陸羽を補佐していた詩人が現われなかったら、陸羽のような狂人が文人社会に定着できたはずもなく、従って私たちは一つの古典を永遠に失ってしまったことだろう、と思われてならない。第四に捨て子として寺で育てられた、遠いかすかな記憶である。遠ければ遠いほど、その記憶は確実に業績をしめくくる。『茶経』の九之略に現われている思想は、思うにこのことと無縁ではあるまい。陸羽の伝記史料は、年代的には全く飛び飛びにしか分っていないが、残っている部分は、ひどく具体的であって、それだけ世間にありふれた悩み多い陸羽像をみせつけてくれるが、もちろんそれらの細々とした事実も大切でなかったといえないにしても、古典性の形成という課題の前では、それほど深い意味は持たないと判断したい。

 図書としての『茶経』は、伝写される中に三種の異本を生じていたが、北宋時代の後期に陳師道という学者が類聚して、今日の『茶経』を完成したのである。この意味から云うならば、『茶経』を中国古典文化史の軌道に乗せた媒介者は陳師道である。今日の『茶経』が、陳師道の好みによってどの程度に改編されたか分らないと云えば分らないが、現状でのぼくの認識においては、よく唐代の香りを残しているから、その意味で『茶経』は、宋人としてはもっともよい人にめぐり会った幸福な古典であったということになる。

 清朝の『四庫全書総目提要』は、『茶経』を子部譜録類食譜之属に収めている。これは今日の図書館の目録を引得する上で重要な知識になる。しかしながら四庫分類法は作品の先蹤(せんしょう)が明白である場合はよいが『茶経』のような型破りな古典を分類する際には、どうしても後継作品の性格の側から、強く牽引されることになってしまう。その意味で必要以上に古典主義的な味解をあらかじめ強要しすぎてしまう性質があるから、作品それ自体の評価に当っては、気をつけなければならない。『茶経』を分類上子部に帰属せしめるという点では、ほとんど異論がない。しかしながら子部の中のどこに帰属せしめるかという話になると、提要以後はともかくとして歴史的には、全くまちまちである。そこにはその時代その時代での茶の現実が反映しているほかに、目録作成者の永遠への読みも反映しているはずなのだ。その意味でかつて『茶経』を、小説家・雑芸・農家・食貨に分類した古例、かあったことを思い出しておくことは無意味ではないだろう。そのことが『茶経』の本文に対する読みを、角度をかえてたびたび検討し続けなければならないことを、暗示しているように思わせるからである。

 本叢書の性格を考え、研究史を顧みて、ぼくは二つの試みを忠実にやってみるほかに仕方がないと考えた。第一は、今日の研究水準の高さを最も底辺から支えていた、日本の釈大典顕常(1719~1802)の『茶経詳説』 (安永三=一七七四刊)という、今日では入手困難な研究書の本文提供である。各段落ごとの最末にこれを置いて、窮極的にこの偉大な文献を玩味できるように全体を構成した。第二につとめて先人のすぐれた説を採り、ぼく自身が得て来た多くの暗示を、会注の間に留めてみたいと考えた。この方法は山田孝雄先生の『万葉集講義』の顰(ひそ)みにならったままである。ことに、近年に至って刊行された三つの註釈書の知識が不可欠であると信ずるが故に、語釈の領城であたう限りその鋭い問題提示をそのまま収録させていただいた。三つの註釈書とは、盛田嘉徳氏の『茶経』(昭和二十三年河原書店刊)、布目潮風氏の『茶道古典全集第一巻』所収のもの(昭和三十一年淡交社刊)、青木正児先生の『中華茶書』所収のもの(昭和三十七年春秋社刊)である。誤解なきを期するために、手ごろの字書を活用する傍ら、これらの名作を直接翫味していただきたいものと念願する。

 本書の本文は、一方に『茶経詳説』を置いた関係で、この文献を対比味解する上でもっとも穏当と考えられる明版「欣賞篇」木を主とした。布目氏が校勘に用いられた底本の中では「丙本」にもっとも近い。もとより一つの試みに過ぎないが、宋本が必らずしも万全でない以上、明版の検討もまだまだ試みられなければなるまい。

二、『喫茶養生記』   安 居 香 山
一、栄西禅師と喫茶養生記
栄西(1141~1215)禅師は日本臨済宗の開祖で、字は明庵、葉上房と号し、また干光国師という。備中吉備津の人で、俗姓は賀陽氏であった。十一歳、郡の安養寺の静心に師事し、十四歳で落髪して叡山の戒壇に登った。師が大きな足跡を残したのは、中国への二度にわたる渡航が影響するところ大である。当初は二十歳の時、仁安三年(1168)であり、この時は四月に渡航し、四明山、天台山などを廻り、その年の九月に帰国している。しかし臨済宗を開くことになったのは、二度目の宋国への渡航であり、師四十七歳の時、文治三年(1187)より建久二年(1191)に及ぶ五年近い滞在であった。そしてこの間、虚菴懐敝より禅宗嗣法の印可を受けている。

 師には興禅護国論、出家大綱などの著書があるが、喫茶養生記は、わが国における独立した茶書の最初のもので、茶種をもたらした功績と共に、師を茶祖と仰がしめる理由もまたこの著書にある。茶に関する師の知識は、「大国の風」を実見し、また茶に関する文献を見ることによって学んだもので、早くから深い関心を寄せていたものと思われる。しかし本書が述作されたのは晩年においてであり、本書の序によれば当初は承元五年、師七十一歳の時であり、再度これが書かれたのは、建保二年、師七十四歳の時であった。そしてこの時は、吾妻鏡にしるすところによると将軍源実朝の病気にあたり、良薬としての茶を献ずるに副えて、本書を献上している。

 本書は上下二巻に別れているが、本来、養生記とあるように、喫茶の作法や、その心構えを書いたものでなく、仙薬としての茶の医学的効能を書いたものである。しかも、下巻は、「喫茶法」もあるが、むしろ仙薬としての桑の効能や飲み方を書いており、本書を茶桑経といってよいほどである。現にこれを東福寺の僧、季弘大叔(1421~1487)は蔗軒日録で茶桑経と呼んでいることを森鹿三先生が指摘されている。(茶道古典全集、第二巻、解題)
本書は、栄西禅師の著書であるため、中国古典新書に収めるのは、必ずしも妥当でないが、日本の茶書のさきがけであると共に、原文は漢文であり、その内容が茶の効能をしるして詳しいので、茶経の附録とするにふさわしいと考えて、敢えてここに収録することとした。

 その言わんとするところは、本書の内容を読めば明らかであるが、五部の加持による内的治療法と共に、五味の摂取による外的治療法を兼ね合わせて、内外両面よりする身体の保全を説かんとするところに、仏教者としての栄西の面目があるといえよう。特に下巻は「大元帥大将儀軌」にのっとって、病気の原因を考え、これにもとづいてその治療法を茶や桑に求めたもので、禅師独特の養生法というべきであろう。その意味からすれば、茶書というより医書というべきであろうが、本書ができて以来、抹茶喫茶の風習が大いに流行し、茶の発展に寄与するところ大であったのであるから、茶書の中にこれを数えることも、また理由のあるところである。

二、喫茶養生記のテキストについて
前節において、栄西禅師が喫茶灑生記を執筆するに当って、その晩年二度にわたってこれを筆にされたことを述べた。承元五年(1211)と建保二年(1214)である。このことはその序文によって知られるもので、前者は初治本といい、後者を再治本といっている。序文のところを、更に詳しく書きだしてみると、次の通りである。
初治本 于時承元五年辛未歳春正月一日謹叙
再治本 于時建保二年甲戌春正月日謹叙
一体こうしたものが、何故晩年に書かれたのか。また数年足らずして、再治本がどうして書かれたのかについては、服部敏良先生の考論に詳しいので、それを引用しておきたい。

  現存の初治本には、「承元五年正月、染筆謹書」と記され、あたかも本書が、この年に、はじめて書かれたような感じを与えている。しかし、この年栄西はすでに七十歳の老人である。このような老境、枯淡の境地にある人が、前述のごとき自信と羂気にみち、外国礼讃をありありと示したような文を書く筈がない。従って、栄西が帰朝後まもなく、おそらくは、「興禅護国論」を記したころの、栄西の意気、まことに軒昂たるときに書かれて、その後発表もせず、一時手許においていたのを、誰かの仰せを承って、前記承元五年正月に浄書、献上したもので、仰せの主とは、おそらく後鳥羽上皇であろうと考えられる。

 さらに再治本には、建保二年正月、浄書したことが記されている。「吾妻鏡」には、同年二月、将軍実朝が宿酔のため病臥したた際、一椀の茶とともに「茶を誉むる書」一巻を献上したとあり、この書こそ、前月栄西が浄書した再治本であったと推測される。(人物叢書附録第一二六号、「喫茶養生記」雑感)

 このように、本書は二種あるが、再治本は初治本を整理したと見られるため、内容的には初治本の方が詳しい。しかし現存する両本の書写本は各種あり、その間に出入りがあって一定しない。従って、印行されている喫茶養生記も、底本としたテキストによって異同があるが、森鹿三先生校定によるもの(淡交新社、茶道古典全集、第二巻、昭和三十三年初版)は、初治本、再治本とも諸テキストを校定した労作で、現在のところこれ以上にでることはできない。

 本書に掲げたものは、初治本によるのであるが、森先生の校定本以上にでることができないので、特に先生のお許しを得て、そのまま利用させて頂き、校注については、必要最小限に掲げることとした。諸テキストの解説も、森先生の解題に詳しいので、それによってその概略を掲げてみたい。なお訳文についても、森先生の労作があるので、主としてそれによったが、一部私なりの訳も加えた。却って劣訳となっているのではないかと、恐れている。

 初治本には、寿福寺本と多和文庫本とがあるが、後者は最近発見されたもので、これによって、寿福寺本の誤脱が完全なまでに補訂でき、初治本の原型が復原できるようになった。

 寿福寺本 現在鎌倉寿福寺の所蔵で、鎌倉国宝館に依托保存されている。美濃判で十八枚、毎半葉九行、一行の字数は十七・八・九字で不定、十五枚目と十六枚目の間に、一枚の落丁がある。巻末に 「雪下山等覚院」の印が捺してあり、もと鎌倉八幡宮供僧坊の一つである等覚院の什物であったようで、何時、寿福寺の所蔵となったか明らかでない。鎌倉末か南北朝に書写されたもののようで、栄西四自筆とすることは無理とされている。本書は虫食いもなくよく保存されているが、多年の閲読を経て、一部摩滅のところもある。

 多和文庫本 香川県志度町多和文庫所蔵本で、永島福太郎氏が発見された。表紙左上に喫茶養生記の標題、右下に梅(ママ)尾閼伽井坊とあり、巻首初行に高山寺、十無尽院と香木舎文庫の三印、上欄右に集古清玩、左に多和文庫の印かおり、これによってもと栂尾高山寺の子院、閼伽井(あかい)坊の所蔵であったことが知られる。江戸初期の書写と思われるが、初治本を複原する貴重な資料である。羨濃判十五枚、毎半葉十行、一行の字数は、十八、十九、二十字で不定である。寿福寺本には訓点があるが、本書にはない。

 再治本には三種のテキストがありそれぞれ、多少の異同がある。

 史料編纂所本 影写本で、原本は高野山に所蔵されていた永仁写本で、故橋本進吉博士が発見され、東京大学に借り出し中、関東大震災で焼失した。これは、その前の影写本である。大日本仏教全書所収の喫茶養生記は、これが底本となっている。横半裁判二十九枚、毎半葉の行数は十行ないし十四行、毎行字数も十一字ないし十四字で不揃いである。

 建仁寺本 江戸時代の印刷本で、元禄甲戌すなわち七年(1694)の日附があり、同年の開版と思われる。これには「両足院蔵板」とあるため、板木が建仁寺塔頭の両足院に蔵されていたようである。森先生の考証では、このテキストは当初、京師書房の柳枝軒が彫刻したものを、後に買いとるか、寄附されるかによって、両足院の所蔵となった。美濃判、袋綴の一冊本、すべて二十葉、毎半葉九行、毎行十七字、返り点、送り仮名を施すも、句読点はない。

 群書類従本 塙保己一の編纂した叢書で、文政二年(1819)の刊行にかかり、その巻三百六十五に収められている。美濃版十六葉、毎半葉十行、毎行二十字、句点、返り点、送り仮名を施している。白蓮社空阿の所蔵本を底本として、これを忠実に転写したものと考えられている。

 茶道古典全集で森先生は、再治本については建仁寺蔵版本を底本とし、これと同系統の史料編纂所影写の永仁五年書写本と群書類従所収本との異同を校定している。なお東洋文庫、「日本の茶書1」所収の喫茶養生記は、群書類従所載本の再治本を底本とし、諸岡存校注本・多和文庫本を参考としている。

 喫茶養生記の所引文献を考証された森先生は、その解題においてこれを分析し、栄西禅師の引用した二十二種の文献は、白氏六帖・白氏文集を除いた他は、すべて太平御覧によって援用したもので、師自身は茶経そのものを見ていないのではないかと推論されている。そしてその太平御覧についてぱ、多少の問題はあるが、北宋刊本であったであろうと推定されている。
参考論文として、服部敏良著、「鎌倉時代医学史の研究」(吉川弘文館刊行)所収、「喫茶養生記・病儀論の医学的考察」をあげておきたい。


あとがき

 茶は、東洋人の生活に不可欠のものであると共に、伝統的な日本文化を考える上において、茶の道は欠くことができない。近時縁あって、煎茶道の世界と関係を持つようになって、その感を特に深く持った。
 茶経を本叢書に加えることについて小林社長から相談を受けたとき、兼ねてその方面の研究に深い関心を寄せておられた、畏友の林左馬衛氏に思い至り、依頼することとし、私は附録的に喫茶養生記をやらせてもらった。凝り性な林氏が、茶経詳説をつけて、詳しい註釈をされたのに対して、私は森鹿三先生のを頼りにして、簡略にすました。これは、中国古典新書とされる本叢書からすれば、あくまで栄西禅師のは附録的なものであるのと、森先生ので尽されているからである。
 しかし、茶の道が、単に芸事として盛んに行われるだけでなく、その根源にさかのぼって、文化の流れの中で理解されることが必要と考えているので、この本がその一助ともなれば、幸いである。そして、抹茶・煎茶を間わず、日本人の糧として、この道がますます栄えることを願って止まない。
 茶具解説図一現代の茶道流派などは、林氏の外、土居雪映、森本信光両氏に多大の協力を得た。ここに深甚の謝意を表する次第である。